青空の星
ティファの部屋、その窓辺に、櫻、アスティア、そしてティファが歩み寄る。
窓越しに見上げる空は未だ灰色の雲が薄く広く残り、雨が上がったとは言っても散歩日和とまでは行かない。
(ふ~む、もう少し青空が欲しいな…雨はもう降らないだろうから作物の生育にも問題は無いだろうし…。)
少し考えると、櫻は徐に窓を開け放ち、空に向けて掌を突き出すように腕を伸ばす。そして扇ぐように腕を動かすと、何と空を覆っていた灰色の雲達が物凄い早さで流れて行くではないか。
そして見る見る内に青空が広がり、太陽の光が大地に降り注いだ。それは普段の砂埃の舞う空とは違う、雲どころか正しく塵一つ無い美しい青空。
(うん、練り上げ続けてるだけあって、これだけの事も即座に出来るようにはなったか。後は徐々に掴まえておける精気の種類を増やせるようにしていけば、もっと色々な事が出来るようになって行くだろう。)
そんな事を考え満足気に『うむ』と頷く櫻に、ティファは驚き、ポカンとした表情を向けていた。
早速ティファの手を引き、櫻達は一階へと下りる。前を行く自分よりも小さな女の子の底の知れない様子に、ティファは少しの恐怖と、それ以上に惹かれる何かを感じ、引かれるままに足を運ぶのだった。
店の出入り口から出ると目立つ為に裏口から出る必要が有るのだが、それには台所を通る必要が有る。するとそこに居たファティマが櫻達の姿に気付いた。そして娘と櫻の握られた手に視線を向けると、にこやかに微笑みを浮かべた。
「あたし達は少し散歩に出て来るよ。そんなに遅くなる事は無いつもりだ。」
「あら、解ったわ。気を付けて行ってらっしゃい♪」
引き篭もった娘が外に出る。それだけでも嬉しい事なのだろう。ファティマは満面の笑顔を浮かべ、三人に小さく手を振り見送った。
外に出ると、裏口とは言え町の音がダイレクトに聞こえて来る。するとティファはビクビクと肩を竦めて足を止めてしまった。
「大丈夫だよ。何も怖くないから。」
アスティアがティファの両肩に背後からポンと手を添えると、彼女は一瞬ビクリとし、深く被ったフードが小さくコクリと頷く。
「まぁ今日は空の散歩だ。表に出る必要も無いだろう。こっちに行こうか。」
そう言って櫻は家の裏手、ティファが夜中に水浴びをしていた方へと手を引く。地面は雨の後だと言うのに既に水を吸い込み、湿っているだけで水溜まりという程の水も残っては居ない。良く見てみると薄く生えた草の間に雨水の精霊らしき者達の姿も在ったが、それらもスゥ…と地面の中へ吸い込まれるように消えて行く。
(ふむ…この土地にとって雨は殊更に重要なようだな。余り不用意に雲を散らすのも良く無いか。)
チラリと地面に視線を向けながら、櫻は先程の自身の行動に少しばかり反省する。
(だがまぁ、今日ばかりは許して貰うとしようか。)
空を見上げれば一面に広がる青空と、燦々と照らす太陽。自分がやったとは言え、これ程の快晴に気分が良い。思わず自然と笑顔が浮かんだ。
裏手に到着すると、そこではウララが短い草を食べ辛そうにしながらモソモソと食んでいる姿が在った。
《ケセラン、あたし達は今から空に行くから、落ちると危ないしウララと一緒に留守番をしてておくれ。》
《わかった~。》
櫻の頭から白い毛玉がピョンと飛び出しウララの頭に飛び乗ると、ティファは驚いたように櫻とウララに交互に首を振り目を丸くする。そんな様子に櫻とアスティアはクスリと笑みが零れた。
「さて、それじゃアスティア、頼むよ。」
櫻はそう言うと軽く両腕を横に上げる。そこにアスティアが腕を滑り込ませるように背後から抱き締めると、櫻もその手に手を被せ優しく添えた。
ティファの見ている前でアスティアは軽く背中に力を込めると、今まで何も無かったそこに、ほんの僅かの間に黒く大きな、鳥人族とは全く異なる羽根が姿を現す。ティファは今まで見た事も無い羽根に目を見張り驚くと共に、背中の翼に生え揃う羽毛を『ぶわぁ』と逆立てながらポカンと小さく口を開いていた。
