太陽と、月と、たまごボーロ
会社の同僚が亡くなった、と夫から聞かされた。健康診断で不整脈を指摘されていたのに、放置していたらしい。死因は心不全だという。
過労死の疑いもあったが、健康診断の結果を無視していたために認定されないのではないかという話だった。夫の会社は以前に私も勤めていた会社で、いわゆるブラック企業だ。
寿退社をしてから、四年余りの月日が経っているものの。丸山という苗字が偶然にも同じで、記憶に残っている人だった。そんなわけで、私も一歳ニヶ月の息子を連れて告別式に参列する。仕事が休めない夫は、職場から直行するらしい。
葬儀場は家から車で五分ほどの場所にあった。思いのほか、近い。知らなかったけど、丸山さんは近所に住んでいたのかもしれない。
告別式当日は、いつも通り。朝からバタバタしていた。お化粧をしている途中で、息子が起きてくる。洗濯機を回しながら、朝食の用意をして息子に食べさせる。簡単な掃除をする。洗濯物を干す。夫のワイシャツにアイロンをかける。
息子がご機嫌で絵本をめくって遊んでいた。横目で見ながら、インスタントコーヒーを入れて一息つく。出発の時間まで、あと十五分。
喪服を汚さないように、着替えは後回しにしていた。まず、自分が着替える。それから、息子を着替えさせる。もうすぐ出かけるというのに、ズボンを履いてくれない。くるりと寝返りしてハイハイを始める息子に、少しイラッとした。
やっと支度を終えて、家を出ようとしたとき。息子が大きなうんちをした。諦めて、遅れていくことにする。葬儀場に着いたとき、もう告別式は始まっていた。
お経が流れるなか、そうっと入る。息子を抱っこしながら、出入り口に近い最後列の席に座った。目線が低くなったことが気に入らないのか、出すものを出して小腹が空いたのか。息子がぐずり始める。
たまごボーロの小袋をポケットから取り出して、一粒ずつ口に入れてあげた。おとなしくなった息子を抱きしめる。このまま告別式が終わるまで静かにしていて、と切実に願う。
ご焼香の順番が回ってきた。前の人を見ながら、手順の確認をする。息子を抱えながら、立ち上がった。遺影に向かって、中央の通路を歩き始めたとき。驚愕した。遺影に写っている人物は、紛れもない「私」だ——。
一歩も動けずに固まっていた。葬儀スタッフのお姉さんが顔を覗き込んでくる。有無を言わせない笑顔が、怖い。代わりに抱っこしても良いですか。両手を差し出されて、息子を渡す。案内されるがままに。「私」は「私」の遺影に向かってお辞儀をした。
顔が丸いな、なんて。現実逃避のような、どうでも良い感想が思い浮かぶ。産後の退院のときの写真だということがわかった。目を細めて、幸せそうに笑っている「私」。
ご焼香が終わると、息子が腕のなかに帰ってきた。お腹も良い感じに膨れたのだろうか。とろとろと微睡んでいる——。
告別式を終えても呆然としていたら、こちらの席に喪主がやってきた。夫だ。「どうしても本当のことが言えなくて、ごめん」「えっ、やっぱり私は死ぬの?」「うん」
おずおずと、夫が手紙を渡してくる。夫と息子に向けた私の遺書だ。書いた覚えなんてない。でも、私の字で『あさひくんとひなたへ』と確かに書いてあった。頭が混乱する。「まさか美月が死ぬなんてなあ」という声がした。英治おじさんだ。
「どうして死んだの」うつむいて震える声で聞く私に、夫が口ごもる。この人は、いつも大事なことを教えてくれない。「失踪だよ。何年経っても見つけられなかった」と、代わりに英治おじさんが答えてくれた。
「俺も若い頃に東京で蒸発しようと試みたものだが、こうちゃんに見つかった。美月は上手いことやったんだなあ」困ったような顔で、英治おじさんが笑う。
こうちゃんとは父のことだ。父が若い頃に兄を探して東京まで行った話は、親戚の間では有名だった。でも、本当だろうかと訝しく思う。私には失踪する理由なんてない。
