赤い髪の女
衣料品店を出ると一旦旅支度の為にアスティアの家に戻ろうという事になった。
その帰り道、食堂の前を通り掛かると中から何やら揉め事のような音が響いてくる。
「なんだい?酔っ払いの喧嘩か何かか?」
櫻が窓枠に手をかけ中を覗き込むと、そこには屈強な男と胸ぐらを掴みあいながらも全く負けていない大柄な女の姿があった。
その女は随分特徴的な姿をしており、真っ赤な長いボサボサ髪に赤い瞳、肌は軽く日焼けしたような薄褐色をしており野性的な印象を受ける。足にはサンダルのような物を履き、そしてインディアンのような衣服を纏っているのだが、そのサイズが大柄な身体にすら余る程のブカブカ具合だ。
「なんだテメェ!アタイに喧嘩売ってんのか!?」
「へっ、そんなガサツだからそのデケぇ胸も持て余してるんじゃねぇかと思って親切心で相手してやろうかって言ってやってんだよ!」
その男の言う通り、全身を隠すかのような服装にも関わらず、外観からですらその胸の大きさは際立って見える。
「フザケんじゃねぇ!テメェらみてぇな汚ぇ野郎共がアタイの身体に気安く触れていいもんじゃねぇってんだよ!」
どうやら酔っ払いの男がその女に口説き絡みをした挙句、女の機嫌を損ねるような事を口走ったのが発端のようだ。
「あ~、こりゃ関わらん方が身の為だね。」
「そうだね。早く帰ろう。」
(どんな世界でも結局人間のやる事は変わらんもんだねぇ…。)
櫻はシミジミとそんな事を考えつつアスティアの屋敷へと足を向ける。
すると少し歩いた所で
「魔獣が出たぞー!」
大きな声と共にカンカンと半鐘が町に響く。
「えぇ!?また!?」
驚くアスティア。
「魔獣ってのは日に何度も出会う程頻繁に出没するもんなのかい?」
「まさか!今日森で出会ったのだって滅多に無い事だよ。ボク長い事森に入ってたけど、それでも魔物に出会った事なんて5・6回くらいだもん。」
「その時はどう対処してたんだい?」
「え?勿論飛んで逃げたよ。魔物なんて怖くて相手出来なかったし。」
(ふむ?あたしがこの世界に降りた日に…これは単なる偶然か?)
腕を組み考えていると、先程の食堂の扉が『バンッ!』と派手な音を立てて開き、中から飛び出す影が一つ。先程の大柄な赤い女だ。
「あ、さっきの女の人…。」
アスティアが指差す間も無く、その女は左右を見回してから物凄い脚力で魔獣が出たという声の方向へと走って行ってしまった。
「何だ?自分から魔獣の出た方へ向かっていったぞ?」
呆気にとられて眺める櫻。するとその目の前で再び食堂から人影が飛び出てきたと思うと、
「こら~!金払ってから行けー!」
大きな声が再び町に響いた。
呆れながら赤い女の走り去った方向を眺めていた櫻であったが、
「なぁアスティア。普通魔獣が出たらどういう対処をするんだい?」
「え?いつもなら町の自警団とかが総出で退治に行くけど、手に負えないようなのが出た場合にはギルドを通して魔物ハンターを雇ったりするかな?あ、あの人ひょっとして?」
「成程ねぇ。多分お前さんの予想通りなんだろうけど、あの女、何も武器らしい物も持ってなかったね。」
「そういえば…。」
「ま、あんなに躊躇いなく向かって行ったんだから何かあるのかもしれんが、一応あたしらも行ってみようじゃないか。」
そう言って少々小走りに赤い女の後を追う事にした。
程なくして町外れへと到着すると、家屋はまばらになり代わりに木々が多くなってくる。
「さて何処に行った…?」
辺りを見回す櫻。すると『ズズン!』と激しい音が聞こえて来たかと思うと、少し離れた場所にあった家屋がもうもうと埃を巻き上げ崩れ落ちる。その中から空高く舞い上がる巨大な影と、それとは別に瓦礫の中から転げ出す一人の姿が見えた。
「あ、居たよ!さっきの女の人だ!」
アスティアが指差すその先に居たのは確かに先程見た赤い女。どうやら魔獣と戦う為にここに向かったという説は当たりのようだ。
しかし予想外だったのは魔獣の姿だ。櫻が想像していたのは森の中で見た巨大な猪モドキだったが、今度のそれは巨大な鷹のように見える。
「驚いたね。今度のは空を飛ぶのか…。」
空に浮く魔獣を眺める櫻。すると魔獣が獲物の姿を捉えたかのように櫻に視線を定めたではないか。
「!?」
その視線に櫻も気付く。
(狙われた!?)