「ほら、ティファも。」
驚きの連続に思考が停止しそうになっていたティファに櫻が声を掛けると、彼女はハッとして我に返った。そして恐る恐る翼を開く。だが、目の前に他人が居る状況でのそれは彼女にとって途轍もない勇気が要る事だ。ゆっくりと開かれる翼はプルプルと震え、肩に力が入っている。
「ここにはボク達しか居ないから大丈夫だよ。それに、ティファの翼は、珍しい色だけど何も変じゃないもん。自信を持って。」
「何も焦る事は無い。少し深呼吸してごらん。そして周りの音は気にしなくて良い。空を見てみるんだ。あそこに行けばきっと気持ち良い、それに思いを馳せてごらんよ。」
二人の言葉にティファは小さく数度コクコクと首を縦に振ると、素直に『すぅ~…はぁ~…』と深呼吸をした。そしてバッと空を見上げる。するとその視界の先には、一面の青空と降り注ぐ太陽の光。雨が上がって直ぐの為か、澄んだ空を飛ぶのは鳥達ばかりで鳥人族の姿も無い。
一瞬、ティファはその空の広さに息を飲む程に見惚れた。それは、今まで他人の目を気にしてばかりで『世界』に目を向ける余裕の無かった彼女にとって余りに広く、自由を感じる光景であった。
そんな空を見上げていると、自然と肩の力は抜け、翼は自然とフワァと柔らかく開いて行く。
櫻とアスティアは、そんなティファの様子に顔を見合わせて微笑み合った。
「さ、そろそろ行ってみようか。」
「うん。」
櫻の言葉にアスティアは明るく返事をすると、羽根を大きく広げてブワッと羽ばたいた。するとその身体が跳躍するように地面を離れ、ティファの前に影を作る。
「ほら、ティファも。」
アスティアが声を掛けると、ティファも、
「う、うん。」
と慌てたように翼を広げ、そして数度小さくパタパタと動かすと続いて大きく羽ばたいた。それは数日前に見た同年代の子供の羽ばたきとは違う、大人に近い力強さを感じ、その身体を持ち上げた。
二度、三度と羽ばたくと、見る見る内にその高度を上げ、少々不安定ながらも手足を軽く広げてバランスを取り、落下の危険は全く無いように見える。
「うんうん、これなら大丈夫そうだね。それじゃぁ…あっちに向かって飛んでみようか。」
そう言うと、櫻は湖の広がる町の東側を指差して見せた。小さな町とは言っても端から端まで歩けばそれなりに一日を潰せる程の規模。その大きさを越える広さの湖だ、他人の目に付く事も少ないだろうという櫻の考えであった。
アスティアが先導して飛び立つと、ティファは慌てたように羽ばたいて後に続く。だがまだ不慣れなのか、その飛行速度はそれ程早くは無い。アスティアもそれに気付くと少しばかり速度を落とし、隣に並ぶように飛んだ。
やがて湖の中央辺りの上空に到着すると、改めて辺りを見回してみる。町と湖を囲む円形の低い山。それは改めて見ると、火山性のカルデラと言うよりは、隕石の落下跡のようにも見える。外側には荒涼とした山々が広がり、小さな町であってもこの場所が如何に人にとって恵まれているかが実感出来る。
山の上に在る町とは言え、その空は更に高く、そして眼下に広がる湖は波も無く穏やかに太陽の光を反射し、まるで鏡のようだ。流れる風は上空故に少し肌寒いが、そんな事が気にもならない程に空気が気持ち良い。
「う~ん、良い風だ。どうだい、気持ち良いだろう?」
「…うん…。」
空から見渡す世界の広さに、ティファは言葉を失い、ただその光景を見回す。
「ふふっ、そんなフードを被ってたら視界が悪いだろう、脱いだらどうだい?」
「えっ!? で、でも…。」
キュッとフードに手を掛け俯くティファ。すると、眼下に広がる湖の湖面に、一瞬何かがキラッと光ったように見えた。
(…?)