当たり前といえば当たり前だけど、遺体はなかった。火葬場には行かないらしい。このまま葬儀場で会食をするという。一度、葬儀場を出た。車に戻って、ベビーカーを降ろす。
すやすや眠っている息子をベビーカーに乗せた。いつ見ても、かわいい寝顔。まだ小さな息子を置いて失踪なんてするわけない、という気持ちが強まる。
ふと、読みかけのクライムサスペンス小説のワンシーンが頭をよぎった。誘拐されて、冷凍倉庫に閉じ込められた人たち。凍らされて、粉砕機でシャーベット状にされて、死体も残らない。表向きは失踪ということになる。恐ろしい。
もう帰ってしまおうか、と思いかけたとき。夫が車まで迎えに来た。仕方なく、葬儀場に戻る。親戚一同が「美月は死んだ人間」と認識している会食は、苦痛だった。
やたら空気が重い。目と鼻を真っ赤にして、母が泣いている。もともと寡黙な父は何も喋らない。何が何だかわからない私は食欲もなく、箸を置いたままにしている。
そうしていたら、息子が起きた。少し気が紛れる。白いご飯やお味噌汁の具、卵焼きや筑前煮の人参。茶碗蒸し。食べられそうなものを口に運んであげると、息子が美味しそうに食べた。周囲の空気も和らいだように感じる。小さな子の存在は偉大だ。
葬儀場を出て、息子と家に帰る。お昼過ぎだった。五分ほど車で揺られているうちに、息子はまた眠ってしまった。なんだか私も、すごく疲れている。少しだけ、一緒の布団で眠ることにした。
「ママッ」という声で起きたとき。窓の外は夕陽で赤く染まっていた。慌てて、洗濯物を取り込む。お風呂を沸かしながら、洗濯物を畳む。夕食の用意をする。息子をお風呂に入れてから、ご飯を食べさせる。
やることに追われて、一時的に思考が停止していた。夜の八時に息子を寝かしつけたあとで、お風呂に入る。ゆったりと湯船に浸かりながら、先ほど起こったことが信じられない気持ちになった。まるで遠い日のことのように感じられる。
それから、「私」は「私」が失踪する理由を考えていた。やっぱり何も思いつかない。むしろ、ずっとこの家にいたかった。息子の成長を近くで見守りたい。ずっと側にいたい。
それでも「私」が失踪したというのなら、誰かに殺されたのではないだろうか。人知れずに殺されて、死体を隠される。考えるだけでも恐ろしい。一体、誰だ。誰に恨まれる覚えもない。何か事件に巻き込まれるのだろうか。一向に、答えは出そうにない——。
ドライヤーで髪を乾かしているとき。不意に、洗面所の扉が開いた。夫が帰ってきたのだと思って、ドライヤーを止める。「おかえり」と、私は扉のほうを見た。はっと息を呑む。
ギラリと光る鋭い刃。包丁の刃を横にして、夫が腰だめに構えていた。顔に表情はない。咄嗟に、両腕が胸の前に上がる。反射的な行動だ。でも、手に持っているのはドライヤーだった。この状況で、私を守ってくれそうなものは何もない。
あっ、ここで死ぬんだ。本気で思った。夫に殺される。どこかに死体を隠されて見つからないまま、私は失踪したことになるのだろう。
しかし、夫は私と目が合った瞬間。包丁の刃を下に向けた。そして、今にも泣きそうな顔で「美月はここにいられないんだ。出ていかないと」と言う。
「一日だけ時間をちょうだい。お願い」喉から出てきた私の声は、掠れていた。弱々しい声が、続く。「明日、一日だけ。いつものように過ごして、ひなたを寝かしつけたら、家を出るから」
家を出なければならない理由はわからない。でも、夫の様子から私は家を出なければならないと理解した。逆因果律だ。私は失踪しなければならない。何年経っても見つけられなかった存在なのだから。
夫と息子の隣には、もういられない。そう思ったら、泣けてきた。つられたのだろうか。いつのまにか、夫も泣いている——。
