幸せになれる二人
「ルナリア!ルナリア!
あの子ったらどこに行ったの!?もう!」
遠くで私の名前を連呼する母の声。
他にも私を捜索している足音や声が聞こえた。
そう、私は逃げている。
突然知らされた、素性も顔も知らぬ男と結婚させられそうになっているからだ。
しかし私が生きているこの世では子どもの将来を決めるのは親というのが決まりで、妙齢になったり、適齢期を過ぎても懇意にしている相手がいなかったりすれば、こうやってあてがうのが一般的。
恐ろしく理不尽であるが、それが常識なのだ。
そういった環境で育つからか、周りの子達は大体親の言う通りにするけれど、私はそれが本当に嫌でずっと両親に反抗的な態度を示してきた。
そんな私に対していつもはいはいと言っていた両親だったが、いざ事が進めば観念するだろうと思われていた様だ。
なんと相手様が挨拶に来ることを直前まで黙っていた両親は、私が起床してきたと同時にまるで朝食メニューを言うかの如く、さらりと告げた。
“今日、あなたの夫となる人が挨拶に来るから”と。全く腹立たしい。
そういう訳で、私は寝癖も直さずに朝食も食べずに家を飛び出し、誰にも見つからない様に移動しながら身を潜めていた。
「ルナリアちゃーん!どこにいるんだー!?」
「…トマスおじさんまで?」
私が住んでいる村はそんなに大きくないので、全員が家族の様なものだ。だからこんな娘一人が結婚が嫌で逃げ出したと聞けば、血縁関係なく村人全員が協力する。それも当たり前に。
特にトマスおじさんは熱い男なので、見つかれば中々に面倒くさい。
私は細心の注意を払って、ようやく森の中に逃げ込んだ。しばらく走ってみんなの声がほぼ聞こえなくなった頃に、ようやく息を吐く。どうやら呼吸するのも忘れていたくらい必死だった様だ。
はあはあ、と肩を上下させながら近くの大きな木に背を預けて座り込んだ。心臓が、全身が、どくどくと脈打っている。
こめかみからぽたりと汗が流れた。私はそれを拭い、濡れた指先を見つめる。
「…何を必死になってるのかしら」
ため息を吐きながら天を仰いだ。
優しい風がさらさらと木々達を揺らし、熱くなっていた心と体が冷めていく。
正直、こんな事をしたって何の意味もない事は分かっている。
本当に嫌ならば故郷と両親を捨てて出て行けばいいだけ。そんな度胸もないくせに、家を飛び出して反抗するだなんて、ただの子どものやる事だ。
分かっているけれど、いとも簡単に私の想いを無下にされたのは単純に悲しい。
どうせ勝手に将来を決められるのだ。このくらい許して欲しい。
とにかく今は一人になりたい。もう少し頭を冷やしてから家に戻ろう、そう決めて目を閉じた時だった。
ガサガサと草を掻き分ける音がこちらに近付いている。
村の人達だろうか、それとも獣?
しかしここは整備されている道から逸れているし、狩りが多いからか他の森よりも獣被害が少ない所だ。
だからと言ってゼロではないので、どうしようかと体を強ばらせる。
むしろ村の人達であって欲しいと願っていたら、それはぴょこんと現れた。
「……え」
恐ろしい獣かと思ったら、女の子だった。拍子抜けして思わず間抜けな声が出る。
その子もきょとんとした顔で私を見ていた。まん丸で可愛らしい目、柔らかくて少し癖っ毛のある茶色の髪には所々葉っぱが付いている。
「…あなた、どうしたの?こんな所で」
努めて心と声を落ち着かせて、彼女に問う。
それを言ったら私もなのだが。
「…逃げてるの」
彼女は少し俯いて返答に時間がかかったが、まるで呟く様に答えてくれた。と同時に焦る。
「に、逃げてるって、まさか山賊か何か?
