神の血
池の水面に身を横たえて浮かぶアスティアを眺めながら櫻がフと思う。
(ん?吸血鬼ってのは確か流水や日光は弱点じゃなかったか?)
空を見ると、日が傾いては居るが池はキラキラと日光を反射して輝いている。
「なぁアスティア、お前さん吸血鬼なんだよな?」
プカリと浮かび瞳を閉じていたアスティアに問い掛ける。
「キュウケツキ?何それ?ボクはヴァンパイアだよ?」
(…?あぁ、吸血鬼ってのは日本語だし、通じないのか?ん?それならあたしは今何語で話してるんだ?)
途端に今本題では無い疑問が様々湧き出てきてしまう。
「…いや、まぁいいか。で、ヴァンパイアってのは流水や陽の光が弱点で、灰になってしまうんじゃなかったか?」
取り敢えず目の前の疑問から片付けてしまう事にすると
「え?何それ?そんな弱点なんかあったら生きて行けないじゃない。そんなの誰から聞いたのさ?」
「いや…誰から…うん、そうだね。誰からだろう?」
映画や小説、漫画にアニメにゲーム、様々な媒体でそのように描かれた吸血鬼像はそもそもが創作だ。言われてみれば当然で、そんな弱点があったら生活がとても大変だろう。考えてみれば当たり前の答えであった。
「変なの…って、そういえば、何でボクの名前知ってるの?名乗ってないよね?」
池の中に身を起こしアスティアが今更に気付く。
(あぁ、そういえば…。)
櫻もいつの間にか名指しで呼んでいた事に今更気付くと
(う~ん、もう血も飲ませてしまったし、口約束とは言え旅に同行してくれると言質は取ったし、これはもう使徒認定で良いのか?)
少し考え悩む。
「ま、いいか。」
自分を納得させる一言を発し
「いいかい?今から言う事は決して嘘や冗談じゃない。それを信じられるかどうかはお前さんに任せるが、その事は解っておくれよ。」
そう前置きをしたうえで、別世界の事は省略しつつも、この惑星の人類の神として降り立った事、櫻の能力の事、そしてアスティアを騙すような形で使徒とした事を説明した。
果たしてこんな突拍子もない事を信じてくれるものかどうか…櫻が不安に思いながらアスティアを見ると、
「す、凄い!ボク神様の使徒になっちゃったの!?」
思いの外嬉しそうだった。
どうやら話を丸っと信じて居る様子。事実、本当の事しか言っていないのだから信じて貰えるに越したことは無いのだが、この純真無垢さに櫻は少々先が不安になるのだった。
「それじゃボクはこれからキミの事を神様って呼ばなきゃ失礼だよね!?」
瞳を輝かせながらグィっと顔を近付ける。思わず先程の事を思い出し首筋に手を添えてしまうと、ハッキリ突き破られた痛みの有った首筋にはまったく傷など無く、自らの再生能力に驚いた。
「いや、あたしが神であるという事は出来れば大衆には知られたく無い事なんだ、人前でそんな呼び方をされては困る。」
「えぇ…?じゃぁ何て呼べばいいの?って言うか、まだ名前を聞いてなかったね。」
「ん?そうか。あたしは春乃櫻と言うんだ。」
「ハルノサクラ…随分変わった名前だね。それじゃハルノサクラ様って呼べばいいのかな?」
「いや、春乃は苗字だ…。フルネームで呼ばれるのは何だかな。」
「ミョウジ?」
(そういえばアスティアはこれでフルネームなのか?この世界には苗字は存在しないのか。)
「いや、そうだね。櫻だけで良いよ。」
「うん?解ったよ。サクラ様!」
「いやいや、様は要らないよ。何だかくすぐったいし、人前でそんな呼ばれ方したらまるで偉い人みたいじゃないか。」
「えぇ?でも実際偉いって言うか、偉いなんて言葉じゃ足りないと思うし、何かそう呼ばないといけない気がする…。」
そう言ってアスティアは少し困ったように俯いてしまった。
(何だ?まさか使徒になると強制的に敬うようになるのか?もしそうなら洗脳レベルじゃないか…。)
櫻は少々引き気味にその様子を見るが、小さく溜息をつくと
「…解った。じゃぁその呼び方でいいよ。だけどせめて人前でだけは『様』付けはしないでくれ。これはあたしの在り方にも関わる事だ、解ってくれるね?」
理由を明確にする事で論理的に納得させる。
「分かったよ!でも呼び捨ては絶対に出来ないし、他に何て呼べば良いかな?」
「あたしは別に何でも良いよ。『さん』でも『ちゃん』でも『御老公』でも。」