咄嗟に回避の為の体勢を取りつつ魔獣から視線を逸らさないようにしていると、突然魔獣の顔に何かが激突した。
思わずその飛来物の出処に目を向けると、そこに崩れた家屋の破片を魔獣目掛けて投げつける赤い女の姿があった。
「こらぁ!下りて来い!」
言葉が通じる相手とは思えないが、赤い女は魔獣目掛けて瓦礫を投げつけながら怒鳴り散らす。
瓦礫が当たる程度ではダメージにはならないようだが、その行為自体は魔獣の気を惹きつけるには十分だったようだ。魔獣は咆哮を上げると狙いを櫻から赤い女に戻し、物凄い速度で急降下すると鋭い爪をギラリと光らせる。
赤い女もそれを迎え撃つように拳を固めるが、空を飛ぶ相手に思うように攻撃を当てる事が出来ずその拳は虚しく空振る。
「くっそー!地上戦なら負けねぇのに!」
悔しそうに声を荒げる赤い女。
確かにぶかぶかの衣服の中から時折見える腕の筋肉は逞しく、先程の身のこなしからして戦い慣れている様子。地上にさえ下ろす事が出来れば対等以上に戦う事が出来るのだろう。
そんな様子に櫻が一つの案を思いつく。
「アスティア、お前さんならアイツを空から叩き落とす事が出来ないかい?」
「え?ボク!?」
「あぁ、あたしの血の力を使えば、恐らくは互角以上には戦えると思うんだが…嫌なら無理強いはしないから、はっきり言うんだよ?」
櫻の言葉にほんの僅かに思案するが
「ううん、やってみるよ!」
力強く頷いてみせた。
「よし、それなら早速。」
言うが早いか櫻が肩口をアスティアに差し出す。
元々その事を想定して肩を開きやすい服を選んでいた櫻。するりとその肌を顕にすると首を傾け受け入れ体勢を整えた。
「今は一刻を争う。思い切り牙を突き立ててくれて構わんよ。」
覚悟を決め、目をギュっと瞑る。アスティアもその言葉を受け、一気に牙を突き立てた。
『ブツッ』と鈍い音がすると同時に激痛が走る。
時間にして5秒程だろうか、しかし物凄い勢いで吸い上げられた血液の量は櫻の身体から力を奪うのに十分な程であった。
その場にヘタリ込む櫻を優しく支え地面に下ろすと、アスティアは背中に力を込める。
するとその背に強靭な四枚の羽根が生えたではないか。
「え!?」
当のアスティア自身がその変化に驚く。
「今はそんな事気にしてる時じゃないよ。あまり長続きしないんだ、やる事をやってから驚きな。」
自身も困惑していた櫻ではあるが、まず優先すべきを見極めアスティアに声をかける。
「うん!」
そう言い頷くと、羽根を大きく羽ばたかせ一瞬で魔獣の高さまで飛翔する。
魔獣がアスティアの存在に気付くと、再び咆哮を上げその身を突撃させて来た。どうやら嘴で串刺しにするつもりらしいが、アスティアの向上した身体能力はその動きを的確に捉え、身を翻し躱す。
だがその動きに相手の力量を見た魔獣も即座に行動を変化させ、翼を羽ばたかせたかと思うと無数の羽根が高速で飛来し、刃のようにアスティアの身体を切り裂いた。
「あぁ!」
空にアスティアの悲痛な声が響く。
「おい、そこのアンタ!誰かは知らないが空じゃそいつ相手は不利だ!何とか地上に落とせないか!」
赤い女が声を上げるが、空では羽根の刃と魔獣の突撃に翻弄されアスティアは離脱も出来ない状況になっていた。
(くそ、いくら身体能力が上がっても小さい女の子じゃ闘い方なんて知る筈も無いか…無茶をさせちまった…!)
下唇をグッと噛み締め、後悔の目を空に向ける櫻。
「こらー!お前の相手はアタイだよ!降りて来な!」
大声で叫ぶしかない赤い女に視線を向ける。
(一か八か、あの女にあたしの血を与えてみるか…?いや、しかしヴァンパイアでもない人間に血を飲ませるというのは…。)
「えぇい!」
覚悟を決め自らに気合を入れるように櫻が叫ぶ。
「そこの女!ちょっとコッチに来な!」
その幼い声に不釣り合いな力強い言葉に赤い女が耳を疑い振り向く。
「あぁ!?」
思わず喧嘩腰に声を返すが、女はその声が決して伊達や酔狂ではない事を直感した。
「おい、大丈夫か?こんな所で何をしてるんだい?」
赤い女が櫻に駆け寄る。すると、櫻の姿を見た女の身体がワナワナと硬直した。
(…?)