それとも人攫い…」
「違う。パパから」
いや、それもまずいのでは。
「答えにくかったら良いのだけれど、何か嫌な事をされたの?
もしそうなら近くに私が住んでいる村があるから、そこに」
しかしその子はすぐに首を振った。
別に虐待とかそういうのではないのだろうか。どんどんこんがらがってきて、私はそれ以上問うのをやめた。
とりあえず、保護した方が良さそうなのは間違いない。
「ごめんなさいね、突然色々聞いちゃって。
とりあえず村に行きましょう?こんな所で一人なんて危ないわ」
そう言いながら立ち上がり、彼女に近づこうとすると一歩下がられた。かなり警戒されているのか、余程父親に見つかりたくないのか。
しょうがないので私はもう一度座り直す。
「実はね、私も逃げてるの」
「え…?」
素っ頓狂な声が返ってきてほっとする。
「突然結婚相手が挨拶にくるって言われてね。
嫌で飛び出しちゃった」
私がそう言うと、彼女の目が一層まん丸く開かれた。
「こんな大人でも逃げ出す事があるのよ」
「…結婚したくなくて逃げたの?」
思わぬ返答に、今度は私の目が丸くなる。
こんな幼い子から出てくる疑問とは思えない。
「あなた、いくつ?」
「…8歳」
うん、普通に幼い。でも私に聞いてきたその目は真剣だった。
なんとなく居住まいを正して答える。
「結婚自体が嫌な訳じゃないの。
私もそれなりに夢はあるというか、子どもが欲しいとか幸せになりたいとか」
「じゃあどうして?」
急に積極的になった彼女に再び驚く。
この子、こんな歳なのに結婚させられそうにでもなっているのかしら?
そう思いながら、私は素直に話す事にした。
今まで誰にも言っていない、そしてこの先誰にも言わないであろう事を。
「好きな人がね、いたの」
私がそう言うと、ややあってから彼女の頬がぽっと赤く染まった。
「ふふ…何であなたが照れるの」
「だ、だってそんな話になるとは思わなくて」
こういう所はちゃんと幼い様でなんとなく安心する。と同時に可愛くて、隣の地面を叩いて座る様に促す。
彼女はようやく警戒心が和らいだのか、おずおずと私の隣に座った。
それを確認し、私は再び口を開いた。
「その人は幼なじみでね。
ちょっと意地悪だったけど、根は優しくて頼りになる人だった。
好きかもしれないと思ったのは14歳くらいの時だったかな。でもその頃には、私達はすっかり良い友人になってた。
しかもその人はとことん鈍感な人でね、好きだって自覚してからあれこれしてみたけど、全く気付かないのよ」
そう話しながら、私は幼なじみのランスの事を思い出す。
黒髪のツンツン頭で、私をからかってはがははと下品な笑い方をする、私の好きだった人。
「何度も惨めな思いをしたけれど、逆に色恋に興味がない人なんだから、誰かに取られる事はないってプラスに考える事にした。
よく一緒にいたからか周りからも私達は結婚するんだろうって言われていたし、何だかんだで大切にしてくれていたから、すっかり舞い上がっていたのよ。
彼から婚約したと聞かされるまではね」
彼女の動きが止まった。
私は変わらず視線を前に向けたまま、続きを話す。
「彼は大工さんで、修理に行ったお屋敷のメイドさんと恋仲になったんですって。
色恋に興味がないなんて、私のただの思い過ごしだったの。私は本当にただの友人だった、て訳」
婚約報告された時の彼の嬉しそうな顔と、指先から冷たくなっていく感覚は一生忘れないだろう。
よく立っていられたなと思うし、おめでとうと言えたのかすら覚えていない。
「あなたは知っているか分からないけど、恋人とかそういう対象になりうる人がいなければ、親が結婚相手を見つけてくるのが普通なの。
