これが……《悪役令嬢スタイル・改》
決勝卓に、静かに一人の男が腰を下ろした。
派手さも威圧もない。ただ質素な麻布の衣と、深い皺を刻んだ表情。無駄な言葉は一切なく、周囲を見渡すことすらしない。
それでも観客席はざわめいた。
「……あの人だ。生涯負けなしの男」
「地元最強……鉄壁の雀士……!」
「今度ばかりはクラリッサ様も分が悪いぞ」
誰もが恐れと敬意を込めて、その名を口にする。
彼の麻雀はただ堅牢。守りに徹し、決して振り込まない。だが勝負どころとなれば、一転して冷徹に攻め抜き、相手を切り伏せる。
これまで数多の雀士が挑み、敗れ、牌を置いた。中には敗北を機に引退した者すらいる。
会場全体を包む緊張は、ただの決勝戦のそれではなかった。
「雀帝クラリッサ」をもってしても、この男には届かぬのではないか――そんな不安が、人々の胸に巣食っていた。
クラリッサは卓の向かいに座り、相手を真っ直ぐに見据えた。
その瞳には動揺も驕りもない。ただ、挑戦者としての静かな光があった。
(……いよいよ来たわね。誰も崩せなかった“鉄壁”。
でも――だからこそ、ここで倒す意味がある)
牌が混ぜられ、音が響く。
決勝戦――最後の闘牌が幕を開けようとしていた。
最初の数局――卓上の流れを支配したのは、やはり中年雀士だった。
彼は無理に攻めない。
鳴きで手を安くまとめ、リーチにも頑として振り込まない。
その打ち筋はまるで鉄壁の城壁。鋭い矢のようなリーチも、奔流のような攻めも、その堅牢な守備に吸い込まれては消えていく。
「……なんて隙のない打ち回し……!」
観客の誰かが呻くように漏らす。
クラリッサは正面から挑んだ。
“悪役令嬢スタイル”――強気で華やか、舞踏会のように攻め立てる豪奢な打牌。
だが――。
「ロン」
「……ツモ」
ことごとく、空振りに終わった。
振り込まぬ相手を前に、強気な攻めは逆に隙をさらけ出す。
小さな失点がじわじわと重なり、気づけば点棒は削られていく。
中年雀士は淡々とした表情のまま。勝っても笑わず、失点もない。ただ一手一手を積み上げ、静かにリードを広げていく。
その姿は観客の目には、まさしく「鉄壁」として映った。
「クラリッサ様が……押し切れない?」
「まさか、本当に負けてしまうのか……?」
会場に広がるざわめきは、不安の色を濃くしていく。
クラリッサの唇が、ほんのわずかにかすか震えた。
(……打ち砕けない。これが、“生涯負けなし”の重み……!)
序盤戦――試合の空気は、明らかに「鉄壁の雀士」のものだった。
流れが変わらないまま、試合は中盤に突入した。
まずはリンドブルムが仕掛けた。
「リーチ、一発で決めてやる!」
竜の如き豪快な打ち回し。観客がどよめく。
だが――。
「……ふむ」
中年雀士は一切動じない。手を崩し、ただひたすらに守りを固める。結果、リンドブルムの一発は空転し、逆に細かな点を積み上げられてしまった。
次にサラが挑む。
「えへへ、ここ! 絶対ツモれる!」
子供の直感で放つ打牌はこれまで数々の奇跡を生んできた。
だが、その感性さえも――。
「ロン」
無慈悲な宣告が響く。サラの狙いは完全に先読みされ、鋭く切り伏せられた。
「う、うそ……読まれてた……?」
小さな肩が震え、観客の空気まで冷え込む。
ゴルド爺の守備は奮闘していた。鉄壁同士、老練な技で応酬し、失点を最小限に抑える。
だが、それ以上は望めない。攻めに転じようとすれば、即座に返り討ちに遭う。まるで抜け出せない迷宮のようだ。
唯一、冷静さを保っていたのはリオだった。
「……彼は攻めても守っても隙がない。リンドブルムの火力も、サラの直感も通じない……」
小声で呟く彼の瞳には、分析の光と同時に、焦燥の影も浮かぶ。
「……下手に仕掛ければ、全部返り討ちに遭う」
会場もまた、同じ結論に行き着き始めていた。
「……やはり“生涯無敗”の男には、誰も敵わぬのか」
「雀帝ですら、今回は……」
人々の希望が少しずつ萎んでいく。
その空気は重く、卓上に座るクラリッサの肩へと、確実にのしかかっていった。
――勝たなければ。
胸の奥で繰り返す焦燥が、クラリッサの指先を縛りつけていた。
「リーチよ!」
強引な宣言。観客席から歓声が上がるが、それは不安を隠すようなざわめきにも聞こえる。
だが――。
「……ロン」
淡々とした声が卓に落ちる。
中年雀士が切り札を叩きつけるように倒牌した。
クラリッサの表情が固まる。
「そんな……」
攻め急いだ代償。危険牌を誘い込まれるように掴まされ、無惨にも放銃。
点棒はさらに開き、差は絶望的なものへと広がっていく。
(どうして……!? 私はまだ、“悪役令嬢スタイル”に縋っているだけ……!)
