第二節
「お母さん!」
都は奈美に手を伸ばした。
「ダメよ! 逃げて! 少しでもいいから、生き延びて。あなたは自由よ。どこにでも行けるわ。さようなら。私の愛しい子。愛しているわ」
彼に言葉を向けた。汲み取った都は走り始める。一気に追手を引き離していく。素足で逃げている子供を、不審に思ったのだろう。大丈夫か? 何があった? と声をかけてくる大人もいた。都には答える時間がなかった。ただ、走り続ける。田舎ではなく都会でよかった。わざと、人の通りが多い場所を選んだのである。そうすれば、追手たちは武器を使えない。都を何もできない子供だと思っているだろう。
都は近くにある広い公園に逃げ込んだ。滑り台やブランコ、ジャングルジムなどが設置されている。シーソと赤や青のカラフルな遊具には、順番を待つ行列ができている。地域で使われている運動公園らしかった。広さもあって追手たちからは見えにくい場所にあり、隠れるにはよかった。
木の陰に体を隠す。
――聞きたくない。
他の子のはしゃぐ声を聞きたくなくて、都は耳をふさいだ。公園にいる子供たちみたいに、お帰り、ただ今と言える家があるわけではない。日常が今の都には、精神的にきつい。公園を見渡す余裕もなく、一人なのだと、一人になってしまったのだと、思い知らされる。
そのまま、崩れるようにうずくまる。逃げる体力は残っていなかった。公園を見渡す余裕もなく、追手が引き下がるまで隠れておくしかない。捜して見つからないと判断したのか、追手たちの気配が遠ざかっていく。駆け引きは都と奈美が勝った。彼は緩く息を吐き出して自分を守るために、体を抱きしめる。
――痛い。
数分後、足の痛みで現実に引き戻された。気づいたら靴は脱げて、裸足で逃げていた。無数の傷ができて、血が出ている。都の中に孝の血が、流れていると思うだけで嫌になる。体中の血を引き抜いて、入れ替えてしまいたい。それはできないと分かっている。行為自体が奈美の存在を、否定してしまう行動でもある。
彼女への冒涜でもあった。
『大丈夫? けがをしたの? 見せて』
抱きしめてくれた腕はもうない。
優しい声は聞けない。
大切な存在を失って、パニックになると思っていた。自分が落ち着いていられるのか、不思議なぐらいだった。感情を失ってしまっているのかもしれない。感情を失って、笑顔や怒りも忘れてしまっていた。涙すらでない。もしかしたら、心が通ってないのかもしれなかった。呼吸をして存在し続けているだけである。生きているだけだった。
都の中に芽生えたのは、孝への報復である。彼はぎりぎりと腕に爪を立てた。新たな傷ができても、気にすらしない。血がつたい落ちていく。地面に落ちて行って土に吸収されていった。まるで、涙を流しているかのようである。
紅い、紅い、血の涙だった。
――教授に報復をするのなら、せめて自分の手でやろう。
――怒らせたら怖いのは、身内だと身に染みて気が付かせてやる。
身が朽ちようとも、思い知らせてやろうではないか。
今は静かにしておこう。何年かかっても、チャンスは巡ってくるはずである。
――息を潜めておけばいい。
体力も回復していない。
公園の隅なら、休んでいても大丈夫だろう。木々のざわめきを感じながら、都は瞳を閉じた。