堕ちた雀帝
――数年前。
大陸を揺るがす、運命の決戦があった。
舞台は王都の中心に築かれた、きらびやかな大闘技場。
黄金に輝くシャンデリアが光を放ち、何万という観衆の歓声が天井を震わせる。
人々の視線はただ一つ、中央に据えられた〈麻雀卓〉へと注がれていた。
そこは、ただの遊戯の場ではない。
大陸の未来を左右する、威信と権力と文化を懸けた聖域。
雀牌が打ち鳴らされるたびに、熱狂が嵐のように押し寄せ、誰もが息を呑む。
――そう、あのとき。
麻雀こそが世界を導くと信じられ、そして“雀帝クラリッサ”という名が、絶対的な王座として崇められていた。
眩い光の中、ひときわ鮮やかな存在が卓に座していた。
――若き日のクラリッサ。
紅いドレスを身にまとい、扇子を軽やかに手に取るその姿は、まるで舞台の主役。
冷たい美貌に気高き微笑みを浮かべ、指先で牌を弄ぶ仕草一つですら観客を魅了する。
「ロン――!」
高らかに響いた声と同時に、扇子がパチンと閉じられる。
次の瞬間、観客席は雷鳴のような歓声に包まれた。
「さすがだ……!」
「これぞ〈雀帝〉の麻雀!」
「ただ勝つだけじゃない、魅せるための一打だ!」
誰もが息を呑み、誰もが熱狂した。
クラリッサの一打は勝利の証であると同時に、芸術そのものだった。
その姿は、ただの勝者を超えた存在。
――麻雀という文化の象徴。
――大陸を支配する“女帝”そのものだった。
卓の向こう側で、静かに牌を並べる男がいた。
――勇者アレス。
無駄な所作は一切ない。
指先はただ必要最小限の動きで牌を置き、目線は冷徹に卓上を貫いている。
そこには華やかな魅せ場も、観客を沸かせる演出もなかった。
あるのはただ、理論と効率を極限まで突き詰めた打ち筋。
「理こそ、正義だ」
低く、しかし確信に満ちた声が響く。
観客たちは一瞬息を呑み、そしてざわめいた。
クラリッサの「魅せる麻雀」が心を掴んできたのに対し、
アレスの一打は心を凍らせる。
だが同時に、その冷徹な美しさに誰もが抗えない。
――華やかさを誇った“雀帝”クラリッサと、
――合理性を掲げる“勇者”アレス。
二つの価値観が、今、卓上で激突しようとしていた。
ナレーションが低く、冷たい余韻を残しながら響く。
――その日、雀帝クラリッサは敗れた。
最後の一打が放たれた瞬間、場内は静寂に包まれる。
クラリッサの手から力が抜け、握っていた扇子が床に落ちて転がった。
「……そんな……私が……」
その呟きは歓声にかき消され、誰にも届かない。
威厳も、誇りも、今や卓の上に散り散りとなって消えていた。
対照的に、勝者となった勇者アレスは微動だにせず立ち上がる。
彼の瞳には勝利の喜びも昂ぶりもない。あるのは冷徹な確信のみ。
「これからは――理によって国を導く。麻雀の時代は、終わった」
その言葉は、場内すべての人々の心に突き刺さった。
歓喜に震える者も、絶望に泣き崩れる者も、誰一人として否定できなかった。
――この瞬間を境に、大陸は変わったのだ。
華やかに人々を魅了した「雀帝の時代」は潰え、
冷徹な合理の時代が、音を立てて幕を開けた。
時代は、残酷なまでに速く流れていった。
王都の大通りに並んでいた雀荘は、一つ、また一つと灯りを落とし、
看板を外しては寂しく店を畳んでいく。
かつて熱気であふれた店内も、今は埃をかぶった卓が取り残されるばかり。
「客が来ねぇんじゃ、もうやっていけねえさ……」
嘆く店主の声を最後に、扉は静かに閉ざされた。
名を馳せた雀士たちも、今や生計のために武具屋や行商に転じ、
「かつては麻雀で食っていた」と語れば笑い話になる始末。
子供たちの遊び場からも、麻雀は影を潜めた。
かつては小さな手で真似事をしていた彼らも、今は盤や駒を用いた
「新しい理の遊戯」に夢中になっている。
麻雀はもはや、歴史の片隅に追いやられた古物。
“雀帝の時代”を知らぬ世代にとって、それは伝説ですらない。
――ただの過去にすぎなかった。
かくして――
雀帝クラリッサの時代は、音を立てて幕を閉じた。
勇者アレスの掲げた理の旗の下、麻雀は時代遅れの遊戯として葬られ、
人々の熱狂と共に、大陸からその文化は急速に姿を消していった。
煌びやかな大会場も、喝采に包まれた舞台も、今はもうない。
残されたのは、空虚な卓と、記憶の中の“幻”だけ。
――そして物語は、現在へ。
