麻雀再興の旅
――翌朝。
場末の雀荘には、昨夜の熱気など嘘のように静けさが広がっていた。
外には朝靄が漂い、まだ人通りもまばら。かすかな光が差し込む室内では、タバコの残り香と酒の匂いがまだ漂っている。
クラリッサはひとり、散らかった酒瓶を片付けながら卓に腰を下ろしていた。
指先でそっと牌を撫でる仕草は、もう酔いどれ女帝のものではない。
そこにあるのは――昨夜、少年の冷たい瞳に突きつけられた「問い」を胸に刻んだ者の姿だった。
やがて、静かな気配に誘われるように人影が増えていく。
リオが無言のまま現れ、その鋭い眼差しで彼女を見据える。
サラはおずおずと戸口から顔を覗かせ、胸に芽生えた期待を隠せずに足を踏み入れる。
そして最後に、ゴルド爺がパイプを片手にのんびりと姿を現す。
まるで、自然と引き寄せられるように――。
昨日まで酔いどれに沈んでいた女帝のもとへ、三人の視線が集まった。
クラリッサの横顔は静かで、しかし確かに「再び立ち上がろうとする者」のものに変わっていた。
――その空気に、もう昨日の沈んだ影はなかった。
クラリッサは卓の上に並べられた牌を、ひとつひとつ指先でなぞった。
その冷たい感触は、かつての栄光と、失われた誇りの記憶を呼び覚ます。
長い沈黙のあと――彼女は静かに口を開いた。
「……私は、もう一度麻雀を大陸に取り戻す」
その声は、誰に向けたものでもない。
勇者アレスに奪われ、忘れ去られかけた文化。
人々の胸に微かに残る熱狂の残滓。
すべてを再び燃やし直すと――それは、己自身に突きつける“誓い”だった。
低く艶やかなその言葉は、まるで場末雀荘の薄暗さを切り裂くように響く。
失ったはずの女帝の威厳が、わずかながら確かに戻っていた。
リオも、サラも、ゴルド爺も――息を呑んでその背を見つめる。
もはや彼女の言葉を笑う者はいない。
クラリッサの宣言は、ただの独り言ではなかった。
それは、再起を誓う者の第一声。
かつて失った誇りを取り戻すための、確かな“誓いの言葉”だった。
リオは卓の脇に立ち、腕を組んだままクラリッサを見下ろした。
その表情に感情の揺らぎはなく、冷え切った瞳が彼女を射抜く。
「……ふん。大きなことを言うな」
低く吐き捨てるような声。
だがその声音には、どこか押し殺した熱のようなものが微かに滲んでいた。
「本当に“雀帝”だったなら……証明してみせろ」
あくまで挑発。信じてはいない。
しかし、完全に嘲ることもできない――。
昨日の一局で垣間見たものが、彼の心に棘のように残っているからだ。
クラリッサにとって、リオはただの生意気な少年ではない。
彼は常に心をかき乱し、挑発で揺さぶる存在。
だが同時に、その言葉は彼女が再び立ち上がるための“試金石”でもあった。
リオの瞳は冷たく、だがどこか期待を拒めない色を宿していた。
サラは胸の前でぎゅっと拳を握りしめ、震える足をなんとか前へ踏み出した。
その瞳は迷いながらも、まっすぐクラリッサに向けられている。
「……わたし、信じてます」
小さな声だった。けれど、その響きは雀荘の空気を確かに揺らした。
「クラリッサさんなら……きっとできるって」
彼女の声には確かな熱があった。
看板娘として、ただ笑顔で牌を並べるだけの日々。
しかし胸の奥では、勇者アレスによって衰退していく麻雀文化を誰よりも間近で見てきた。
だからこそ――「もう一度広めたい」という願いが、彼女を突き動かしていた。
サラの言葉は、迷いを抱えたクラリッサの背中を押す一陣の風となる。
その純粋なまなざしは、皮肉でも挑発でもなく、ただ信じる者のまっすぐな光。
クラリッサは一瞬だけ息を呑んだ。
自分が長らく忘れていた“信じられる存在”の温もりを、その声に感じてしまった
ゴルド爺は椅子の背にもたれ、長年の癖のようにパイプを口へ運んだ。
香ばしい煙をひとつ吐き出すと、細めた瞳の奥に懐かしさを滲ませながら、ゆっくりと口を開く。
「……まったく。今の若ぇもんは、麻雀の本当の面白さを知らん。ならばワシが伝えねばなるまい」
その声音は、叱責にも似ていながら、不思議と温かみを帯びていた。
かつては雀士として名を馳せ、今はただの酔いどれ常連に見えていた彼が――その言葉の端々に、長年培った経験の重みを滲ませる。
「クラリッサ、お前さんが本気でやるというなら……ワシも旅に加わろうじゃないか」
にやりと笑い、肩をすくめる。
それは大仰な宣言ではなく、まるで“長い夜の続きを楽しむ”かのような気楽さ。
だが、その一言に込められた意味は重い。
ゴルド爺は、若者たちに知識を授け、ときに茶化して空気を和ませる“指南役”。
彼が加わることで、この即席の旅路はただの無謀ではなく――確かな伝承の物語へと変わっていくのだった。
四人の間に、言葉は要らなかった。
リオは冷たい瞳の奥に僅かな光を宿し、サラは両手を胸の前で固く握りしめ、ゴルド爺はパイプをくゆらせながら目を細める。
そしてクラリッサは――かつて「雀帝」と呼ばれた女。
唇の端を持ち上げ、あの頃を思わせる冷笑を浮かべた。
「……では――旅の始まりだ」
ギィ、と音を立てて扉を押し開ける。
差し込む陽光が、薄暗い雀荘を切り裂くように広がった。
その光の中へ、四人の影は迷いなく歩み出す。
背後に残された雀荘は、もう彼らの居場所ではなかった。
そこはただ、再出発のために立ち寄った古びた舞台にすぎない。
「こうして――落ちぶれた女帝と、その奇妙な仲間たちによる“麻雀再興の旅”が始まった。
その道の果てに、再び大陸に炎を灯す日が来るとも知らずに――」
 




