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天宮悠斗が力に目覚めたのは中学二年の冬だった  作者: 相上和音
第6話 脱引きこもり作戦その2
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 チン、と音がして、恵子は顔を上げた。

 香ばしい匂い。

 クッキーが焼き上がったのだ。


 本当はアキラが訪ねてくる頃には、焼きあがっているように段取りしていたのだが、オーブンレンジの調子が悪く遅くなってしまった。


「そろそろ買い換えないとダメかしら」


 恵子は頭の中でそろばんを弾く。

 料理好きの恵子としては、オーブンをケチるわけにはいかなかった。

 一万のオーブンと十万のオーブンは、もはや別の家電だ。

 調理の選択肢が、桁違いなのだ。


(最低でも十年使うとして、一日あたりの値段は……)


 大きな買い物をする時、恵子は日割計算をすることにしていた。

 安物買いの銭失いをしないために、自然と身につけた癖だった。


(このレンジはいつ買ったんだっけ?)


 考えるまでもなく、恵子は答えを知っている。

 十五年前だ。

 このレンジは、悠斗が生まれた年に買ったものだから。


 ふと恵子は、感傷的な気持ちになった。

 一年と少し前、息子が突然部屋に引きこもるようになった。

 原因はわからない。

 なにかに怯えているみたいだったけれど、そのなにかがなんなのか、恵子には見当もつかなかった。


 それまでは、親子二人、仲良くやれていたと思う。

 恵子は息子に過度に干渉しなかった。

 良好な親子関係は、適度な距離感から生じると、感覚的に理解していたからだ。


 それがいけなかったのだろうか。

 恵子は息子が引きこもった原因に、まるで心当たりがなかった。

 学校で虐められていたりしたのだろうか。

 そんな素振りはまるでなかったけれど、私が気づいてやれなかっただけかもしれない。


 好物も癖も服の好みも、息子のことはなんでも理解しているつもりでいた。

 適度な距離を保っているからこそ、相手のことがわかるのだと信じていた。

 それなのに……。


(私はただ、自分はいい母親だって、思い込みたかっただけなのかしら……)


 恵子は眠れない夜を何度も過ごした。

 そんなある日のことだ。

 息子の同級生の、大沢由紀が家を訪ねてきた。


「初めまして。悠斗くんの友達の大沢由紀です。プリントとノートのコピーを持ってきました」

「ああ、どうもありがとう」

「悠斗くんの体調はどうですか?」

「あ、うん。大丈夫。熱も下がってきたから……」

「それはよかった。なんか、その……」由紀は言葉を選ぶような間を置いた。「随分と、うなされてるみたいだから」

「うなされてる?」

「クラスメイトに、よくわからないメッセージとか送ってるんですよ。命を狙われているとか、常に監視されてるとか。熱でうなされて、幻覚でも見てるのかなって」

「あ……」


 恵子は合点が行く。

 先日、近所の主婦たちの井戸端会議に出くわして、内容を耳にしてしまったのだ。


「天宮さんとこの息子さん、頭がおかしくなっちゃったらしいわよ」


 恵子は酷くショックを受けた。


(学校には体調不良って話しているのに、どこからそんな話が……)


 なんてことはない、息子自身が発信源だったのだ。

 息子の友達たちは、きっと話題のタネにしただろう。

 送られてきたメッセージを見せ合い、笑い合ったはずだ。


 心配するふりをして、さらにネタを引き出そうとしたかもしれない。

 面白半分で、不安を煽るような返信だってしたかもしれない。


 実際に目にしたわけではないけれど、そういった場面を容易に想像することができた。

 もし本当に、息子のことをほんの少しでも心配してくれているのなら、無責任な噂など流さなかったはずだ。

 それどころか、この一週間、誰一人お見舞いに……。


 ネガティブな思考に耽溺していた恵子は、そこでふと、目の前の少女の存在を思い出した。

 彼女は、なにか聞きたそうにしていた。

 でも彼女はなにも尋ねてこなかった。

 笑顔で、


「じゃあ、私はこれで」


 とだけ言って、踵を返す。

 その姿が、とても誠実なもののように、恵子の目には映った。


「あの」


 由紀の背中を反射的に呼び止めていた。

 これは直感だった。

 彼女なら、息子の力になってくれるのではないか。

 そのように感じたのだ。


「よかったら、家に上がって行かない?」


 恵子の直感は正しかった。

 由紀は毎日のように家を訪ねてきて、悠斗を部屋から連れ出そうと尽力してくれた。

 その行動の根っこにあるのは「ダメ男が好き」という、どうしようもない性癖だったんだけど、そんなこと知る由もない恵子は、彼女に心から感謝した。


(この子のことを、信じてよかった……)

「はいはい、怖くないよー。ほら、いい子だから出ておいでー」

「ぐるるるる……」

「お菓子もオモチャもあるよ。さ、こっちにおいでー」

(野良犬扱いしてるのが、ちょっと気になるけど……)


 そして時間はかかったものの、息子は無事に脱引きこもりすることができた。

 それなのに……。

 一年と少しして、また息子は部屋に引きこもってしまったのだ。


(でも今回も、また新しい友達が悠斗のために……。ふふっ。笑っていい状況じゃないんだけど、嬉しいなぁ)


 あの身長が高くハンサムな男友達のおかげで、恵子は前回ほど深刻にならずに済んでいた。

 コンコンコンと、息子の部屋をノックする。

 返事を待たずに、扉を開けた。


「クッキー、焼けたわよー」


 息子が友達の首を鷲掴みにして片手で持ち上げていた。

 映画やドラマでしか見たことがない光景だ。

 部屋の中は、局所的ハリケーンに襲われたみたいに、めちゃくちゃだった。


「うぐぐ……」


 アキラが苦しそうに呻き、


「あっ」


 と天宮がオナニーの現場を見られたみたいな反応をする。

 恵子は扉を静かに閉め、一拍の間を置いてから、すぐにまた開ける。

 息子とその友人は、座卓を挟んで談笑していた。

 散らかり放題だった部屋の中も、多少荒れはしているものの、平時に戻っている。


「…………」

「ちょっと、母さん。扉を開けるのは、俺が返事してからにしてくれよ」

「……ごめんなさい。クッキーが焼けたから……」

「あ、わざわざありがとうございます」


 アキラがクッキーの皿を受け取った。


「うわー。いい匂い」

「あの……」

「はい?」

「大丈夫?」

「なにがです?」

「いや……。なんか服が乱れてるし、首元に引っ掻き傷も……。それに息が少し上がってるみたいだし……」

「ああ、これですか。あはは。俺、実はAB型の乙女座なんですよ」

「あ、そうなのね。AB型の乙女座だったんだ」

「そうなんです」

「ごめんね、変なこと聞いちゃって」

「いえいえ」

「じゃあ、ゆっくりしていってね」


 息子の部屋を後にする。


「そっかそっか。AB型の乙女座だから……」


 さらっと言われたから、思わず納得してしまったけれど……。


「だから……。なんなの?」

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