リレクとドレ
『影牢』はリュウグウ家の家宝である。
王宮でリュウグウの血を継ぐ者がこれをしている可能性が高い。
とにかく、これだけでも王宮に伝える必要がある。
「くそ」
いらだちが思わず声になる。壊れかけた壁はもう直っているだろう。
すでにネフェの全身は湿っている。
結界内の湿度が風や魔力の守りさえも通過して、ネフェの肌に張り付く。
何かやばい。
乾かすか。
だが、うまく魔力が出ないことに気付く。
やはり毒か。
徽章の魔法石を使い、解毒と回復魔法を同時に始める。
さらに魔力増幅。それを足裏に集めて練り上げさらに圧縮。
床に叩きつける。
焦っていることは自覚している。
本来なら、ここまで自分を追い詰めた敵を褒める感情が湧く。
だがそれがない。
敵は最後まで姿を現さないで、このまま自分を仕留めようとしているのか?
踵に伝わる衝撃。わずか、皮膚の厚さよりも少しだけ透明な壁がめり込んだ感触がある。
撃ち抜ける。
身体が落下したのはそのときだ。
敵が術を解いた。
空中に投げ出される。
予想はしていた。だが、タイミングがあまりにもよすぎる。
全力で押し切ることに舵を切った瞬間に梯子を外された。
落ちる衝撃で水を飲んだのが分かった。
同時にネフェの目が見えなくなった。
いや、というより身体が何も感じない。
身体に衝撃。床に落下した。痛覚は死んでいないようだ。地面に落ちたわけではない。たぶんまだ結界の中。
「飲んだな」
水中で話すような、くぐもった女の声。おそらく魔法で声を変えている。
ネフェもすかさず返そうとしたが、喉は動かない。声を忘れてしまったみたいに感覚がない。
「言っておくがいかに徽章でもこの術の解体は無理だ」
呪術か。
即座にそう思い浮かぶ。
もちろん相手の話を真に受けてはいけないが。
魔法使いが後天的に自分の術式をゆがませることがある。失意、恨み、絶望、多くはそんな精神的なショックがあったときだ。
その人物は、術式の歪みに耐え切れずほどなく命を落としてしまうことが多い。
ただそのとき生き残った者は、呪いと呼ばれるような歪な魔法を使えるようになる。
強弱では計れない魔法。それを使った者も受けた者も、死ぬよりもつらい人生を歩むことになる。
おそらくその魔法石を使っている。相応の反動があることを覚悟のうえで。
これは水の劣化魔法だろう。
そうネフェは判断する。
「間もなくお前は何も感じなくなる。生きてはいるが、意思で身体を動かせなくなる―――、」
そいつは良かった。
そう返す。本当に言えたかは自信がない。敵が喋っているときにどんどん耳が聞こえなくなったからだ。
感覚はない。ネフェは左手の指輪の一つに、渾身の魔力を込める。
魔力は宝石の中の術式に触れたとき、それは魔法に変換される。
だがネフェの硬質化した魔力はその変換を拒むことができる。
すると、その魔法石に込められている術式の方が『外に出る』。
そんなことをできるのは彼女一人だけだ。
術式は変えるべき魔力を求め、周囲にある自然の魔力を次々に魔法に変えていく。
そのときネフェが「外に出した」のは、土の魔法だ。
フ
息を吹きかけるほどの一瞬。その一瞬で大量の土砂が『影牢』の結界内を満たしていた。
もちろんネフェも、黒装束の女も中にいる。
『影牢』の効果を内と外で逆転させていることが幸いだった。
術式が貪欲に結界外の魔力を集め続け、さらに空間を土で満たしていく。
『影牢』は結界の広さをほぼ無限に変えられる。だが重量には限界がある。
土で埋め尽くされ、結界の高度が下がる。
そして壊れた。だが土の勢いは止まらない。
感覚がないネフェには、もはや魔力を出しているという自覚もない。意識が切れるまで魔力を土に変え続ける。
空中の大量の土砂がさながら大瀑布となって麦畑へ落下していく。
だが彼女の指輪の方が持たなかった。
ネフェと敵を巻き込んだ土の瀑布が、麦畑と民家、森の一部を飲み込んでいく。
自分が気絶したのかどうかさえ、もはやネフェには判別がつかない。
だから大量の土を跳ね返し、彼女が土砂に流されるのを救ってくれた男の存在を知ることはできなかった。
***
ネフェとの別れの実感もまったくないまま、次の瞬間にはシュアは天井からの真っ白い光に照らされ、思わず手をかざしていた。
撮影のライト並みに明るい。何も隠し事ができないぞと言われている気がしてくる。
後ろのロイエの様子を見るが、目を閉じて、滝にでも打たれているようにじっとしている。
そのまま強い光が二人の頭上へ降り注ぎ続ける。
「入りなさい」
この世界にはないと思うが、機械音声のような、どこか無感動な、極限まで抑揚がそぎ落とされたような女の声がそう言った。
「いくぞ」
ロイエがそう言って、すぐ背後にあった扉を開ける。
部屋を出ると、長身の女が二人を見下ろしている。