最初は太陽の光が反射したものかと思ったものの、それは太陽とは別の何かだ。フードに掛けた手から力が抜け、そのままティファの視線は湖面に釘付けとなる。
「…どうしたんだい?」
ティファの様子に気付いた櫻が声を掛けるも、彼女の視線は下を向いたままだ。すると再び湖面に何かが光る。そしてそれが空を映したものだと気付いたティファは、バッと空を見上げた。
「…ぁ…。」
フードの庇越しにも目を細めながら空を見上げると、遥か上空に時折何かが小さく光るではないか。そこに何かが在る訳でも無いのに、それはまるで昼間に見える星のようで、目を凝らし探さなくては見つからない程の微かな光であった。
櫻達もティファの様子に釣られて空を見上げると、キョロキョロと上空を見回す。そして櫻もそれの存在に気付いた。
(…?)
眩しい空に瞳を細めながら、眉間に皺を寄せてそれに集中すると、櫻は何かの違和感を覚えた。
(あの部分…何か微妙に歪んでいるような…。)
「アスティア、あそこが見えるかい?」
櫻が上空を指差すと、アスティアはその指先を辿るように視線を移す。最初は何処を指しているのか判らなかったが、再びキラリと光を放つその場所に気付くと、
「あ、うん。見えたよ。」
と、肯定の意を込めて櫻の身体を抱き締める腕にキュッと力を込めた。
「あそこまで飛べるかい?」
「え? う~ん、どうかなぁ? あれがどのくらい高い場所に在るか次第だけど、流石にこれ以上上に行きすぎると息が苦しくなっちゃうから、あんまり高い場所はボクも飛んだ事が無いんだよね。」
(そうか、ティファがあの時顔面蒼白だったのは、ひょっとして無理な飛行による体力の低下と低酸素で意識を失った為だったのかもしれないね。)
アスティアの言葉で、ティファを最初に助けた時の事を思い出す。
「ふむ、そうか。」
「あっ、でもっ! サクラ様が行けって言うなら、ボク頑張るよ!」
「はははっ、何もそんなに無理をする事も無いさ。ちょっと気になっただけだからね。それより先ずは空の散歩を楽しもうじゃないか。」
「うっ、うん、そうだね。ほらティファ、今度はあっちに行ってみよう。」
こうしてそれから1鳴き程の時間を費やし、ゆっくりと湖の上空を巡った。始めは乗り気で無かったティファも、いつしか解放感からか表情に晴々とした明るさが生まれ楽し気に空を舞い、やがて彼女に疲れが見え始めた事も有り、家へと帰り着いた。
「…ってな事が有ってさ。」
その日の夕食の席で、櫻は昼間の出来事を話した。
「空の散歩って…! 何て無茶させたんだ!? あの子はまだ9歳だぞ!?」
思わず驚きとも怒りとも思える声を上げるラシード。だがこの場に居ないティファに聞こえないように気を遣っては居るのか、その声量は控え目だ。
「だからあの子の体力も考えて短時間で済ませたさ。それに、あの子は他の子達より翼の発達が早い。その理由は…まぁ憶測で物を言うのも何だから置いておくとして、飛ぶ事に関しては何も問題は無かったんだ、大目に見ておくれよ。」
少し申し訳ないと眉尻を下げて肩を竦める櫻のその言葉に、ラシードとファティマは、今まで引き籠っていた娘を外に連れ出してくれた事、そして翼の発達が早い理由の心当たりも有り、それ以上の追求は憚られた。
「それでさ、あの上空の光が気になるようだったんだが、あれに何か心当たりは有るかい?」
目の前のスープを口に運びながら櫻が問うと、ラシード達は顔を見合わせて首を傾げた。
「いや、俺達はそんな話を聞いた事は無いな。そもそも、この辺は町の周りの山から吹き上げられた砂埃が常に舞っているような土地で、そこまで澄んだ空を見る事なんて滅多に無い。雨上がりには大気が澄むが、そんな時は大抵空には雲が残っていて空を見上げる事も無いしな。」
