酒と安手に生きるクズ女王
その夜も、場末の雀荘はいつものように、だらしない熱気と煙に包まれていた。
安い酒をあおりながら牌をつまむ酔客たち。
乾いた笑い声、牌を切る音、煙草の煙が天井近くで薄く揺らめいている。
――華やかな王都の大会場とは、似ても似つかぬ世界。
ここに集うのは夢を失った者たちと、酒と小銭を求める者たちばかりだ。
そんな沈んだ夜の空気を破るように。
――ギィ、と重い扉が軋んだ。
全員の視線がそちらへ向く。
そこに立っていたのは、一人の少年。
幼さを残した顔立ち、だが瞳は鋭く、場の空気を一瞬で支配する冷たい光を宿していた。
入ってきたのは、年の頃十二、三歳ほどの少年だった。
まだ子供らしい輪郭の柔らかさはある。だが、その双眸――異様なまでに鋭く、氷の刃のように場を切り裂く光を放っている。
背筋を伸ばし、無駄のない立ち姿。
ただそこに立っているだけで、薄汚れた雀荘の空気が張り詰めていく。
常連客たちは、最初こそ面食らい、すぐに半笑いでざわついた。
「なんだガキが……ここは遊び場じゃねえぞ」
「迷子か? 親でも呼んでやれよ」
嘲りと軽口。だが――少年は一切相手にしなかった。
その視線はただ一人を射抜いている。
卓の奥、酒瓶を抱えていた女――かつての「雀帝クラリッサ」。
リオは迷いなく、その席へと歩み出した。
卓の向こうから視線を感じ、クラリッサは酒瓶を煽りながら、だるそうに顔を上げた。
赤らんだ頬、崩れた化粧。かつての威光はどこにもない。
だが、少年は一歩も退かず、その瞳の鋭さを隠そうともしなかった。
そして――正面から告げる。
「……あんたがクラリッサだろ。“雀帝”と呼ばれた女。伝説は、俺も聞いた」
その名が口にされた瞬間、場末の雀荘にざわめきが走る。
――クラリッサを、いまだそう呼ぶ者がいるのか。
常連たちの顔には驚きと嘲笑が入り混じっていた。
クラリッサは一拍置き、鼻で笑う。
酒気を帯びた声で、皮肉たっぷりに吐き捨てる。
「フン……昔話よ。今はただの、酒と安手に生きるクズ女王。……伝説だなんて、笑わせるわ」
少年は一歩も退かず、むしろ踏み込むように言葉を放った。
「そうだな。今のあんたじゃ――勇者どころか、オレにも勝てない」
その瞬間、雀荘の空気が凍りついた。
酒と煙草の臭いが充満する場末の空間が、一転して張り詰めた沈黙に包まれる。
「お、おいガキ……言いすぎだぞ!」
「相手が誰だと思ってる! クラリッサ様だぞ!」
常連客たちが慌てて茶々を入れるが、リオは一切取り合わない。
まっすぐにクラリッサだけを見据え、挑発の言葉を重ねるような眼差しを崩さない。
その挑発に、クラリッサの瞳が――ほんのわずかに、鋭く光った。
酔いに濁った目の奥で、かつて「雀帝」と呼ばれた女の残滓が、確かに息を吹き返していた。
クラリッサは手にしていた酒瓶を卓に置くと、わざとゆっくりとした仕草でグラスを口に運び、最後の一滴を飲み干した。
空になったグラスをコトリと置き、唇の端を吊り上げる。
「……生意気ね」
その声音には、先ほどまでの酔いどれの濁りはなかった。
場末雀荘のざわめきが止み、常連たちが固唾を呑む。
クラリッサはニヤリと笑い、挑発を返すように少年へ視線を突きつける。
「いいわ、坊や。――見せてちょうだい。あなたの“勇者ごっこ”を」
リオの瞳が鋭く光り、二人の間に静かな火花が散る。
誰もが冗談だと思いたかったが、二人の放つ気配はそう告げていた。
こうして――
落ちぶれた元雀帝と、天才少年の初対局が、幕を開ける。
――カチリ。
牌を積む音が、場末雀荘のざわめきを切り裂いた。
卓に向かい合うのは、落ちぶれた元“雀帝”クラリッサと、年端もいかぬ少年リオ。
「ガキが相手じゃ瞬殺だろう」
常連客の誰もがそう笑い、肩をすくめて見物していた。だが、すぐに気付く。
空気が――違う。
