民衆の恐怖
路地裏を歩いていたクラリッサの耳に、小さな笑い声が届いた。
足を止めて覗き込むと、そこでは数人の子供たちがしゃがみ込み、木片や木の葉を並べて即席の牌に見立て、夢中で遊んでいた。
「ロン! オレの勝ち!」
「ずるい、まだ切ってないよ!」
無邪気な笑い声が狭い路地に響き渡る。その光景は、ほんのひとときではあるが、この街から消えたはずの“麻雀のぬくもり”を蘇らせるものだった。
クラリッサは胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じる。
――麻雀は、本来こうして誰もが笑い合える遊びのはずなのに。
だが、その穏やかな時間はあまりにも唐突に引き裂かれた。
「おいッ!」
怒声と共に、鎧をまとった兵士が駆け寄ってきた。彼は乱暴に子供たちから木片を奪い取ると、石畳の上に叩きつけ、無情にも靴で踏み砕いた。
「麻雀は勇者陛下のものだ! 弱者が触れる資格はない!」
鋭い声が路地に響く。
「やめてください!」
我が子を庇おうと母親が飛び出す。だが次の瞬間、兵士の拳が容赦なく振り下ろされ、母は地面に叩き伏せられた。
「母さんっ!」
泣き叫ぶ子供を押さえつける兵士。その様子を見ていた周囲の民衆は、誰一人として止めに入れなかった。
恐怖に縛られた彼らは、ただ目を逸らし、沈黙でその場をやり過ごすしかないのだ。
クラリッサの胸に、鋭い怒りがこみ上げる。
歯を食いしばりながら、彼女は小さく呟いた。
「……これが、アレスの作った国なのね」
母子が兵士に虐げられる光景を前に、クラリッサの拳は小さく震えていた。
爪が食い込み、血がにじむのも構わず、彼女は怒りを抑えきれずに唇を噛みしめる。
「……許せない。麻雀は……誰もが打っていいはずよ!」
その声音は低く、それでいて烈火のような激情を帯びていた。
隣で老人・ゴルド爺は、長い年月を生き抜いた者だけが持つ冷静さで場を見渡す。だが、その目の奥に滲む憂いは隠しきれない。
「クラリッサよ……ここまで歪んだ麻雀支配は、わしも初めて見るわい」
仲間たちもまた、言葉を失っていた。若き戦士は拳を固く握り、魔導士は悔しげに唇を噛み、盗賊は影のように沈黙する。
誰もが重苦しい空気を感じ取り、胸の内で同じ思いを抱く。
――この地の人々に、麻雀を取り戻さねばならない。
路地裏に立つ一行の瞳には、もはや迷いはなかった。
彼らはこの勇者の王国を覆う闇に、必ず一手を打ち込むと心に誓う。
民衆の恐怖
勇者王国の心臓とも呼ばれる中央広場。
かつては商人と旅人が集い、麻雀牌の音と笑い声に包まれていた場所――。
しかし今、その光景は跡形もなく消え失せていた。
広場の中央には黒々とした「麻雀禁止」の掲示板がそびえ立ち、赤い大文字でこう記されている。
《弱者に麻雀の資格なし》
まるで血で染めたかのような赤文字が、通りかかる民衆の胸を圧迫する。
さらに掲示板の隣には、異様な存在感を放つ処刑台。
黒い布で覆われた台座の上には、冷たく光る刃が据えられている。
その一角――広場の端には、鎖に繋がれた数人の人影があった。
彼らは「麻雀の罪人」として晒されている者たち。
やつれきった顔、荒くなった呼吸、そして諦めの瞳。
それは、勇者アレスの支配がいかに徹底しているかを示す無言の証だった。
処刑台の傍らに並ばされた罪人たちは、すでに人の形を保つのがやっとだった。
頬には青あざが浮かび、唇からは乾いた血が流れ落ち、衣服は無残に裂けている。
彼らの罪――それはただひとつ。
「隠れて麻雀を打ったこと」
その程度で命を奪われるのだ。
兵士が前に進み出て、声を張り上げた。
その声は広場の石畳に反響し、群衆の耳を容赦なく叩く。
「見よ! これが弱者が麻雀を穢す末路だ!」
罪人の背中に鞭が振り下ろされ、乾いた音が空気を裂く。
誰も目を逸らせず、しかし誰も声を上げられない。
「麻雀は勇者アレス陛下のためだけのもの!
それ以外の打牌は――反逆だ!」
怒号が広場を満たし、群衆は一斉に息を潜める。
幼い子供でさえ泣き声を必死に堪え、母の裾に縋りついた。
それは、「麻雀」という言葉そのものが恐怖と同義になった瞬間だった。
処刑台の前に集められた群衆は、足を止めてはいた。
だが――誰ひとりとして罪人と目を合わせようとはしない。
下を向き、唇を噛み、ただ息を殺してその光景をやり過ごそうとする。
ひとりの幼子が耐えきれずに泣き出した。
母親は蒼白な顔で慌ててその口を塞ぎ、必死に震える声で「静かに」と囁く。
沈黙を切り裂いたのは、群衆の端に立つ老人のかすれた呟きだった。
「……もう麻雀なんて……夢に見ることすらできない」
その声は小さく、誰に聞かせるでもないものだった。
だが、奇妙なほどに周囲の耳に届き、囁きとなって波紋のように広がっていく。
「夢に見ることすら……できない……」
「……打てる日なんて、もう来ない……」
言葉は連鎖し、やがて広場全体を覆う。
それは希望を押しつぶす重石のように、人々の胸にのしかかった。
恐怖ではなく――諦め。
その空気こそが、勇者アレスの王国を最も強固に支配する「鎖」となっていた。
群衆に混じり、クラリッサ一行は変装のまま処刑台を見つめていた。
鎖につながれた「罪人」の姿――その罪状は、ただ「麻雀を打ったこと」。
兵士の怒号と、老人の絶望の呟き。
広場に漂うのは、恐怖と諦念だけ。
クラリッサは唇を噛み、拳を震わせた。
「……許せない。麻雀は……誰もが打っていいものなのに」
声に出せば即座に捕まる。それを理解しているからこそ、怒りは胸の奥で燃え続けるしかなかった。
隣のゴルド爺は、険しい表情のまま目を細める。
「……ここまで麻雀が歪められ、民の心から希望を奪っておるとは……」
仲間たちもまた言葉を失っていた。
ただ直感していた――この国では、麻雀の灯が完全に消されようとしている。
このままでは、二度と取り戻せない。
だからこそ――自分たちが立ち上がらねばならない。
クラリッサたちは無言のまま視線を交わし、その胸に「使命」を刻み込む。
麻雀を、人々の手に。
恐怖の象徴ではなく、再び「文化」として。
その決意は、処刑台の陰鬱な光景を前に、いっそう揺るぎないものとなった。
 




