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ヤマダヒフミ自選評論集

時とインスピレーション


 私が歴史を勉強していてわかったのは、歴史そのものではなかった。それよりも「歴史」という概念が近代に作られたものだという事がわかった。歴史は近代の国民国家が、自己のアイデンティティの為に創り上げたものだと思う。

 

 例えば、江戸時代に武士と農民に、「どちらも同じ日本人ですよね」と言うのは滑稽に違いない。農民と武士との間には天地ほどの隔たりがある。アイデンティティは、「日本人」「ドイツ人」などといった風に区切れていなかった。もっと狭い範囲内で区切れていた。

 

 とはいえ、遠目で見れば、「日本人的」と言えるエートスや、歴史的流れもぼんやりと存在する。その為に「日本史」は可能だった。だが、これを絶対確実な地盤とみなすとおそらく大きな間違いを犯す。根底的には、最も正しいのは仏教なのだと思う。

 

 私は歴史について語りたいわけではない。時間について語りたい。

 

 歴史において、時間は整序され形作られた。そこに歴史家の努力があった。我々が過去を回想する時、切れ切れの断片が浮かんでくるばかりだ。

 

 考古学が現れる前には、土を掘り返して頭蓋骨が出てきても、ゴミとして捨てられるだけだった。それが何十万年前の猿人のものか、最近の誰かなのかはどうでもよかった。それを見る人がいなければ、ただの頭蓋骨に過ぎなかった。

 

 しかし、そうしたものを時間の中に配置する術を覚えて、情景は一変した。過去は拡張され、今を生きる人間のサイズも、時間的な遠大さの中で小さくなった。

 

 ただ、歴史というものが近代に作られたものだと考えるとすると、そこでは近代という短い時間軸が大きな時間を作り出したという風に言える。歴史家そのものはいかなる時間の中にいるのかというのはまだよくわかっていない。誰も認識の背後を振り返れない。時間を創り出した人間はいかなる時間の中にいるのか。それは別の時間、別の次元の誰かが描くべき事柄だ。

 

 ※

 

 芸術家におけるインスピレーションというものを時間の側面から考えてみたい。インスピレーションは、一挙に現れる。徐々に現れるのではなく、全体像が電光に照らされたように一気に現れる。それは時間全体の配置が見えるという事でもある。即ち、空間的に見られた時間像が現出するという事だ。

 

 ドストエフスキーは、小説のアイデアを絵画になぞらえていた。絵画は空間的な表象だ。しかし、文学作品は時系列順に沿って現れる。ドストエフスキーは、作品の時間経過を、全体として眺めた。それが彼のインスピレーションだった。

 

 人生は続いていく。だが、人生を外から眺める事ができれば、それは時間の外側にいる事になる。時間の外側にいる人間は、時間的な存在とは言えないだろう。それは過ぎ去っていく時間に対して「他者」の位置にいる。

 

 偉大な文学作品はそのように生まれてきた。つまり、人生という時間経過に対して、「他者」の立場に立つ事。

 

 現在はどうだろう。例えば、村上春樹が描こうとしている「救済」のポイントがどこにあるのかを見てみればいい。

 

 村上春樹は宗教を知らない。宗教とは、端的に言えば「絶対他者」、つまり存在し得ぬもの、語り得ないものである。偉大な文学作品の終末にはしばしばこれが現れる。というのは、人生の内部に答えはないからであり、外部に求められなければならないからだ。だが、外部とは何であるか。それは時間の外側の存在だろうが、同時に語り得ないものでもある。

 

 私はここ五十年くらい、碌な小説はないと思っている。もちろん例外もあるが、全体的な傾向としてはそうだと思う。ジャンルとして見れば、大江健三郎・中上健次くらいまでは「文学」だが、それ以降はサブカルチャーに傾斜している。その分水嶺を成すのが村上春樹という認識を持っている。

 

 村上春樹は宗教を知らない。にも関わらず、彼は作品の中に救済を持ち込もうとしている。すると結論はどうなるか。人生の中の、つまり仏教的に言えば流れ去っていく中のある部分を絶対化して固定化するという方法論に陥っていく。

 

 村上の最近の作品を見ると、バブルが過ぎ去ったのに未だに主人公達はバブルの中にいるような雰囲気がある。彼は、戦後の日本の経済的発展と、帝国ーーアメリカとの融合の中に救済を見出そうとしている。これは仏教的に言えば、間違った認識と言えるだろう。というのは仏教は、概念を固定化する過ちを証明しているからだ。

 

 村上春樹に留まらない。他の色々なものもそうだ。未だにドラゴンクエストの続編が待ち望まれている。アニメのキャラクターは永遠に、楽しい学生生活を続ける。しかし、そうしたものは時間の内部のものを固定化し、絶対的にしようとする試みに過ぎない。一時の繁栄を永遠と取り違えた誤謬に過ぎない。文学が、芸術が消え、サブカルチャーが支配的になったとはそういう事ではないか。時間を他者から見る目を失ったという事ではないか。

 

 ※

 

 いわゆる普通の人と話すと、時間の「中」を生きているという印象を受ける。言い換えれば、「今」を生きているという事だ。

 

 「今」を生きるという事は、継起していく時間における「今」と「今」、つまり、過去のある出来事と現在の出来事とが矛盾していてもそこに矛盾は感じないという事を意味する。

 

 例えば、以前付き合っていた男がいるとする。その男は「最高」だった、と当時は思う。だが色々あって、別れた後は「最低」だったと思う。二つの最高と最低は矛盾しているが、今を生きている人間はそこに何の矛盾も感じない。

 

 メディアを見てみれば、全てそうなっている。人はすぐに忘れる。メディアには常に「旬」のタレントが出てくる。着せかえ人形のように、どこかで見たような誰かが次々と出てくる。過去の「旬」のタレントがどうなったか。誰も興味がない。現在は刻々と消費されていく。

 

 今を生きているだけの人間は、「文学」という時間を見る術と最も程遠い存在でもある。時間の只中にいて、その内部で幸福を求める人間に、外から見た自分の姿は絶対に目に入らない。

 

 時間は創造するものでもある。創造しなければ消えてしまうものとも言える。現代哲学が、歴史を放逐し、論理と形式に逃げ込んだという事。それは時間を排除したとも言える。時間のない人間は軽薄である。しかし軽薄な時代には軽薄な人間がふさわしいだろう。

 

 一人の人間がある人生を歩む、と普通に考えるのは間違いだ。一人の人間が個性的な人生を歩むには満身の努力が必要になる。一人の人間が、一つの時間となるには一つの創造が必要になる。自分自身を創造しなければならない。天才の伝記が文学性を必然的に帯びるのは、おそらくその為だろう。

 

 人が生きるとは通常、その個性が全体に溶ける事を意味する。個が個である為には、自分を世界から切り離す作業が必要になる。社会が調子のいい時に、個の確立が難しいのは当然と言えるかもしれない。「女の一生」のような文学作品よりも、個性が周囲に溶けて救済される様を描いた作品の方が価値あるように見える。

 

 しかし、文学とはそのようなものではないだろう。時間は空間性から抜け出る事によって現れてくるが、その苦しい生涯を俯瞰する時、それは絵画的なものに見えてくる。もう一度、空間性が復活する。それが作家の、芸術家のインスピレーションだろう。芸術家のインスピレーションとは神秘的なものではない。それは時間的継起を高所から見下ろす冷静な認識に他ならない。時間の波の只中にいる者には、時間は見えてこない。時間が見えるのは、それを抜け出た人間に限られるだろう。

 

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