張り詰めた糸のような緊張感。
ふだんなら冗談を飛ばし合いながら打つはずの酔客たちが、手を止め、酒杯を唇に運ぶのすら忘れている。
クラリッサは片肘をつき、余裕めいた笑みを浮かべる。だが、真正面から向けられたリオの眼差し――澄みきって、鋭く、場を貫くその視線に、酔いがふっと引いていくのを自覚せざるを得なかった。
「……ふん。面白い子ね」
クラリッサは扇子の代わりに酒瓶を軽く揺らし、虚勢を張るように卓へ視線を落とす。
いま、この卓だけが王都の大会会場にも劣らぬ緊張をまとっていた。
開局――最初のツモから、場の空気が変わった。
リオの手つきは異様に速い。だが、ただ速いだけではない。
捨てられる牌に一片の迷いもなく、流れるように河へと並んでいく。
「……おい、もうテンパイかよ」
「ありえねぇ……」
常連客たちがざわめき始める。たった数巡で、卓がリオの呼吸に支配されていた。
さらに恐ろしいのは、その“読み”だった。
クラリッサが形を作ろうと切った牌、その一瞬の間すら逃さず、リオの鋭い眼光が河を貫く。
そして――まるでその意図を先読みしたかのように、彼女の手筋をことごとく潰していく。
「……チッ」
クラリッサは舌打ちを飲み込み、打牌を安手に寄せる。だが、それもまたリオには読まれていた。
牌を打つたび、翻弄されていく。
“魅せる麻雀”を誇ったはずの雀帝が、いまはただ生き残るために、日銭稼ぎの省エネ麻雀に追い込まれていた。
クラリッサの指先が、微かに震えた。
「……嘘でしょ」
思わず口をついて出た言葉に、自分自身が驚く。
かつては彼女こそが、若き挑戦者を翻弄する立場だった。
どんな相手も、ひとつ二つの強打で流れを崩し、華麗にねじ伏せてきたはず。
――なのに、いまは逆だ。
この少年に、まるで手玉に取られている。
酔いのせいにしたい。
だがそれでは説明がつかない。
リオの一打には、確かに“理”と“勝利”が宿っている。
(……このガキ、本物……?)
唇を噛み、クラリッサは苛立ちを押し殺す。
自分が負ける姿など、想像すらしたことがなかった。
けれど今――胸の奥で、久しく忘れていた焦燥と動揺が、じわじわと膨れ上がっていた。
卓上に乾いた音が響いた。
クラリッサが牌を叩きつけるように切った瞬間、声が重なる。
「――ロン!」
その声は彼女のものではなかった。
正面に座るリオの口から、鋭く、迷いなく放たれる。
次の瞬間、少年の小さな手が牌を倒し、整然と並ぶ鮮やかな和了形が卓上に広がった。
シャンとした牌姿は、まるで勝利をあらかじめ約束されていたかのような美しさを放っている。
「な……」
クラリッサの瞳が大きく見開かれる。
あと一歩――そう思って強気に振り込んだその一打こそが、完璧に読み切られていた。
一手読みの差。
それが、伝説の雀帝と、十二歳の少年との明確な隔たりとして突きつけられる。
卓に広がる静寂。
常連たちは誰も声を上げられず、ただ口を開けて見ているだけだった。
「……マジかよ」
誰かがようやく漏らした呟きが、場末の雀荘に重苦しく響く。
かつて“雀帝”とまで呼ばれた女が――たかが十二歳のガキに押し負けた。
その事実を前に、酔客たちでさえ笑うことを忘れていた。
リオは勝利の喜びを見せることもなく、ただ冷徹に言い放つ。
「ほらな。伝説も……地に落ちたもんだ」
その言葉は、嘲笑ではない。
むしろ事実を突きつける刃のように冷たく、重い。
クラリッサは卓に置かれた牌を見つめたまま、呆然と動けなかった。
そして、噛みしめる唇から血の味が広がる。
――悔しい。
その感情が胸の奥からせり上がる。
長い間、酒と自嘲で押し殺し、忘れたふりをしてきた熱。
かつて、自分を“雀帝”たらしめた原動力。
それが今、確かに蘇りかけていた。
酔いの霞を突き抜けて、久しく失われていた炎が、胸の奥でじり、と灯る。




