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インターホンを押すと、ややあって扉が開かれた。
天宮の母、恵子が顔を覗かせる。
「こんにちは」
「あなたがアキラくんね。どうぞ、あがって」
アキラは軽く会釈をして、天宮家に足を踏み入れた。
「悠ちゃんの部屋はそこだから。あとでクッキーを持っていくわね」
「ありがとうございます」
アキラは扉をノックする。
寝起きのような気怠気な返事があった。
アキラは部屋に入り、開口一番に言った。
「悠ちゃんって呼ばれてるんですね」
「!」
ベッドに横になっていた天宮が、脇腹でも突かれたようにびくりとした。
顔が瞬間的に赤くなる。
「……お前、そういうことには触れるなよ。やけに恥ずかしいんだぞ」
「承知の上です」
「相変わらず、いい性格してんな」
「はぁ?」
「普通にキレんな。『ありがとうございます』『褒めてねえよ』までがテンプレだろが」
「ふん。相変わらず、いいセンスしてますね」
「しばくぞ」
アキラが座卓の前に置かれたクッションに腰を据えると、天宮もベッドから降りて向かいに座った。
「由紀は?」
「姉御がいると話がややこしくなると思って誘ってません」
「英断だな」
『天宮、脱引きこもり作戦』の二回目の話し合いだ。
前回は食い逃げして警察に追われ、なんやかんやあって由紀が木から落ちた。
わけがわからないし、なんの実りもなかったように思えるけれど、こうして部屋に招き入れてくれるようになったわけだから、あれはあれで意義のある出来事だったのだろう。
とはいえ、問題はまるで解決していない。
「学校の様子からして、本気で俺たちが付き合ってるって思ってる奴は、ほとんどいないですよ。ただ噂を楽しんでるだけで」
「でも一部は信じてるわけだろ?」
「……まあ」
「じゃあ嫌だ。行かない」
「そんな駄々っ子みたいな……」
こうして天宮に取り付く島もないのだから、問題が解決するわけもない。
「一応、姉御と色々話し合ってはみたんですよ」
アキラは鞄からファイルを取り出した。
第一回『天宮、脱引きこもり作戦』の議事録だ。
「でもいい方法は思いつかなかったんだろ?」
「まあそうですけど」
アキラはファイルを机の上に投げ出した。
「でも俺に考えがあります」
「聞こうじゃないか」
「結局のところ、俺たちが付き合ってるって噂が原因なわけでしょ? だからその噂を、綺麗さっぱりなくしちゃえばいいんですよ」
「どうやって?」
「そこで、兄貴の力の出番なわけです。全校生徒の頭に指を突っ込んで脳みそを弄り回し、記憶を改竄して回ればーー」
天宮はアキラの眼窩に指を突っ込んだ。
「ぐああ! 目がぁああ!」
「真面目に考えろ」
「ぐぅ……。だからって目に指を突っ込むなよ……」
痛みがあるのに無傷だった。
天宮は、現実でアニメ的表現を実演できてしまうのだ。
「てかさぁ……」
アキラはゴシゴシと、袖口で涙を拭きながら言う。
「なんだよ」
「この件に関しては俺も被害者なのに、その態度はおかしくね?」
「…………」
「俺、兄貴のために色々やってんだぜ? それなのに……」
天宮はバツが悪そうに、そっと目をそらした。
「俺を姉御の手下かなんかだと思ってただろ」
「……これに関してはマジですまん」
「敵は姉御だけだ。覚えとけ」
「はい。すみません」
アキラはふと立ち上がる。
怒られるのかと思い、ビビる天宮。
不安そうな上目遣いでアキラを見る。
「すみません、ちょっとトイレ借りてもいいですか」
「あ、うん。部屋を出て左手の扉」
「どうも」
アキラが部屋を出ていくと、天宮は手持ち無沙汰になった。
なんとなく、座卓の上に置かれたファイルに手を伸ばす。
数枚のルーズリーフを取り出し、ざっと目を通した。
途端に、天宮の顔が綻んだ。
「あいつら……」
そこには、字がびっしりと書き込まれていた。
議論は堂々巡りをしていて、要約すれば、
「付き合っている噂が、引きこもりの原因」
「その噂をなくせばいい」
の二行にまとめられる。
それでも二人が真剣に、自分のことを考えてくれていることがわかった。
その事実が、嬉しかった。
天宮は胸が温かくなるのを自覚する。
気恥ずかしさを誤魔化すように、なんとなくルーズリーフを裏返してみた。
そこに描かれた可愛らしいイラストの数々。
デフォルメされたキャラが、右往左往しながら狂乱していた。
なんか見覚えがあるな……と思ったら、それは過去の自分だった。
過去の自分の醜態が、ルーズリーフを埋め尽くしている。
すっと胸が冷め、開きかけていた心の扉が固く閉ざされる。
「ただいま戻り……。あっ」
トイレから戻ってきたアキラは、一瞬で状況を理解した。
警察に追われたりしたせいで、イラストのことをすっかり忘れていたのだ。
アキラの頭に、いくつかの選択肢が浮かぶ。
A、謝る。
B、逆ギレする。
C、論点をずらす。
D、人のせいにする。
アキラの明晰な頭脳は、すぐに最適解を導き出した。
「いやぁ、ほんと姉御って困ったものですよね。そんなイラストを描いたりして」
「Dを選ぶか、普通」
「ぐっ……。ち、ちょっと。心読むのやめてくださいって、何度も言ってるじゃないですか。それってプライバシーの侵害……」
「今度はCか」
「…………」
先回りをするように、逃げ道を塞がれる。
それでもしばらく逡巡したが、すぐに面倒臭くなる。
アキラは「チッ」と舌打ちした。
「じゃあAで」
「Bだよねそれ?」
「え、なんすか? ちゃんと謝ったじゃないですか」
「謝ってないよね。お前『A』って言っただけじゃん」
「なに、土下座すればいいの? は?」
「だからBだよねそれ?」
「うるせえ! Aだっつってんだろクソが!」
「うわっ。なんだテメェ! やんのかこの野郎!」
アキラが天宮に殴りかかり、どんちゃん騒ぎの喧嘩になった。