噛みしめた唇から、かすかに血の味がにじむ。
せっかく仲間とここまで辿り着いたのに、結局一人の頃と変わっていないのではないか――。
観客席から、無情な声が聞こえてくる。
「やはり相手が悪かったか」
「クラリッサもここまでか……」
その囁きが、冷たい刃のように心へ突き刺さった。
卓上のクラリッサは、牌を握る手を震わせながら、己の無力を痛感していた。
――オーラス。最終局。
場内は張りつめた空気に支配されていた。
点差はまだクラリッサ不利。
中年雀士の顔は微動だにせず、静かに牌を積み重ねている。
その堅牢さは、まるで砦そのもの。
クラリッサは額に汗を浮かべ、震える手で牌をつかんだ。
(……どうすれば、この壁を崩せるの……?)
そのとき。
「クラリッサ!」
隣卓からリンドブルムの豪快な声が飛んだ。
「お前は俺たちと一緒にここまで来た! 一人で打ってんじゃねえ!」
「そうだよ!」と、サラが身を乗り出す。
「クラリッサは“雀姫”だよ! 絶対勝てる!」
小さな瞳がまっすぐに輝いている。
リオは冷静に囁いた。
「彼の守備は鉄壁……でも、鉄壁に穴を作るのは“心の揺らぎ”だ。君なら見抜ける」
最後に、ゴルド爺が穏やかに言葉を重ねる。
「嬢ちゃん。あんたはもう、一人じゃないんじゃよ」
――はっとする。
胸の奥を覆っていた重苦しい霧が、仲間たちの声で吹き払われるようだった。
自分は孤独に戦っているのではない。
共に歩んできた仲間が、確かに背を押してくれている。
「……そうね」
クラリッサはそっと笑った。
震えは消え、指先は静かに牌を撫でる。
瞳に再び、強い光が戻っていた。
場は凍りついたような静けさに包まれていた。
――鉄壁の守備。
それが彼の代名詞であり、これまで誰一人として突破できなかった壁。
だが、その中年雀士の手が……ほんのわずか、止まった。
(……見えたわ)
クラリッサの瞳が鋭く光る。
彼もまた勝利を渇望する人間。
その執念が、いつもの冷徹さを揺るがせた。
――守備の鎧に、一瞬の綻び。
「今よ!」
クラリッサは胸を張り、気品に満ちた仕草で牌を打ち出す。
従来の“悪役令嬢スタイル”に、仲間たちから受け継いだ冷静さと柔軟さを加えた――
新たなる打ち筋。
「これが……《悪役令嬢スタイル・改》よ!」
卓に叩きつけられた一打は、通常なら自滅の危険を孕む牌。
しかしその瞬間――彼女の手牌は鮮烈に揃った。
「逆転満貫ツモ!」
――沈黙。
そして次の瞬間。
会場全体が、爆発したかのような轟音に包まれた。
「すごい……! 本当に崩したぞ!」
「雀帝だ! 真の雀帝が帰ってきた!」
観客は総立ちとなり、割れんばかりの喝采が響き渡る。
クラリッサは静かに微笑み、震える手をそっと胸に当てた。
(……私はもう、一人じゃない。この勝利は、みんなで掴んだものよ)
その瞳には、未来を見据える光が宿っていた。
――勝負は決した。
逆転の満貫ツモで、点差は一気にひっくり返る。
場に並べられた得点棒は、クラリッサの勝利を明確に示していた。
「……優勝は――クラリッサ一行!」
