2
チン、と音がして、恵子は顔を上げた。
香ばしい匂い。
クッキーが焼き上がったのだ。
本当はアキラが訪ねてくる頃には、焼きあがっているように段取りしていたのだが、オーブンレンジの調子が悪く遅くなってしまった。
「そろそろ買い換えないとダメかしら」
恵子は頭の中でそろばんを弾く。
料理好きの恵子としては、オーブンをケチるわけにはいかなかった。
一万のオーブンと十万のオーブンは、もはや別の家電だ。
調理の選択肢が、桁違いなのだ。
(最低でも十年使うとして、一日あたりの値段は……)
大きな買い物をする時、恵子は日割計算をすることにしていた。
安物買いの銭失いをしないために、自然と身につけた癖だった。
(このレンジはいつ買ったんだっけ?)
考えるまでもなく、恵子は答えを知っている。
十五年前だ。
このレンジは、悠斗が生まれた年に買ったものだから。
ふと恵子は、感傷的な気持ちになった。
一年と少し前、息子が突然部屋に引きこもるようになった。
原因はわからない。
なにかに怯えているみたいだったけれど、そのなにかがなんなのか、恵子には見当もつかなかった。
それまでは、親子二人、仲良くやれていたと思う。
恵子は息子に過度に干渉しなかった。
良好な親子関係は、適度な距離感から生じると、感覚的に理解していたからだ。
それがいけなかったのだろうか。
恵子は息子が引きこもった原因に、まるで心当たりがなかった。
学校で虐められていたりしたのだろうか。
そんな素振りはまるでなかったけれど、私が気づいてやれなかっただけかもしれない。
好物も癖も服の好みも、息子のことはなんでも理解しているつもりでいた。
適度な距離を保っているからこそ、相手のことがわかるのだと信じていた。
それなのに……。
(私はただ、自分はいい母親だって、思い込みたかっただけなのかしら……)
恵子は眠れない夜を何度も過ごした。
そんなある日のことだ。
息子の同級生の、大沢由紀が家を訪ねてきた。
「初めまして。悠斗くんの友達の大沢由紀です。プリントとノートのコピーを持ってきました」
「ああ、どうもありがとう」
「悠斗くんの体調はどうですか?」
「あ、うん。大丈夫。熱も下がってきたから……」
「それはよかった。なんか、その……」由紀は言葉を選ぶような間を置いた。「随分と、うなされてるみたいだから」
「うなされてる?」
「クラスメイトに、よくわからないメッセージとか送ってるんですよ。命を狙われているとか、常に監視されてるとか。熱でうなされて、幻覚でも見てるのかなって」
「あ……」
恵子は合点が行く。
先日、近所の主婦たちの井戸端会議に出くわして、内容を耳にしてしまったのだ。
「天宮さんとこの息子さん、頭がおかしくなっちゃったらしいわよ」
恵子は酷くショックを受けた。
(学校には体調不良って話しているのに、どこからそんな話が……)
なんてことはない、息子自身が発信源だったのだ。
息子の友達たちは、きっと話題のタネにしただろう。
送られてきたメッセージを見せ合い、笑い合ったはずだ。
心配するふりをして、さらにネタを引き出そうとしたかもしれない。
面白半分で、不安を煽るような返信だってしたかもしれない。
実際に目にしたわけではないけれど、そういった場面を容易に想像することができた。
もし本当に、息子のことをほんの少しでも心配してくれているのなら、無責任な噂など流さなかったはずだ。
それどころか、この一週間、誰一人お見舞いに……。
ネガティブな思考に耽溺していた恵子は、そこでふと、目の前の少女の存在を思い出した。
彼女は、なにか聞きたそうにしていた。
でも彼女はなにも尋ねてこなかった。
笑顔で、
「じゃあ、私はこれで」
とだけ言って、踵を返す。
その姿が、とても誠実なもののように、恵子の目には映った。
「あの」
由紀の背中を反射的に呼び止めていた。
これは直感だった。
彼女なら、息子の力になってくれるのではないか。
そのように感じたのだ。
「よかったら、家に上がって行かない?」
恵子の直感は正しかった。
由紀は毎日のように家を訪ねてきて、悠斗を部屋から連れ出そうと尽力してくれた。
その行動の根っこにあるのは「ダメ男が好き」という、どうしようもない性癖だったんだけど、そんなこと知る由もない恵子は、彼女に心から感謝した。
(この子のことを、信じてよかった……)
「はいはい、怖くないよー。ほら、いい子だから出ておいでー」
「ぐるるるる……」
「お菓子もオモチャもあるよ。さ、こっちにおいでー」
(野良犬扱いしてるのが、ちょっと気になるけど……)
そして時間はかかったものの、息子は無事に脱引きこもりすることができた。
それなのに……。
一年と少しして、また息子は部屋に引きこもってしまったのだ。
(でも今回も、また新しい友達が悠斗のために……。ふふっ。笑っていい状況じゃないんだけど、嬉しいなぁ)
あの身長が高くハンサムな男友達のおかげで、恵子は前回ほど深刻にならずに済んでいた。
コンコンコンと、息子の部屋をノックする。
返事を待たずに、扉を開けた。
「クッキー、焼けたわよー」
息子が友達の首を鷲掴みにして片手で持ち上げていた。
映画やドラマでしか見たことがない光景だ。
部屋の中は、局所的ハリケーンに襲われたみたいに、めちゃくちゃだった。
「うぐぐ……」
アキラが苦しそうに呻き、
「あっ」
と天宮がオナニーの現場を見られたみたいな反応をする。
恵子は扉を静かに閉め、一拍の間を置いてから、すぐにまた開ける。
息子とその友人は、座卓を挟んで談笑していた。
散らかり放題だった部屋の中も、多少荒れはしているものの、平時に戻っている。
「…………」
「ちょっと、母さん。扉を開けるのは、俺が返事してからにしてくれよ」
「……ごめんなさい。クッキーが焼けたから……」
「あ、わざわざありがとうございます」
アキラがクッキーの皿を受け取った。
「うわー。いい匂い」
「あの……」
「はい?」
「大丈夫?」
「なにがです?」
「いや……。なんか服が乱れてるし、首元に引っ掻き傷も……。それに息が少し上がってるみたいだし……」
「ああ、これですか。あはは。俺、実はAB型の乙女座なんですよ」
「あ、そうなのね。AB型の乙女座だったんだ」
「そうなんです」
「ごめんね、変なこと聞いちゃって」
「いえいえ」
「じゃあ、ゆっくりしていってね」
息子の部屋を後にする。
「そっかそっか。AB型の乙女座だから……」
さらっと言われたから、思わず納得してしまったけれど……。
「だから……。なんなの?」