女の動きが止まった事に疑問を持つ櫻であったが、今はそんな事を気にしている場合ではない。
「おい、あんた。時は一刻を争う。今から言う事を信じてくれ!」
真剣な眼差しを向け声をかけると、赤い女も我に返ったようにその瞳を見据える。そして櫻の本気を理解し頷いた。
「今上で魔獣の相手をしている娘が居るだろう?あの娘はあたしの血を飲んで一時的に身体能力が強化されているんだ。だが見ての通り戦いなんて無縁だったせいでまったくそれを活かせていない。」
魔獣の攻撃に反撃を加える事もままならず嬲りものにされるアスティアを見上げ悔しげに顔を歪める。
「恐らくあんたもあたしの血肉を得る事で飛躍的に身体能力が向上する筈だ。あそこまで跳び上がる事だって出来る筈…確証は全く無いがね。」
その言葉を聞いた赤い女の喉が『ごくり』と鳴ったように思えた。
「今は可能性に賭けるしか無いが躊躇っている暇も無い。頼む、あたしの血を啜ってくれ!そしてあの娘を助けてやってくれ!」
そう言って櫻は再び肩口を顕にすると
「人間の顎の力で動脈まで噛み切るのは難しいかもしれんが、遠慮は要らん、全力で噛み付いてくれ。」
「…本当にいいんだね?」
櫻の言葉を受けた赤い女がニヤリと笑い舌舐めずりをする。すると、その口の中に無数の牙のような鋭い歯が並んでいるのが見え、櫻の背筋に怖気が走った。
(こいつ、人間じゃ…ない?)
そう思った時には既にその首筋に、まるで鋸の刃を押し当てられたような感触を覚え、続いてブチブチと首筋の筋繊維が断裂するような感覚が走る。
「ああぁぁぁ!」
思わず悲鳴を漏らすとその女の顎の力が瞬間弱まった気がしたが、
「いや、すまん、構わんから続けてくれ!」
苦悶の声でそう言う櫻の言葉を受けて女も軽く頷いて応え、動脈を突き破り傷口から大量に溢れる血を『ゴクゴク』と喉を鳴らし飲み干した。
女の口が櫻の首元から離れると、破られた動脈から血液が吹き出し女の口元から胸元、そして櫻の半身を赤く染める。
櫻は慌てて傷口を手で押さえると、超回復で修復を開始する。その様子を驚きと共に見つめていた女は少し安堵の表情を浮かべると、自身の身体にとてつもない力が湧き上がっている事に気付いた。
「おぉ!?これは確かに凄い…!これならやれる気がするよ!」
そう言って全身に力を込め始めると、なんと女の身体が徐々に肥大化し、全身が灰色の毛で覆われていくではないか。
それと共に顔が変化していく。その姿はまるで獣。そして櫻はその姿を知っている。いや、正確にはそのような存在を物語の中で聞いた事がある、と言うべきだろう。
「人狼…。」
赤い鬣をなびかせるその姿は、人間形態であった時にはぶかぶかだった衣服がぴっちりと筋肉を際立たせる程に大きく逞しい。
目の前の出来事に瞬間呆然とした櫻であったが、空から聞こえるアスティアの苦しげな声に我を取り戻し見上げる。
「アスティア!辛いだろうが、そいつの突撃を正面から受け止めろ!僅かでいい、動きを止めるんだ!」
櫻が力の抜けた身体で腹の底からありったけの声を上げると、アスティアも地上の様子を見て察し頷く。
その二人の動きに赤い女も言葉は無くともやるべき事は自ずと見えた。
それなりの時間を相手にしていると徐々に行動パターンが読めて来ていたアスティア。撒き散らされる無数の鋭い羽根を最小限の被害でやり過ごすと、次に来る突進に備え魔獣の正面に身体を向ける。
その衣服は既にボロボロであったが、ヴァンパイアの持つ再生力のおかげか、はたまた櫻の血の力か、アスティアの素肌に目立つ程の外傷は無い。
「さぁ、来なよ!」
強い眼差しで魔獣を見据え挑発的に声を上げると、恐らくなかなか仕留めきれない目の前の獲物に苛立ちを募らせていたのだろう、魔獣は『キィィ!』と高く鳴き声を上げ高速で突撃を繰り出してきた。
アスティアが身体を大の字に広げソレを迎え撃つと、魔獣の嘴がアスティアの腹部を貫き背中まで貫通し、空からアスティアの血が降り注ぐ。
「アスティアー!!」
櫻が悲鳴にも似た声を上げると、その声に無事を伝えるように広げた両腕で魔獣の首元を締め上げる。
『ギュアァァ!?』