審判の声が響くと同時に、会場は雷鳴のごとき歓声に包まれた。
「勝った! 本当に勝ったぞ!」
「雀帝だ! 雀帝クラリッサだ!」
観客は立ち上がり、手を振り、声を張り上げる。
「雀帝クラリッサ!」
「雀帝クラリッサ!」
熱狂の大合唱が大広間を揺らし、祭りの最高潮のような熱気が渦巻いた。
中年雀士はゆっくりと席を立ち、乱れた山をそっと整えると、静かにクラリッサへ視線を向ける。
その瞳には敗北の悔しさではなく、深い敬意が宿っていた。
「……見事だ」
彼は深々と一礼し、静かに拍手を送った。
「その打牌、確かに未来を切り開く力がある」
クラリッサは一瞬、言葉を失った。
その拍手は、勝者としての誇りを認める音。
敗北を潔く受け入れ、なお麻雀という舞台を尊ぶ者だけが送れる音だった。
彼女は観客の歓声を背に、静かに瞳を閉じる。
(……勝った。確かに私は勝った。けれど――)
胸の奥には、喜びとは別の重たい影が残っていた。
――これではまだ足りない。
勇者アレスという、麻雀そのものを否定し続ける存在には……この程度では届かない。
クラリッサは歓声に微笑みで応えつつも、その内心は決して満たされてはいなかった。
むしろ、この勝利が次なる戦いへの覚悟をより鮮烈に刻み込んでいた。
夜風が涼しく、祭りの喧騒も遠くに沈んでいた。
大会が終わった広場は、灯籠の明かりが消え、代わりに夜空の星々がきらめいている。
クラリッサは一人、石畳に腰を下ろし、夜空を仰いだ。
あれほどの歓声を浴びた直後だというのに、胸の奥は妙に静かだった。
(……勝ったわ。確かに“雀帝”として讃えられた。けれど――)
彼女の耳には、まだ観客の声が残響のようにこだましていた。
「雀帝クラリッサ!」
その称号は甘美だった。だが同時に、背負うべき重さを痛感させる響きでもあった。
「……あの人には、まだ届かない」
小さく呟く声は、夜空に溶けていく。
勇者アレス。麻雀を“無駄”と切り捨てた男。
彼の前に立つとき、今日のような勝利の形では到底足りないと、クラリッサは直感していた。
そこへ、背後から足音が近づく。
「嬢ちゃん、こんな夜更けに冷えるぞい」
ゴルド爺が毛布を持って現れた。
リンドブルムは大きなあくびをしながら、「次は俺が派手に決めてやるからな!」と豪快に笑う。
サラは眠い目をこすりつつ、「クラリッサは絶対負けないよ。だって“雀姫”だもん」と無邪気に言った。
リオは静かに微笑み、「次の相手は勇者アレス。そのときこそ……あなたが本当の答えを示す番です」と告げる。
クラリッサは仲間たちの顔を見渡した。
胸の奥にあった孤独の影が、少しずつ薄れていく。
「……そうね。私は一人じゃない」
もう“悪役令嬢”ではなく、“仲間と打つ雀士”として。
クラリッサは改めて、星空へと視線を向けた。
きらめく星々は、まるで未来を照らす光のように瞬いていた。
その先に待ち受けるのは――勇者アレスとの宿命の卓。
(待っていなさい、勇者様。必ず――必ずあなたを牌で討ち破ってみせる)
静かな誓いが、夜空に響かない声となって舞い上がる。
 




