――この対局は何を示すのか
――卓上に残ったのは二人だけだった。
アレスとクラリッサ。
竜王も、希望の象徴も散り、場を支配するのは冷徹な空気と少女の鼓動だけ。
アレスは変わらぬ無表情で牌を指先に受け取り、寸分の狂いもない動作で卓に置く。まるで精密な機械が作業を繰り返すように、そこには余計な熱も感情もなかった。
観客はその姿に息を呑む。
――もう勝負は決している。
そう錯覚してしまうほどの、圧倒的な“完成された姿勢”。
対するクラリッサは、膝の上で強く握った手を解き、深く息を吸い込む。震えそうになる指先を意識で押さえ込み、目を閉じてから、静かに開いた。
「……いける」
心の奥で小さくつぶやき、一枚の牌を卓へと送り出す。
乾いた音が鳴った瞬間、会場にわずかな緊張の綻びが生まれる。
少女の一打は、まだ細くとも確かに“抗う意志”を示していた。
アレスの指が静かに動く。
たった一枚の打牌。
だがその一打が、クラリッサの可能性を一つ確実に潰していく。
彼にとってそれは「選択」ではない。
必然の延長。計算の帰結。避けようのない道筋。
クラリッサは思わず息を詰めた。
進めようとした形が、次の瞬間には行き止まりに変わる。
和了りを目指す前に、道を封じられてしまう。
――これでは、進めない。
観客もその構図を悟った。
「……勝負にならないのでは」
ざわめきとともに、諦めに似た声が漏れ始める。
卓上に座るアレスは、まさに“支配する勇者”。
彼が牌を置くたび、場の可能性が削ぎ落とされていき、残るのはただ一つ――彼自身の勝利への道筋だけだった。
クラリッサの胸は、押し潰されそうな圧力でいっぱいだった。
アレスの打牌は、まるで世界の理そのもの。抗えぬ流れに飲み込まれ、足掻くことさえ許されない――そう思った瞬間、彼女の指先は小さく震えていた。
そのとき、脳裏に聞き慣れた声が甦る。
――「打ち筋は心を映すんじゃ。迷いのある打ちは、必ず形に現れる」
ゴルド爺の言葉。
ただの教えではない。長い日々を共にした師が、心に刻んでくれた信念。
「……私は、まだ折れてない」
クラリッサは震える息を吐き出し、両の手をぎゅっと牌に添える。
逃げの選択肢は山ほどある。だが、それでは“心”が負けてしまう。
彼女は深く吸い込み、そして――ひとつの牌を、迷いなく切り出した。
カチリ。
その音は小さくとも、観客にははっきりと届いた。
「あ……まだ闘っている」
誰かが呟いた瞬間、どよめきが広がる。
クラリッサの瞳は揺れていなかった。
彼女は確かに、立ち上がろうとしていた。
クラリッサは牌を指に挟んだまま、一瞬視線を落とした。
追い詰められるたびに胸をよぎるのは、冷徹なアレスの影。だが――その闇の奥から、不意に明るい笑い声が蘇る。
――「勝つことだけが麻雀じゃない。楽しんでいいんだよ!」
あのとき、誰よりも自由で、誰よりも眩しかった少女。
サラは負けても笑っていた。最後の一打で散りながらも、その笑顔は決して曇らなかった。
「……そうだね」
クラリッサの唇が、自然と柔らかく緩む。
勝つためだけに震える自分じゃない。恐れに囚われるだけの自分でもない。
――楽しんで、笑って、この場に立つ。
ほんの小さな笑みだった。けれど、それを観客は見逃さなかった。
「……笑った?」
「クラリッサが……!」
小さなざわめきが、声援へと変わっていく。
会場の空気が少しずつ温まり、押し潰されかけていた雰囲気に光が差し込む。
クラリッサは微笑んだまま、静かに一打を置いた。
その姿はまるで、サラの心を引き継いでいるかのようだった。
クラリッサは指先に汗が滲むのを感じた。
目の前に積まれた牌は、どう見ても危険だ。
切れば――アレスの冷徹な読みの網に絡め取られるかもしれない。
心臓が跳ね、呼吸が浅くなる。
安全に逃げる道は、まだ残されている。
けれど――その選択をした瞬間、自分の闘いは終わってしまう。
「……っ」
そんなとき、不意に脳裏に響いたのは、リオの声だった。
――「君は一人じゃない。僕らがいる。だから前を向け」
胸の奥で何かが震え、熱くなる。
そうだ。自分は独りで戦っているんじゃない。
この場に来るまでに支えてくれた仲間たちがいる。
彼らの声援が、確かに背中を押している。
「私は……もう逃げない!」
震える指を止め、クラリッサは危険牌を掴んだ。
そして、恐れを振り払うように、力強く卓へと放つ。
「……っ!」
観客席からどよめきが起こった。
安牌を切らず、あえて勝負へ踏み込んだ――その勇気が、流れを繋ぎ止める一手となったのだ。
クラリッサの瞳は、もはや怯えではなく、確かな光を宿していた。
アレスの卓を支配するような和了には、いつも重苦しい沈黙が広がった。
サラが笑顔で仕掛ければ、観客は手を叩き、歓声を飛ばした。
だが――いま。
クラリッサが震える指で危険牌を放つたびに、観客は息を呑み、目を凝らす。
その一打一打に、皆が自分の心を映し出されているかのように感じていた。
「……いけ!」
「負けるな、クラリッサ!」
最初は小さな声援だった。だが、それは一つ、また一つと重なり、やがてうねりとなる。
「クラリッサ! クラリッサ!」
会場全体が呼び声で揺れた。
それはもはや観戦者の声ではない。
恐怖に抗い、成長しようとする少女の背に手を添える、仲間たちの声だった。
クラリッサはその声援を受け、強く頷いた。
彼女の闘いは、もはや自分だけのものではなかった。
卓上には、いつの間にか単なる勝負を超えた構図が立ち上がっていた。
アレス――。
その打牌には一片の揺らぎもなく、ただ「絶対の理」が刻まれていた。感情を排し、勝利を必然とする冷徹な手筋。卓を支配する存在そのもの。
クラリッサ――。
彼女の指先は震えながらも確かに仲間の想いを背負い、サラの「楽しむ心」とリンドブルムの「踏み込む勇気」を胸に宿していた。勝つためだけではなく、打つことそのものを楽しみ、人として立ち向かう象徴。
その二人が向かい合った瞬間、会場は息を呑んだ。
もはや誰も「どちらが勝つか」だけを見てはいない。
――この対局は何を示すのか。
――麻雀という営みにおいて、理に支配されるのか。
――それとも人の心が、それを越えていくのか。
勝敗を超えた意味が、卓上に問いかけられていた。