ちょっと遅めに目が覚めた次の日の朝。すでに夫の姿はない。着替えてからお化粧をしている途中で、息子が起きてくる。着替えさせる。洗濯機を回しながら、朝食の用意をして息子に食べさせる。簡単な掃除をする。洗濯物を干す。夫のワイシャツにアイロンをかける。
息子がご機嫌で絵本をめくって遊んでいた。横目で見ながら、インスタントコーヒーを入れて一息つく。いつも通りの日常だった。
息子を連れて、近所のスーパーへ買い物に出かける。今日は、息子が大好きなハンバーグを作ろうと思った。ATMでお金を下ろす。いつもと違うのは、一日の上限額いっぱいまで下ろしたことだ。でも、それだけ。
いつも通り。息子が好きなみかんやチーズ、スナックパンを買い物かごに入れた。たまごボーロを手に持っている息子は、ご機嫌だ。
レジを通って、たまごボーロにシールを貼ってもらう。品物をマイバッグに詰めて、家に帰る。昼食のあとは、息子がお昼寝をしたので遺書を書いた。
◯◯◯
あさひくんとひなたへ。
ごめんね。
もっと一緒にいたかったけど、いられないみたい。
家族で過ごす時間が大好きで、私は幸せだったよ。
今までありがとう。
通帳のお金は多くないけど、ひなたの養育費に使ってね。
ひなたは大きくなったら、私のことを忘れちゃうと思う。
でも、何があっても私はひなたの味方だよ。そう伝えて。
あさひくん、たまには仮病を使ってでもお仕事を休んでね。身体に気をつけて。
大好きだよ。
本当にありがとう。
みづきより。
◯◯◯
書きながら、また少し泣いた。それから、出産の入院のときに使ったキャリーケースを出す。衣類や化粧品などを詰める。お宮参りのときの家族写真も一枚だけ、内ポケットに入れた。
息子が起きてからは、何も考えないようにした。何か考えてしまうと、泣いてしまいそうだったから。
おやつを食べさせて、洗濯物を取り込む。お風呂を沸かしながら、洗濯物を畳む。夕食の用意をする。息子をお風呂に入れてから、ご飯を食べさせる。息子は嬉しそうにハンバーグを食べてくれた。
夜の八時が近づいてくる。寝かしつけるとき、「大好きだよ」って言ったら、「うん」って言ってくれた。もう一度言って、ってお願いしても言ってくれなかったけど。
寝かしつけも終えてしまった私は、スマホと通帳と遺書をリビングの机の上に置く。キャリーケースと小さな鞄を持って、家を出た。
今となっては、「美月は上手いことやったんだなあ」という英治おじさんの言葉が力になっていた。私、きっと上手くやったんだ。もしかしたら、粉砕機でシャーベット状になっているかもしれないけど。
でも、もう自分のことはどうでも良かった。私の大好きな息子が、私がいなくても強く育ってくれたら、それだけで良い。きっと大丈夫。私の子だもの。
黒いキャップを被って、マスクをして、顔の印象が残らないようにする。そして、夜の闇に紛れた。大通りに出て、タクシーを拾う。
自家用車で移動すると、Nシステムにナンバープレートを読み取られてしまう。電車の駅やホーム、バスには防犯カメラがある。だから、使うのはタクシー。長距離を移動すると運転手さんの印象に残ってしまうから、短距離を乗り継ぐ。
クライムサスペンス小説から得た知識だ。どこまで通用するのかはわからないけど、ひとまずタクシーに乗り込む。運転手さんが思いのほか多弁な人で、気が緩みそうになった。
「この業界に長くいると、不思議なことが多々ありましてね」運転手さんは一方的に喋り続けている。「夜遅くに真っ暗な道で、ひとりの女性が立っていたんです。白い服だけが浮き上がっていて、足が見えなくてね。今でも、幽霊を乗せていたんじゃないかって思うときがありますよ」
ある意味、私も幽霊のような存在なのかもしれない。そう思いながら、運転手さんの話を聞いていた。
見慣れた夜の街並みが流れていく。昼間は暖かくても、最近の夜は少し寒い。冷たくなった手をポケットに入れると、小さくて丸いものが触れた。息子が大好きな、たまごボーロ。