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「母さんが一人で、二泊三日の温泉旅行に行きました」
母が出かけたその日のうちに、天宮はすぐさまアキラと由紀を召集した。
「こんなの初めてのことです。一体どんな心境の変化があったのでしょう」
「そりゃひとり息子が何度も引きこもってれば、心労で現実逃避もしたくなるでしょ」
アキラがおかきをバリバリ食べながら、気だるそうに答える。
「や、やっぱり、俺のせいかな?」
「当たり前だろアホ」
「ぐっ……。やっぱりそうか……」
天宮はガクッと肩を落とした。
確かに心労をかけている自覚はある。
でも限界を超えた引き金がなんなのか、心当たりがなかった。
アキラの首を鷲掴みにして片手で持ち上げていた場面を目撃された時は、かなり焦った。
でもあれはちゃんと誤魔化せたはずだ。
母は一度扉を閉めたものの、すぐにまた開こうとした。
「ああっ、やばいやばい!」
天宮はテンパり、アキラの首から手を離した。
アキラは床に跪いて、ゲホゲホと咽せる。
そうこうしているうちにも扉は開かれつつあって、もうダメだと思ったところで、アキラが叫んだ。
「ザ・ワールド!」
「ふん!」
反射的に力を込めると、世界は動きを止めた。
「おおっ。さすが俺のスタンド!」
「誰がお前のスタンドだ。馬鹿なこと言ってないで、部屋を片付けろ」
争ったせいで、部屋の中が荒れに荒れていたのだ。
二人の間に力の差がありすぎるせいで、殴り合いは意外といい勝負だった。
ゾウとハムスターの喧嘩、ただしゾウ側は相手を傷つけ過ぎないように気を付けなければならない。
天宮とアキラの殴り合いが、まさにそんな感じだった。
二人はせっせと部屋を片付ける。
「よし。じゃあお前、普通にしろよ」
「あ、ちょっと待ってください」
「なんだよ」
アキラは咳払いをして、喉のコンディションを整えた。
そしていい声で言う。
「時は動き出す」
こうしてなんとか切り抜けることができたのだ。
だからあの出来事が、母の逃避行の原因とは思えない。
アキラは服や呼吸の乱れを、適当なこと言って誤魔化していたけれど、さすがに関係ないだろう。
「ポジティブに考えましょうよ」
と由紀が明るい声で言った。
「息子の引きこもりが原因なら、あんたが脱引きこもりしたら、全て解決じゃない。ね? 簡単でしょ? ほら、手を繋いでてあげるから、一緒に外に出ましょ」
「お前は黙ってろカス」
「うっ。ち、ちょっと天宮。呼び出しといて、その態度は酷くない⁉︎」
「誰のせいでこんなことになったと思ってんだよ」
「それはマジでごめんって!」
「兄貴。そもそも、なんでこんなの呼んだんですか?」
「こんなのっ⁉︎」
「いないよりかはマシかなと思って」
「いない方がマシでしょ」
「やっぱそう? おい。もう帰っていいぞ、お前」
「いやそりゃ悪いのは私だけど、いくらなんでも扱いが酷すぎるって! これでも私、本気で解決方法とか考えてるんだからね!」
「ふん。で、なんか思いついたのかよ」
「まあね」
由紀はこほんと咳払いをする。
「天宮」
「なんだよ」
「私と付き合いましょう」
「ごめんなさい無理です勘弁してください」
「食い気味で断られたっ⁉︎」
アキラが軽蔑すような目で由紀を見る。
「この状況で発情すんなよ……」
「違う! 最後まで私の話を聞いてっ」
想像以上に自分の信用が失われていて、由紀は慌てる。
「私と付き合えば、簡単に噂が消えるじゃん。別に本当に付き合うってわけじゃないの。ただ既成事実だけ作っちゃって、それを広めちゃえばいいのよ」
「なるほど……。でも姉御はそれでいいんですか?」とアキラが尋ねる。
「まぁ、私がこの事態を招いちゃったわけだし、仕方ないわよ。別に好きな人がいるわけでもないし、それくらいのことはさせてもらうわ」
「いやでもなぁ……」
天宮の反応は、あまり芳しいものではなかった。