「ゴロウコウって何?」
「いや、単なる冗談だ、そこは真面目に突っ込まんでくれ。」
ハハッと笑う。
「それにしてもヴァンパイアのボクが神様の使徒になるなんて、運命的だよね。」
アスティアが感慨深げにそう呟いた。
「ん?どういう意味だい?」
「あ~、えっとね。ボク達ヴァンパイアっていうのは、元々とある地方の一族だったらしいんだ。その一族は大昔に神様に寵愛を受けて、不老不死の魂を与えられたんだって。」
そう言いながら櫻の手をそっと取ると池の中へ導く。
「何だい?随分曖昧だね?」
「うん、そう伝え聞いただけでボクにその記憶がある訳じゃないからね。」
「記憶が無い?」
「ボク達ヴァンパイアは、何かの原因で肉体を失うと、その時に近しい時間に亡くなった人の身体に魂が入り込むんだ。そうして新しい身体を獲て蘇るんだけど、その時には前の身体の記憶が全然無くなっちゃうから本当の事は何も覚えて無いんだよね。」
泥で汚れていた櫻の身体を洗いながら、誰かから伝え聞いたのであろう自身の事を話す。
「それじゃ今のお前さんは元は別の誰かだったって事かい?」
「うん。でもその元の誰か…このアスティアっていう名前も元々はその人のだったみたいだけど、その人の記憶とかも特に残ってる訳じゃなくて、性格なんかは少し影響を受けてるみたいだけど、今のボクはボク自身で間違い無いよ。」
そう語るアスティアに、少しばかりの複雑な表情が浮かんでいたのを櫻は見逃さなかった。
「まぁそんな訳で、神様に祝福された魂の種族であるボクが神様の使徒になるって凄く運命を感じるよね!」
「成程ねぇ。…そういえばあたしが神になるまで少しの間人類の神が不在だったと聞いたんだがね。前の神ってのはどうして居なくなったんだい?」
洗ってもらったお礼にと櫻もアスティアの身体を洗いながら疑問を問い掛ける。
「え?う~ん…?」
瞳を閉じて口を真一文字に閉じて空を仰ぐ。
「ボクはまだこの身体になって100年くらいしか生きてないし、前の神様が居なくなってから500年くらい経ってるらしいから良く解らないんだ。ごめんなさい。」
申し訳無さそうに謝るアスティア。
(おいおい、500年って…ファイアリスは『ほんの少し』とか言ってたが…これが神の視点ってヤツか…。)
「ん…?お前さん、今100年くらいって言ったかい?」
「うん、言ったよ?」
「って事は、お前さんは100歳以上なのかい?」
「ん~と、この身体の元の持ち主が11歳で亡くなったらしいから、111歳…前後かな?正確には数えてないからちょっと解らないや。町にももう覚えてる人居ないしね。」
(あたしより年上じゃないか!)
見た目の幼さに惑わされてそのように接していたが、まさかの事実に愕然とする。
「…それじゃぁ、100年程もずっと、森の中で精気を吸って飢えを凌いでいたのかい。」
「ううん、それは違うよ。この身体になって50年くらいは、この身体の元の主の両親が血液を分けてくれてたんだ。…でも、やっぱり人は寿命を迎えちゃうんだよね。最後までボクに娘の面影を見ながら、逝っちゃった。」
アスティアの背中を洗っていた櫻にはその表情は見えなかったものの、その声に気持ちを察する。
「それからはね、ヴァンパイアは人の役に立って、その見返りで血液を分けてもらうっていうルールがあるんだけど、ボクの身体は幼くて人の役に立てる事が殆ど無かったから血を貰えなくて森に来る事が多くなったかなぁ。」
へへっと困ったように笑う。
櫻はその言葉に首を傾げる。
「お前さん、さっきあの魔獣とやらを倒した時の身体能力…あれだけの力があって人の役に立てる事が無いってのかい?」
「あ、それね。ボクも驚いたよ、あんな力が出せるなんて。」
そう言うとアスティアは自分の両手を見つめて拳に『グッ』と力を入れてみる。
「あれ?でももうあの力強さが感じられないや…。これはやっぱりアレかな?」
「アレとは?」
「神様の血の力だよ!きっと神様の血を飲ませてもらったから、その神気がボクに力をくれたんだと思うんだ。」
櫻に向き直り、そのキラキラと輝く金色の瞳で強く見つめ、両肩に手を添える。
櫻はまた全身の血を吸い尽くされるのではと一瞬身を強ばらせるが、その瞳に害意は無いと判断すると肩の力を抜いた。