「そうねぇ、今日みたいに雲が無くなるなんて、今まで無かったんじゃないかしら。」
珍しい事も有ったものだとでも言う風な二人に、櫻は少しばかり引き攣った笑顔を浮かべていた。
「でもまぁ、心当たりって言うなら『アレ』しか無いよな?」
「えぇ、そうね。」
二人は揃って小さく頷く。
「アレ?」
「あぁ、昔話の、空に飛んで行ったヴァンパイアの娘さ。正直、あんな話は誰かが作った御伽噺程度にしか思って無かったが、もし本当に空に何かが在るって言うならソレが一番の可能性じゃないかな。」
「成程…。」
ラシードの言葉に、櫻は『ふむ』と頷いて見せた。
夕食を終え、カタリナと命もファティマの手伝いを終えて部屋へ戻ると、皆揃ってベッドへと横になる。命がランプを消し部屋の中が闇に包まれると、やがて櫻の耳元にはスゥスゥとアスティアの穏やかな寝息が聞こえて来た。
しかしそんな中で、櫻は瞼を閉じたままで寝入る事無く、何か言いようの無い漠然とした不安を抱いていた。
(何だろうねぇ…妙に落ち着かない…。昼間見たアレが気になるのか? いや、もっと何か…。)
悶々と考えると尚更に寝付けず、妙に喉が渇く。櫻はゆっくりと瞼を開き、アスティアが抱き締める腕をソッと抜き出すと、静かに身を起こした。
「どうなされました?」
「ん、また水をね。」
命の問い掛けに小声で答え、掌の上に薄明かりを浮かべると静かに部屋を出る。台所まで行き、踏み台を使って水瓶の中を覗き込むと、今日は余裕で柄杓の届く水量を確保していた。
コクコクと喉を鳴らし柄杓一杯の水を飲むと、何かが心の奥に引っ掛かり、気分転換に外へ出てみる事にした。扉を開けると町の中は夜霧に包まれ、篝火の灯りが拡散して星空も余り見えない。
(大きな湖と周囲を囲う山のせいで霧が溜まるんだね。)
霞む空を見上げる。
(あの空の光が気に掛かってるのかねぇ?)
そんな事を考えながら、軽い散歩がてら家の裏手へ足を延ばしてみる。荷車の傍らにはウララが寄り添うように足を畳んで休んでおり、辺りからは多少の虫の鳴き声が聞こえる以外は静かなものだ。
だがその静寂の中で、『キィ…』と、金属の擦れるような音が微かに聞こえた。櫻は一瞬空耳かと思ったが、辺りを見回してみる。すると家の二階、ランプの灯りが漏れるティファの部屋の窓が開いている事に気付き、更にそこから身を乗り出す影が見えるではないか。
その影は翼をパタパタと数度小さく動かすと、今まさに飛び立とうとでもするように窓の縁に足を掛け、前傾姿勢になった。
「何をしてるんだい!?」
驚きに思わず大きな声を出すと、影はビクッと身を固め、そのままグラリと姿勢を崩し窓の外へ体重が傾く。
「…しまった!」
櫻は自身の迂闊な行動に奥歯を噛み締めつつ、慌てて両手を掲げると落下する影に向けて柔らかな風を巻き起こした。ふわりと受け止められたその身体がゆっくりと地面へ下ろされると、それは矢張りティファであった。
『ふぅ』と安堵の息を漏らす櫻を、ティファは驚きの眼差しで見つめる。するとそこに、騒ぎを聞き目を覚ましたのだろうラシードとファティマ、更にはアスティア達までが集まって来た。
「どうした!? 何が有った!?」
夜中に外に居た子供二人に、ラシードは強く問い掛ける。だがその剣幕にティファはビクリと身を縮め固まってしまった。そんな様子にファティマがラシードの肩に手を添えて制止すると、その時になってやっと自身の言葉が強かった事に気付いたのか、ラシードは肩を落とし、縮こまったティファに困った視線を向けるのだった。