「なによ。城島くんと付き合ってるって噂されるのと、私と付き合うの、どっちの方がいいっていうのよ」
「うわぁ……。究極の選択……」
「え? そんなに嫌なの?」
「嫌に決まってんだろ」
「なんでよ⁉︎ 自分で言うのもなんだけど、私かわいいし、スタイルもいいし、性格だって悪くないわよ? ……まぁ、確かに腐ってるのは、玉に瑕かもしれないけど……」
「たまにじゃないんですよ」
「むしろ頻繁に致命傷だボケ」
「たまにって、そういう意味じゃないから」
アキラと天宮に同時に突っ込まれ、由紀は涙目になる。
「は、はは……。そ、そんなに嫌なんだ、私と付き合うの……。自分では、結構いい女だと思ってたのに……」
アキラが天宮に顔を寄せる。
「兄貴。いくらなんでも、かわいそうでしょ。付き合ってあげたらいいじゃないですか」
「だから、嫌だっつってんだろ」
「形だけなんですから、別にいいでしょ。実際、それで噂は消えるだろうし」
「じゃあお前が由紀と付き合えよ」
「なんで俺が」
「お前が付き合っても、結果は同じだろ」
「それは……。いやでも、姉御と付き合うのは、さすがにちょっと……」
「ほらみろ」
「そういう話は、私に聞こえないところでしてくれない?」
由紀はうわーん! とわかりやすく泣き出す。
私なんて~、私なんて~、とかまってちゃん全開。
由紀は意外と面倒臭い女なのだ。
普段は姉御面しているけれど、実は由紀は四人兄妹の末っ子だったりする。
しかも上三人は男だ。
一人娘で、さらに歳の離れた末っ子の由紀は、両親と三人の兄たちから猫可愛がりされて育った。
ただでさえルックスがよく、家族以外からもチヤホヤされてきたのだ。
通常なら超絶面倒臭いクソ女が爆誕するところだけど、由紀は生来、自立心が強く世話されるより世話をする方が好きなタチなので、幸いクソ女化しなかった。
由紀の人気の高さは、姉御肌と末っ子の両方の性質を持つところにあったりする。
だが一度メンタルがブレると、普段は抑えているクソ女の素質が暴走してしまうのだ。
しかし、相手が悪い。
由紀がどれだけクソ女ムーブをかまそうと、目の前の二人には到底敵わない。
面倒臭いことにかけても、天宮は人智を超越しているし、アキラも常人の身ながら、天宮に肉薄する面倒臭さを持つ。
そんな二人に構ってアピールなど通用するはずもなく、天宮とアキラは平常運転だ。
「今週のワンピ読んだ?」
「俺、単行本派なんで」
「ふうん」
「ネタバレはやめてくださいよ」
「単行本は今どのへん?」
「雷ぞう殿がご無事だったとこです」
「あ、作中の時代って、まだその頃なんだ。令和にもなってないじゃん」
「作中? レイワ?」
「あれ?」
天宮は自分の発言に首を傾げる。
今一瞬、自分のいるこの世界が、人生が半ば詰んでる底辺ワナビの作品の中のような気がしたのだ。
そんなわけがないのに。
天宮は変な妄想を打ち払おうとしたけれど、違和感はどんどん膨らんでいく。
朝靄のように実体のなかったその違和感は、次第に像を結び始めて……。
そして神に近似した天宮が、今まさにこの文章を読むあなたの存在に気づきーー。
「もういい!」
由紀が座卓をバシンと叩いて、勢いよく立ち上がった。
「どっちが私と付き合うか、明日までには決めておきなさいよ!」
そう言い残し、天宮宅から飛び出す。
「なんだ、今の捨て台詞……」
「…………」
「どうしたんですか、兄貴」
「いや……。なんかさっき、とんでもないことに気づきかけたような……」
「とんでもないこと?」
「なんだったかな……」
「自分がどれだけ母親に心労をかけてるかってことですか?」
「それには薄々気づいてる」
「なんで薄々なんだよ……。なんにせよ、脱引きこもりすることより大切なことなんてないでしょ」
「確かにな……。で、どっちが由紀と付き合う?」
「お前」
「ざけんな」
話し合いは口論になり、やがて殴り合いに発展する。
亜空間で三日三晩(現実世界で十二分)死闘を繰り広げ、二人はようやく一つの答えを導き出す。