いっそ彼の相手が仕方なく見つけてきた人だったら良かったけれど、ちゃんと恋愛結婚なんだもの。
入る隙もないというか何というか、完敗って感じよね」
彼女が息を呑んだのが分かった。
8歳の子に何を話しているんだろうと思ったが、止まらなかった。
ずっと誰にも言えなかったが、私は誰かに言いたかったのかもしれない。
「だから私もそうしようと思った。
勝手にふられたんだけど、彼の幸せそうな顔を見るとやっぱり悔しくて、羨ましくて、絶対私も恋愛結婚してやるって決めた。
でもどうしても彼と比べてしまって踏み出せない内に、両親が痺れを切らしちゃった」
話し終えて、彼女を見る。
彼女は真っ直ぐ前を見据えていて、その表情は大人びていた。
「…ねえ、もしかしてあなたも結婚させられそうになってるの?」
「えっ!!?」
森中に響き渡るほどの大きな声を上げた彼女の顔は、また真っ赤に染まっていた。
「嘘でしょ、こんな幼い子に結婚させようだなんて」
「ち、違うよ!パパが結婚しようとしてるの!」
「…はい?」
今度は私がフリーズする。
「私のパパは、本当のパパじゃないの。
私の本当のパパは、パパの弟なの」
一瞬こんがらがりそうになったが、要はそのパパと呼ぶ人物は、彼女にとって伯父という事らしい。
「本当のパパとママは病気で死んじゃって、おじいちゃんもおばあちゃんもみんないなかったから、今のパパの所に私は来たの」
「…それは、何歳の時?」
「3歳だって。あんまり覚えていないけど、何となく覚えてる。大好きだった、て事も」
「そう…」
何も言えなくて、私は彼女の言葉を静かに待つ。
「パパはね、私を育てるためにたくさん仕事してくれてた。寂しかった事もあったけど、パパが仕事の時に預けられてた教会とか隣のおばさんとか、みんながいたから平気だった。
でも、教会に預けられるのは学校が始まる7歳まで。隣のおばさんが見れない時は、一人で留守番する様になった。そんな時に、一度泥棒に入られた事があったの」
「え!?」
突然の物騒な話の展開に思わず声を出す。
「あ、あなた大丈夫だったの!?」
「うん、帰ってきた時にはもう荒らされた後だったから」
ほっと息を吐く。
けれど、それを知ったその伯父は気が気でなかっただろう。もし彼女がいた時に襲われていたら…考えたくもない。
「お留守番も、私が無理言ってさせてもらってたの。
でもこんな事があったからパパは仕事を減らして、どうしても無理な時はお金を出して見てもらう所に私を預けた。
それを見て、とうとう隣のおばさんが言ったの。結婚を考えないかって」
彼女は一気に捲し立てると、ふと目を虚にさせた。
もしかしたら彼女も私と同じ様に、ずっと誰かに言えなくて、でも言いたかったのかもしれない。
「私がいるから、パパはたくさん仕事しなきゃいけない。私がいるから、パパは好きでもない人と結婚しなきゃいけない。
そんな事を考えてたら、パパの手を振りほどいて走っていたの」
そして今に至る様だ。
「分かっているかもしれないけれど、話を聞いている限りあなたのパパはあなたのせいでなんて、思う様な人ではないと思うわ」
「うん、分かってるからしんどいの。
こんな風に逃げ出したって、パパを心配させるだけで意味ないんだけど、気付いたら走ってた」
ああ、本当にこの子は私と同じだ。
無力なりに、何かしたかったのだ。むしろ初恋を拗らせた私のわがままなんて、なんとちっぽけな事か。
「決めたわ。私、結婚する」
「え?」
突然の決意に、彼女がまた目を丸くした。
「あなたの方がよっぽど大人だわ。
自分が情けなくなっちゃった。いい加減腹を括る事にする」
「…う、うん」
そう言って立ち上がり、お尻についた土と草を払う。