180センチほど。ネフェと同じか、ただ筋肉がない分、心なし目の前の彼女の方が高い気がする。
三十代前半くらいだろう。黒髪を後ろでまとめ、黒のジャケットとロングスカート。白手袋。
冷たい瞳の奥は蓋をされたように無機質で、何の感情も読み取れない。
前世の誰とも違う。あえて言えば、映画の世界にいるような規律の権化みたいな鉄の女。
ただシュアはそれほど怖さはない。どちらかといえば、自分もそちらの部類だったから。
「ロイエ、そちらは?」
「女王様の命により、お招きしたシュア・マド様です」
「少し予定より早いおつきの理由は?」
間髪なく次の質問。
「報告したとおり、襲撃に合いました」
「伺っています。なぜ『雷光』を使ってまで日にちの短縮を?」
「敵の次の行動に備えるために、シュアは速やかに城に移すべきと考えました」
「ではそれが敵の目的だとしたら?」
ロイエは答えることができない。
いやがらせか、とシュアは思うが、ロイエの雰囲気は、不当な扱いを受けているというより盲点だったという顔をしている。
「まさか」
「いいえ、細工は見られませんでした。しかしその可能性を考えれば、もう少し配慮できたはずです」
女はくるりと身をひるがえす。
「今日はもう遅いです。ロイエはシュア様をお部屋へ。そのあとはあなたも身体を休めなさい。明日はいつも通りの時間に。それとも、一日休みますか?」
「いいえ、いつも通りで」
「ではその通りに」
ロイエはその背中に深く頭を下げる。
ドアが閉まり、ゆっくりとロイエは顔をあげた。
「じゃあ、行くか」
「今の人は……」
「女王直属筆頭騎士、カルヴァ様だ。悪い人ではない」
おそらく自分のすべてを王宮や女王優先にしているのだろう。
個人的には話が合いそう、というのが印象だった。
筆頭というからには、役職はネフェよりも上ということか。
「不眠のカルヴァとも言われる」
「不眠」
思わずシュアは問い直す。
「彼女は眠らない。だからこんな時間にもいる」
こんな時間って、シュアが『飛んだ』時間はまだ宵の口だったはずだ。
「いや、もう今は深夜だ。とにかく子供が寝る時間はとうに過ぎてる」
シュアの表情でロイエは、瞬間移動のことを理解していないと察する。
「あっちからこっちまで一瞬だったが、結構移動に時間はかかるんだ」
「そうだったんですか」
なるほど。
なんて感心していると、ロイエの顔色が真っ青だということに気づく。
「ロイエさん、顔」
「この魔法はかなり力を使うんだ」
ネフェとしていた話を思い出す。
「私にできることはありますか?」
「いや、今部屋まで連れて行くから、あれ……」
倒れてしまった。
とりあえず、応急処置か。
うつ伏せなので、あおむけにして気道を確保。
心臓マッサージ、は大丈夫か。気絶だろうこれは。
だが気絶って放置していいのか?
呼吸は、しているな。
なんてやっていると、再びドアが開いた。
入ってきたのは、メイド服姿の二人の若い女性。
二人はてきぱきとロイエの状態をさぐっているが、開け放たれたドアから、さらに二人の少女がやってきた。
金髪のロングと黄緑のショート。色白耳や鼻がつんと長い。明らかに神国人だと分かる。
「任務中だってのに寝てやがる」
黄緑の短髪少女がロイエを見下ろしながら言う。
白のワイシャツに紺色の半ズボンを釣っている。ロイエよりも年下だろう。十代なるかならないか。両手に二つずつはめた指輪が歳不相応に目立つ。
シュアより頭一つ分高いが小柄な部類だ。
「ロイエさん、大丈夫なんですか?」
金髪ストレートロングの可憐な感じの少女がそう声をかける。
制服なのだろう、カルヴァと同じジャケットスカート。
身長は短パン少女より頭一つほど高い。
ただ抜群にきれい。指輪も似合っている。
AI画像のような抽出化された美しさ、といえばいいだろうか。
とにかく見とれるほどきれい。
ただその口調は、言葉ほど心配していない。もっといえば逆の感情が含まれている気がする。
「ええ、魔力の急激な欠乏によるものでしょう。部屋に運びますので」
そんなやり取りが入ってくる。
どうやらロイエは大丈夫らしい。
シュアもホっと息をつく。
なんて思っていると、短髪のボーイッシュ少女がシュアを見ている。
「お前がお前か」
「ドレ、それじゃ分からないわよ」
即座に美女少女が窘める。
「私はリレク、こっちの元気な子はドレです」
「ええと、シュアです」
一応頭を下げる。
そんな二人は、シュアをまじまじと見て、ドレがメイドに声をかける。
「シュアは私たちが連れてくから」
「はい。よろしくお願いします」
ドレの言葉に敬語でメイドが答える。
「じゃあついて来い」
と言われても。
シュアはロイエを見る。
するとメイドと目が合い、行けと合図がくる。
しかたなく自分の荷物を持って、彼女はその言葉に従う。