(血を飲む前から結構な力があったようにも思うんだが…。まぁ確かにあの程度の力では魔獣を倒した時の力との比では無いしな。)
実はあの時、アスティアは無意識に感知していた櫻の身体から発する神気を帯びた血の匂いに当てられ空腹に我を忘れ、所謂『火事場の馬鹿力』を出した状態だったのだが、そんな事は二人には知る由もない。
「ふむ?理屈としてはイマイチ理解出来んが、ここはあたしの常識が通用しない事が多そうだしねぇ…やはり色々と検証しながら覚えていくのが近道か。」
瞼を閉じ小さく息を吐き呼吸を整えると一応の最悪を覚悟しつつアスティアの目を見据えて
「ものは試しだ。もう一度飲んでみて再びお前さんの身体能力が向上するかどうかを実験してみよう。」
と提案すると、頭を軽く横に倒し首筋を顕にする。
その魅惑の首筋を目にしたアスティアは再び目の色が変わったように見え、櫻は覚悟を決めた。
しかし今度はそこまで飢えていなかったからか、それとも先程の事を反省し自制したのか、ゴクリと喉を鳴らすもののゆっくりと顔を近付けるとその首筋に舌を這わせる。
「…?おい、何をしてるんだい?」
櫻が疑問に思い問い掛けると
「あ、ボク達ヴァンパイアは本当は血を貰う前にこうやって舐めて牙を刺さり易くするんだ。これをすると痛みも少ないし傷の治りも早いんだよ。さっきはいきなり噛み付いて本当にゴメン。」
そう言いながらも丹念に舐める舌の動きは止まらない。
そのくすぐったさとアスティアの体温、そして池の水の冷たさに櫻の背筋がゾクゾクとする。
しかし先程の危機感による寒気とは違い、この鳥肌は快感に近いものを感じ、櫻の顔は紅潮してくる。
(何だいこれは…快楽物質を擦り込まれてるようだ…。)
口から自然と吐息が漏れ目がとろんと蕩けて来たその時、『チクッ』と、まるで注射針を刺されたような痛みが首筋に走りハッと我に返る。
その痛みの傍から『チューチュー』とストローでジュースを飲むかのような音がすると、アスティアに噛み付かれ血を吸われている事にやっと気付いた。
(凄いな、これがヴァンパイアの唾液の効果なのか?先程の皮膚を破られる痛みとはまるで別物だよ…何だか気持ちよかったし、クセになっちまいそうだね。)
先程とは違い大人しくこくこくと喉を鳴らすその姿に、思わず乳を飲む赤子を抱くようにアスティアの頭と身体に手を回し、優しく包んだ。
(まぁ、これから先この程度なら気兼ねなく飲ませられるね。)
小さく安堵の息を漏らす。
ある程度の血液を飲み終えるとアスティアが首筋から顔を離し、その唇をペロリと舐める。
「さて、あたしの血の力とやらはありそうかい?」
アスティアは櫻の言葉を受けて池から上がると、軽く膝を曲げ、一気に跳ね上がる。するとその跳躍力は森の木々の高さを越え、視界は森一面を見渡せる程に広がった。
その高さから難なく着地すると次は近くに見えた身の丈の倍はあろうかという岩を持ち上げ、櫻の傍まで持ってくるとソレを殴って見せる。
『ゴッ』という、無機物と有機物がぶつかる鈍い音が聞こえると、その僅か後に大きな岩にビキビキと亀裂が走り砕けた。
その様子に当のアスティア本人も驚きで目を丸くする。
「おぉ、本当に身体能力が向上しているようだねぇ。実感は無いが、あたしの血の力ってのがそこまでの効力があるとすると、あたし自身も神として変化したってのを思い知るね。」
「凄いよ!ボクにこんな事が出来るなんて…これならボクは神様の使徒として役に立てる!」
嬉しそうにその場でピョンピョンと飛び跳ねるアスティア。しかし突然、着地の際に膝がガクっと折れて地面に倒れてしまった。
「おい!?どうした!?」
慌てた櫻が池から上がりアスティアに駆け寄る。
しかし、近付いてみると何事も無かったように上体を起こし特に変わった事は無い様子。単に転んだだけのようだ。
「えへへ。神様の血の効果はあまり長く続かないみたいだね。突然力が抜けて転んじゃった。」
笑顔でそう言うアスティアの様子に櫻も安堵する。
「やれやれ。またお尻やら背中やらに泥が付いちゃってるじゃないか…もう一回身体を洗ったらいい加減に服を着ようか。」
アスティアの手を取り再び池の中へ入り、互いの身体を洗い合うのだった。