「あなたは本当に素晴らしい子だわ。私なんて、この歳になっても自分本位で嫌になっちゃう。
そんなあなたを育てたパパも、素晴らしい人。
だから、絶対に幸せになれる。
何だか分からないけれど、そんな気がするわ」
彼女もそっと立ち上がる。
その顔に、不安げなものはなかった。
「お姉ちゃんも、幸せになれるよ」
そう言ってくれるなんて嬉しい。思わず涙腺が緩みそうになるのをなんとか堪えた。
「ありがとう。さ、行きましょう。
一緒にパパを探してあげる」
私達は手を繋いで、整備された道に出た。
「それにしても、どうしてこんな森に?」
「今日、その結婚相手のお家に挨拶に行く途中だったの。
なんとなくだけど、あっちから来た気がする」
そう言って彼女が指を差した方向に歩き始める。
この森を抜けるにはこの道しかないから、おそらく会えるだろう。最悪村に戻れば村のみんなが何とかしてくれる。
「あなたに会えて良かった。
何だか久しぶりに前向きになれた気がする」
「ねえ、お姉ちゃん」
「ん?」
くい、と繋いでいた手を引っ張られ足を止める。
なぜか彼女は俯いていた。私は視線を合わせる様にしゃがむと、そっと彼女が口を開く。
「また、会いに来てもいい?」
思わず心臓がきゅっとなる。
私もなんとなく感じていた。父親に引き渡せば、彼女とはもう会えなくなる寂しさを。
「ええ、もちろんよ。でも危ないし、私が会いに行くよ」
「でもお姉ちゃん結婚しちゃうんでしょ?」
「平気よ。私、こそこそするのは得意だし」
そう言うと、彼女がクスクスと笑った。
その笑顔が可愛くて、また絶対会いに行こう、この出会いを大切にしよう、と心に決めた時だった。
「ルナリア!!!」
聞き覚えのある声が耳に届いた。恐る恐る振り向くと、そこには母の姿が。
「お、お母さ」
「パパ!!」
すると、突然彼女が私の母の元へ走り出した。いや、正確には母の後ろへ。
「ミナ!!ああ…良かった!」
すると男性の声が聞こえて、慌てて母の後ろを凝視すると、彼女が大人の男性に抱きしめられていた。
どうやら無事父親と再会できた様だ。ほっと胸を撫で下ろす。
「ルナリア!あんたって子は全く!」
「ごめん、お母さん」
私が素直に謝ったからか、母が拍子抜けした様な顔をする。そしてふう、息を吐いた。
「…でも、私も悪かったよ。強行しようとして。
村のみんなにもさすがに可哀想だと叱られたよ」
「お母さんが素直に謝るなんて珍しい…」
「…あんたねえ」
私の家族はみんな素直じゃない。
だからこそ分かる、本当に母が反省してくれているという事を。
「それにしても驚いたよ。
あの子と一緒だったなんて」
「え?」
そう言って母が彼女に視線をやるので、逆に私が驚く。
「お母さん、あの子の事を知ってるの?」
「え?あの子から聞いてないのかい?
あの人だよ、あんたの結婚相手」
「はい??」
突然告げられた衝撃の事実。
呆然としていると、優しそうな顔をした男性が彼女と手を繋いでこちらにやって来る。
「大変ありがとうございました。
あなたがうちの娘をここまで連れて来て下さった様で」
「ねえ!お姉ちゃん!お姉ちゃんがパパの結婚相手なの!?」
抑えきれないといった感じで喋り出した彼女の口を、男性が慌てて塞ぐ。少し頬が赤らんでいて、思わず私も顔が熱くなった。
「こちら、あんたの相手にどうかって紹介されたサイラスさん。
娘のミナちゃんとはぐれたって慌ててうちに駆け込んできて、一緒に探してたのさ」
「そ、そう…」
としか答えられず、何となく俯く。
しかし、小さな背の彼女と目がばっちり合ってしまった。
「お姉ちゃん、結婚するって言ってたよね!
ミナと家族になるの!?」
嬉しい気持ちと恥ずかしい気持ちの中、私は小さく肯定したのだった。