運命の局、開幕
南場の最終局面――。
長き激闘を経て、卓上には二人だけが残っていた。
点棒状況は明白だ。リードを許さぬ“絶対者”アレス。追い込まれ、わずかな希望にすがる“雀姫”クラリッサ。
数字は冷酷に、勝敗の天秤を傾けている。
だが、アレスの表情は変わらない。冷徹に積み上げられる牌、その指先には一切の迷いも熱もない。
「すでに勝利は揺るがぬ」――その確信が、彼の背に揺るぎない覇気をまとわせていた。
クラリッサは深呼吸をひとつ。震えそうになる胸を押さえ、己を落ち着けるようにゆっくりと息を吐く。
そして――最初の一打を切った。
その小さな動作だけで、会場全体が張り詰めた沈黙に呑み込まれる。
誰もが理解していた。これが最後の局、運命を決める瞬間の始まりだと。
――すべては、この一局に集約される。
アレスの手牌は、まるで盤石な城壁のごとく積み上がっていった。
一打一打は偶然の産物ではない。ただの幸運でもない。
――必然。
彼が打ち込む牌はすべて、数学の定理のように無駄なく整えられ、完成形へと収束していく。
その姿はもはや“麻雀”ではなく、“計算された理の実現”に他ならなかった。
「勝利は理によって保証されるものだ」
無言でそう告げるように、アレスは淡々と牌を置いていく。
観客席から漏れる吐息。
「……やはりクラリッサでは届かないか」
「理に挑むなんて、不可能だ……」
静かな絶望が、会場全体を覆っていった。
クラリッサの前に並ぶ手牌は、まだ形になりきらない未完成の群れだった。
明らかに粗く、アレスの「理」と比べれば、あまりに心もとない。
安全に流す道はある。安牌を切れば、この局は穏やかに終わる。
だがそれは――同時に敗北の確定を意味していた。
(……それじゃ、だめだ)
胸の奥に浮かんだのは、散っていった仲間たちの姿。
竜王リンドブルムが見せた、恐れを超えて踏み込む勇気。
サラが最後に残した、「楽しむ」ことを忘れぬ笑顔。
そして――リオのまっすぐな声。
「君は一人じゃない。僕らがいる」
震えていた指先が、仲間の声を受けて静かに力を取り戻していく。
瞳に迷いが消え、クラリッサは己の心を込めた牌を、ゆっくりと卓上へ送り出した。
会場が息を呑む。
その一打は、敗北を恐れず未来を掴みに行く、彼女の決意そのものだった。
クラリッサの手から滑り落ちたのは、誰もが「安全」と見なしていた牌ではなかった。
彼女が切ったのは――むしろ危険に見える一枚。
「……なっ!」
観客席が一斉にざわめく。
「自殺行為だ!」
「いや……待て。あれは……」
波紋のように広がる声が、場を震わせる。
だが当のクラリッサの表情には、一片の迷いもない。
彼女の瞳は澄み切り、まっすぐに卓を見据えていた。
(これが……私の麻雀)
仲間たちから託された想い。
勇気も、楽しさも、支えてくれる声も――すべてを心に刻んだ彼女は、直感を信じた。
その一打は、単なる危険牌の放銃ではない。
絆に導かれ、自らの道を選ぶという“宣言”だった。
卓上に鳴り響いた小さな牌音は、観客にとって雷鳴にも似た衝撃となって響き渡った。
アレスの手は、完璧だった。
理が導き、確率が裏付け、すべての流れを掌の上に置いている――誰もがそう信じていた。
「すでに詰んでいる」
その眼差しが、無言でそう語っていた。
クラリッサの前に待つのは、逃げ場のない罠。
一手でも誤れば、即座にアレスの和了――それが誰の目にも明らかだった。
しかし次の瞬間。
クラリッサの指先が、ゆっくりと山に伸びる。
――そして、掴み取った。
その牌を見た瞬間、彼女の胸の奥が熱く燃え上がる。
(これだ……!)
全身を駆け巡る衝動。
理ではなく、確率でもなく、ただ“信じる心”が導いた答え。
「――ツモ!」
声が響いた瞬間、卓上が閃光のように弾けた。
叩きつけられた牌が、アレスの完成形を粉々に砕く。
「な……っ」
初めて、アレスの瞳が揺らいだ。
理を積み上げた絶対者が、ひとりの少女の“奇跡の一打”によって崩れ落ちる。
その光景は、誰の目にも“必然を超えた奇跡”として焼き付いた。
「……私の、理が――敗れただと……?」
アレスの声は、卓上の静寂を裂くように漏れた。
普段の冷徹な響きではない。
震えていた。
その瞳が大きく見開かれ、初めて“感情”の色が差す。
驚愕。混乱。否定。
――そして、理解。
理によって支配してきた世界が、音を立てて崩れていく。
積み上げてきた完璧な計算式が、少女の“心の一打”によって打ち砕かれた。
「そんな……あり得ない。確率も、理も、すべて私の側にあった……!」
呟く声が、どこか哀しげだった。
クラリッサはただ、静かに卓を見つめていた。
勝ち誇ることも、叫ぶこともせず――ただその結果を受け止めるように。
アレスの手から牌が零れ落ちる。
淡々としていたその指先が、今は微かに震えていた。
そして――
「理を越えるものが、あるというのか……」
彼の体がゆっくりと椅子に沈み込む。
それは敗北ではなく、“崩壊”だった。
次の瞬間、会場が爆発した。
歓声が嵐のように渦巻き、民衆が立ち上がる。
「クラリッサ!」「勝ったぞクラリッサぁ!」
その熱は、もはや勝敗を越えていた。
“絶対者”を打ち破った“人間の希望”への、心からの喝采だった。
「クラリッサ! クラリッサ!」
最初は小さな声だった。
しかし、それは瞬く間に波となり、やがて――嵐となった。
観客席が震える。
誰もが立ち上がり、名を叫び、涙をこぼしていた。
「勝ったんだ……本当に、あのアレスに……!」
「すごい……でも、ただ強いだけじゃない……!」
クラリッサは卓上に手を置き、肩で息をしていた。
頬には涙が伝っていたが、その表情は――確かに笑っていた。
「……私、負けたくなかった。でも、それ以上に……」
息を整え、震える声で続ける。
「私は……私たちは……“楽しんで”この場所にいる!」
その言葉に、歓声が一段と高まった。
勝敗ではない。理でもない。
彼女が掴み取ったのは――“心そのものの勝利”だった。
リンドブルムの豪打も、サラの笑顔も、リオの言葉も、
すべてがこの瞬間にひとつの光となって彼女を包み込む。
涙の中で笑うクラリッサを見て、誰もが確信した。
――ああ、この勝利は、みんなのものだ。
卓上に響く拍手と歓声が、まるでひとつの旋律のように重なっていく。
それは「人の心が理を超えた」瞬間の証明だった。