魔獣が苦しげに鳴き声を上げ翼をバタバタとさせ暴れるが、アスティアもその動きを打ち消すように羽根をはためかせ動きを制する。
そして確実に動きが止まったその時を、地上で見上げていた赤い女は見逃さなかった。
思い切り足に力を込めて地面を蹴ると、その身体が遥か上空に在る魔獣の身体目掛けて打ち上げられた。
ものの数秒でその高度に達した赤い女は魔獣の足に掴みかかると、そのまま暴れる身体を這い上がり背中へ。片腕で魔獣の背中にがっしりと掴まると、翼目掛けてもう片方の腕を振り下ろした。
『ドスッ』と鋭い爪が翼の根元に突き刺さると、そのまま力任せにメリメリと翼をもぎ取る。
空に魔獣の悲鳴のような鳴き声が響き渡った。翼のあった根元から大量の血を撒き散らしながら魔獣は片翼をバタつかせるものの、最早飛ぶ事も適わず高度を落とし始める。
「ぐっ…!」
アスティアが苦痛の声を漏らしながら腹に突き刺さった魔獣の嘴から身を引き離すと、力を使い果たしたのか背中の羽根が霧散し、身体は宙に投げ出され地面へ向け落下を始めた。
「まずい!」
櫻が慌ててアスティアの落下予想地点へ駆け寄るものの、クッションになりそうな物が何も見当たらない。
(どうする!?何か無いか!?)
慌てて周囲を見回すと、そこに大人数の大人達が駆け寄ってきたではないか。
「な、何だ!?」
状況を飲み込めず驚く櫻だったが、そんな櫻を他所に大人達が何やらネットのようなものを広げ始めた。
「もっと右だ!」「もう少しこっちに寄れ!」「もっと高く強く張るんだ!」
そんな声を掛け合いながら空を見上げる大人達、それはアスティアを受け止める為に広げられた物だったのだ。
みるみる高度を落とすアスティアの下に、既の所でネットを用意出来た瞬間、それを支える大人達の腕に強い衝撃が走る。そしてその衝撃の元であるアスティアの存在を確認した一同に一斉に歓声が湧いた。
一同はアスティアに駆け寄り意識がある事を確認すると、
「無事か!?」「よくやった!」「動けるか!?」「俺の血を飲むか!?」
等と思い思いに声をかける。どうやらこの町の自警団達のようで、アスティアとは顔見知りなのだろう。
それと時を同じくして魔獣の身体が地面に激突すると、その背に乗った赤い女の手刀が残りの翼をもぎ取り、とどめとばかりに頭部に全力の拳を叩き込み魔獣はその生命活動を止めた。
「魔獣討伐、お疲れ様です。あの、貴女は魔物ハンターですね?」
自警団の一人と思われる人物が赤い女に近付き声をかける。
すると獣のような姿だった女はみるみる人の姿に戻り
「あぁ、依頼じゃなかったけど、報奨金は出るよね?」
と唐突に商売っ気を出し始めた。
「えぇ、ですがこの様子を見るに、アスティアと山分けという事になると思いますが、構いませんね?」
「そりゃぁ勿論。あの娘が何者かは知らないが、あの娘の協力が無かったらとても倒せなかっただろうからね…あと、そこの子もね。」
そう言って櫻に目配せをする。
「あの子は…?この辺では見かけない子供ですが…。」
「ん?何だい、この町の子じゃないのか?」
(あ、これは説明が面倒になりそうなヤツだな…。)
二人のやりとりに面倒な予感がした櫻であったが、アスティアの事もありこの場を離れる事も難しい。
すると、
「その方はボクのご主人様なんだよ。」
その声に皆が同じ方向を向く。
よろよろとした足取りで、まだ腹部の穴が塞がりきっていないボロボロの身体に無理をさせ櫻に歩み寄るアスティア。
櫻もアスティアに駆け寄ると、倒れそうになるその身体を小さな身体で支え
「よくやったね…。」
と声をかけると、アスティアに満足気な笑顔が浮かんだ。
「一先ずアスティアを休ませたい。話はまた後日にして今は帰らせてくれないか。」
櫻の言葉に一同は顔を見合わせると、はぐらかされているのは解っているものの了承しない訳にも行かず頷いた。
「それならアタイが運んでやるよ。その小さい身体で支えるのは辛いだろう?」
赤い女が名乗り出ると、
「…アスティア、それでいいかい?」
「うん、ボクは構わないよ。」
頷くアスティアに、血を与えた手前一応説明をする必要もあると判断し連れて行く事としたのだった。