酒と煙草の匂いが充満する、場末の雀荘。
王都の華やかな大会会場。
シャンデリアの光がきらめき、数千の観衆が熱狂の声を上げた――あの栄光の日々から、もう幾年経っただろうか。
いまクラリッサが腰を下ろすのは、そんな輝きとは正反対の場所だった。
天井は低く、裸電球が薄暗く光を放つばかり。壁紙は剥がれ、卓は使い古され、打牌のたびに頼りない音を立てる。
空気は濃い煙草の煙で白く濁り、鼻をつくのは安酒の臭い。
そこに集うのも、王侯貴族でも選ばれた雀士でもない。
酒浸りの常連、暇を持て余した労働者、そして小銭目当ての下手な打ち手ばかり。
――熱狂も、喝采も、ここには存在しない。
場末の雀荘。
それが、かつて“雀帝”とまで呼ばれた女の、いまの居場所だった。
その卓に座る女こそ、かつて「雀帝」と呼ばれ、大陸の頂点に君臨した存在――クラリッサ。
……だが、今やその面影はどこにもなかった。
纏うドレスは色褪せ、布地は擦り切れ、裾はみすぼらしくほつれた糸を垂らしている。
鮮やかに塗られていたはずの化粧は落ち、頬の艶は酒で荒れ、髪は梳かれることなく乱れ放題。
背筋を伸ばし、扇子片手に微笑んでいたあの威光は、跡形もなく崩れ去っていた。
無造作に握った酒瓶を卓に置けば、カランと乾いた音が鳴り響く。
それは牌の音よりも、彼女が今どれほど酒に縋っているかを雄弁に物語っていた。
卓上に並ぶ牌は静かに転がり、淡い照明に照らされていた。
かつて「魅せる麻雀」と讃えられた華やかな一打は、もうそこにはない。
クラリッサの手は、ただ効率を重んじ、安手を積み重ねるだけ。
最小限の勝ちで、必要最低限の稼ぎを得る――その姿は、もはや芸術ではなく生存のための作業だった。
やがて彼女は一牌を引き寄せ、淡々と口を開く。
「……ツモ。千点」
静かに牌を倒し、肩をすくめて酒瓶をあおる。
「……まあ、酒代には足りるわね」
その乾いた言葉に、卓を囲む常連客たちはどっと笑い合った。
「ははっ、雀帝様も安くなったもんだ!」
「千点で喜ぶとはなぁ、昔は万点連発だったのによ!」
しかしクラリッサは嘲笑を気にも留めず、ただ無表情でグラスを回し続ける。
それは誇りを失った女王の、空っぽな儀式のようだった。
卓を離れた常連客たちが、煙草の煙の奥でひそひそと囁き合う。
「……なぁ、本当にあれが“雀帝クラリッサ様”なんだってよ」
「はっ、笑わせるなよ。勇者に負けてからは見る影もねぇ。落ちぶれたもんだ」
別の席で打っていた若い打ち手が、グラスを傾けながら鼻で笑った。
「もうただの酔っ払いのおばさんだろ。麻雀を終わらせた女が、まだ卓にしがみついてんのかよ」
嘲笑は囁きから、じわじわと広がる波紋のように雀荘全体を満たしていく。
かつては彼女の一打に歓声が上がった場所。今はその残響すらなく、ただ冷笑と諦めの空気が漂っていた。
クラリッサは杯を煽り、喉を焼く安酒の熱さにわずかに顔をしかめる。
そして、周囲の嘲笑を一身に受けながら、わざと大げさに肩をすくめてみせた。
「そうよ――落ちぶれた“悪役令嬢”ですもの。今さら驚くこと?」
皮肉を込めた笑みは、あまりに薄っぺらい。
かつて王都の大舞台で見せた気高い微笑とは似ても似つかない。
笑えば笑うほど、その裏に滲む虚しさが隠しきれない。
杯の縁に映る己の顔を見ながら、クラリッサは心の奥で吐き捨てる。
(……そうよ、私のせい。私が負けたから、麻雀は終わったのよ)
だが、その弱音は決して声には出さず、ただまた安酒を流し込み、喉の奥に沈めるのだった。
卓に手を置いたまま、クラリッサは一瞬だけ天井を仰いだ。
ぼやけた電灯の明かりが、かつてのスポットライトの幻を呼び起こす。
(……私が負けたせい。勇者アレスに敗れた、その一局で――この世界から麻雀の火は消えてしまった)
誰も口にはしないが、真実は彼女自身が一番よく知っている。
敗北の象徴は、ほかならぬ自分。雀帝クラリッサの失墜こそが、文化そのものの終焉だった。
だが、その事実を直視する勇気は、今も持てない。
認めてしまえば、自分はただの敗者で終わってしまうから。
だから彼女は、酒をあおる。
だから彼女は、安い点棒で日銭を稼ぐ。
(……酔って、忘れて。そうして明日もまた、この場末で小銭を拾うだけ)
卓上に倒れかけた酒瓶を支えながら、クラリッサは苦く笑った。
その笑みは、もはや誰の心も震わせはしない。
 




