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でも本当に人生が一変したのは、それから三日後のことだった。
「なんだこれは?」
アキラは時田千鶴子に尋ねた。
千鶴子はアキラの二歳年上で、まだ十代の半ばだった。
学校には通っておらず、城島家の使用人として住み込みで働いている。
彼女がなぜ城島家で働くことになったのか、アキラは知らない。興味もない。
千鶴子はどうやら身の上話がしたいらしく、
「はぁ……。何でこんな事になっちゃたのかなー。この歳で、学校に通うこともできず、住み込みで使用人の仕事をしなきゃいけないなんて……」
とわざとらしく呟いては、チラチラとアキラに視線を送っていたが、アキラはことごとくスルーしていた。
千鶴子は大雑把というか、何事も雑で、城島家の使用人としては不十分だった。
「関係がありそうな情報を片っ端から集めろ」
というアキラの命令に対しても、トンチンカンなものばかりを持ってきた。
洞窟の写真集だとか、魔術全集だとか、星座占いの本だとか。
それらもまだマシな方で、そもそも前提が間違ったネットの陰謀論を、
「坊ちゃん。とんでもないものを見つけてしまいました……」
と真面目な顔で持ってこられた時は、さすがに開いた口が塞がらなかった。
でも他の使用人たちは全員に教養があって、だからこそ持ってくる情報は、どれも似たり寄ったりだった。
千鶴子の全く別の角度からの情報は新鮮で、息抜きとして楽しんでいた部分もあった。
それにしたって、これはさすがに看過できなかった。
「なにって、見た通りですけど」
「見た通り?」
「だから、漫画ですよ。漫画」
「漫画……」
もちろん、漫画の存在は知っていた。
でも実物を手に取るのは初めてだ。
ニュースは全てデジタルデバイスから仕入れているアキラは、新聞の四コマ漫画すら読んだことがなかったのだ。
「その作品はですね~、ある日力に目覚めた少年が、謎の組織に付け狙われるところから物語が始まるんですけど、展開がまさかの方向に進んでいってですね、ただのコメディと思われていたやりとりが、実は伏線だったりと……」
漫画の説明を始める千鶴子。
アキラは、ふんと鼻で笑った。
千鶴子は見るからにヘソを曲げて、不貞腐れたように口を尖らせる。
「読みたくないなら別にいいですよ。……面白いのに」
「面白いものなんて求めてないんだよ。この漫画に、刻路美山脈消失事件の真相に迫れるような情報が隠されているとでもいうのか?」
「主人公の敵が、山を消しとばすシーンがあるんですよ」
「はっ。それが事件と関係あると?」
「もういいです。返してください」
「いい。暇つぶしに読んでやるよ」
「いりません。どうせ後でバカにする気でしょ。返してくださいっ」
しばらく二人は揉みあったが、身長差は歴然で、千鶴子は漫画を取り返せなかった。
涙目になる千鶴子に、ふふん、とわかりやすく勝ち誇ってから、
「ところで」
とアキラは言う。
「漫画ってどうやって読むんだ?」
「そこからですか……」
「いいから教えろ」
千鶴子は何事か逡巡する間を置いてから、
「はぁ……。仕方がないですね」
と言った。
ごねるだろうと思っていたアキラは拍子抜けする。
「えっとですね。まず右上から順番に……」
「ふむふむ」
最低限の漫画のルールを千鶴子から教わる。
「じゃあ私は仕事に戻りますので」
「ああ」
部屋の入り口で、
「それにしても」
と千鶴子はアキラを振り返った。
「まさかこの私が、アキラ坊ちゃんにものを教える日が来るなんてね」
クスリと笑い、アキラの返事も待たずに扉を閉めた。
「ぐっ……」
アキラにこんな態度をとるのは、敷地広しといえど千鶴子だけだ。
アキラは「坊ちゃん」と呼ばれることが何より嫌いなのだが、それを知った上で頑なに正そうとしないのだから、彼女の肝の座りっぷりは、なかなか堂に入っている。
(あいつには本当に、イライラさせられる……)
そう思いながらも、彼女のことを憎からず思っている自分が不思議だった。
何度か深呼吸をして感情を宥め、それからアキラは漫画を、新しい扉を開く。
それが全ての始まりだった。
三十分後。
アキラは千鶴子を探して屋敷中を駆け回っていた。
「千鶴子! どこだっ、出てこい!」
先輩メイドから、
「アキラ様がすごい剣幕で探している」
と聞いた千鶴子は、一時間ばかり逃げ回ってから、観念してアキラの前に姿を見せた。
「あ、坊ちゃん……。も、もしかしてさっきのこと、怒ってます? あはは、やだなー。あんなのちょっとした冗談じゃないですか。私が坊ちゃんのことを馬鹿にしてるのは、いつものことなんだし」
「そんなことはどうでもいい。いや、お前が俺をいつも馬鹿にしてるって話には、後でいろいろと言うことがあるが、今いい」
アキラは王道少年漫画の一巻を千鶴子に突きつけた。
「続きを貸してくれ!」
そこからは早かった。
ただでさえ頭の回転が速く物覚えもいいアキラは、スポンジが泥水を吸うようにオタク知識を身につけていった。
漫画からアニメ、そしてゲームにまでその食指を伸ばす。
アキラは、この歳までオタク文化に全く触れてこなかった。
つまり免疫が一切できていなかったわけで、もろに悪影響を受けてしまう。
言動がおかしくなり、普段の立ち振る舞いにも異常が出始める。
そのことが、父親の耳にまで入る。
過密なスケジュールの合間を縫って、父親はアキラの元に駆けつけた。
でもその時には、すでに病状は末期で……。
もう、手遅れだった。
「おお、父上ではないか。久しいな」
アキラの部屋に入り、父親は慄然とする。
散乱したオタクグッズ。
ゴテゴテと無駄な装飾が施された、黒を基調にした衣服。
機能性を犠牲にし、デザイン性を殺している。
目の前の男が本当に息子のアキラなのか、父親にはわからなかった。
「ん? どうした、そんな顔をして」
息子によく似た、得体の知れない男が近づいてくる。
戦慄し、父親はアキラの頬を衝動的に叩いていた。
厳格で毒っけのある親ではあるけれど、暴力を振るうのはこれが初めてだった。
「な、な……」
殴られた頬を押さえながら、アキラはわなわなと震えた。
「なにしやがんだ、このクソ親父!」
ガンダムを履修していたなかったアキラは、普通に父親に掴みかかった。
使用人たちがすぐに止めに入ったことで、親子喧嘩は揉み合い程度の軽いもので終わった。
でも息子の変容に加え、掴み掛かられたことがよっぽどショックだったらしく、父親は酷く動揺した。
「父親に手をあげるなんて……。あんなやつ、もう城島家にはいらん。勘当だ!」
本心ではないのに、そんなことを言ってしまう。
アキラもアキラでプライドが高いから、売り言葉に買い言葉で、すぐに家を出ることが決まった。