トリシャ
道中で一泊を挟み、櫻達はセッチの町まであと少しという処まで来ていた。
「昨夜は良く寝られたかい? 貴族ともなると旅用の簡易なテントでの寝泊まりなんてする事も無いだろうし、大変だっただろう。」
何時もの御者席の隣から、荷車の中に居るレオンとトリシャに声を掛ける櫻。
「いいえ、大きい方のテントを貸して頂けただけでも有難い事です。そのうえまた敷き物を貸して頂き、僕もトリシャも良く眠る事が出来ましたよ。…ただ、初めての事に興奮して寝付くのが遅くなってしまいましたが…。」
ハハッと恥ずかし気に笑みを零すレオンに、トリシャも釣られて笑顔が浮かぶ。
「でも使徒様方はいつもあのような野宿をしてらっしゃるのですね。使徒様方こそ、わたし達にまで気を遣われてお疲れなのでは無いのですか?」
「ふふっ、野宿は野宿で楽しいもんだ。慣れってのも有るけど、そんなに疲れちゃいないよ。それに町に着いたら宿のベッドでぐっすり眠れるしね。メリハリが有って楽しいくらいさ。」
「まぁ…わたしもそのような旅をしてみたいですわ。」
トリシャは櫻の言葉に瞳を輝かせ、ポツリと零した。
「そうだね。僕達はまだ家を継ぐ為に学ぶ事が多いから、今はまだそんな余裕は無いだろうけど、いつか御爺様のように町を出てみるのも良いかもしれない。」
レオンはトリシャの肩を抱き寄せ、そう言った。
「御爺様?」
その言葉に櫻が首を傾げ振り向く。
「はい。実は僕達が今回オマインの町へ向かったのは、彼方に住む御爺様達に逢いに行く為だったんです。」
「へぇ。お爺さんはオマインに住んでるのか。何で一緒に住んで無いんだい?」
「子供達が大きくなると家が手狭になる…という事も有りますが、家を次の代…今は私ですが…に明け渡す事で、今までの家長としての重責から解放された反動で、町を飛び出してしまったのです。」
メルルの上から櫻の疑問に答えたのはライアンだ。その腰に手を回し身体を密着させながら後ろに乗るクリスティーナも、その事に少々困ったような笑顔を浮かべていた。
「特にオマインは娯楽の多い町ですから、今も随分と遊び惚けて居るかもしれませんね。」
「成程ねぇ…それじゃセッチの町に戻る事になっちまったのは災難だったね。」
「いえ、それは仕方ありません。私の甘さが招いた不覚です。こうして使徒様方に助けて頂けた事が何よりの幸運なのですから、これ以上を望む事も御座いません。」
肩越しのクリスティーナに、ライアンは温かな視線を向け微笑んだ。
「ふふ、甘さか。でもお前さんは、困っている人を助けたいと思い、直ぐに手を差し伸べた。それは強さでも有ると思うよ。今回は相手の思惑に乗っちまったが、その気持ちは大事にして欲しいね。」
「はははっ、ギルド長として、貴族として、町とこの島の平和と安定の為にも困っている人々に手を差し伸べるのは私の矜持です。この程度で私の考えは変わりませんよ。」
気持ちの良い声でそう言うライアンに、家族達も誇らしい眼差しを向けるのだった。
道中で休憩を挟みながら街道を進むと、やがて空が夕焼けに染まる頃に広大な畑地帯が視界に飛び込んで来た。
森を抜け開けた土地へと出た為だろうか、辺りの空気は湿度の高い熱帯からカラリとした気持ちの良いものへと変化し、少し熱を帯びた風も心地よく髪を靡かせる。
テンモロのような穀類を始め、様々な野菜や根菜が整然と並ぶその広々とした光景に、レオン達はホッとした表情を見せた。
「あ、ライアン様。何処かにお出かけだったんですか?」「お疲れ様です、ライアン様。」「ライアン様、今度ウチの店に食べに来て下さいよ。今期の野菜も出来が良いですよ!」
畑仕事を終えて町に戻る人々がライアンの姿に気付くと気さくに声を掛け、ライアンもまたそんな人々ににこやかに対応する。
支配階級が存在しないこの世界において、皆が敬語を使うのはライアンが貴族でありギルド長という立場に在るからであろう。しかし人々の態度から、それが立場の上下を示すものではない事を櫻も感じ取ると何と無しに嬉しくなり、自然と笑顔が浮かんだ。
人々の流れに乗って櫻達もセッチの町へと入ると、一先ずライアン一家も伴ってギルドへ向かう事とした。
その際、櫻はライアン達に『自分達の正体を伏せるように』と頼むと、ライアンは困ったような表情をしながらも渋々了承するという一幕が有った。
ギルドの中では事の顛末をライアン家側、櫻側の双方から聞き取りを行い、その後ライアンは野盗のアジトの調査ならびに南街道の整備計画について、ギルド長として仕事に取り掛かる事となり一旦別れ、櫻達はクリスティーナの案内でライアン家に招かれる事となった。
町は海に向かい傾斜しており、海辺には金持ち達の別荘が立ち並び、町の外に面した山側にはこの町で生活する人々の家が多く見られる。そんな中にライアン家も在った。
一般の民家と比べると明らかに浮いた立派な屋敷。煉瓦造りの3階立ての大きな家屋に垣根で囲われた広い庭を持ち、その庭木もしっかりと手入れされている。
「わぁ~…。」
アスティアはその様子を懐かしむように見渡した。恐らくアスティアの両親が健在だった頃には、あの家もこのような感じだったのだろう。櫻はそう思うと、そっとアスティアの手を握った。
「さぁ、どうぞ此方へ。トリシャはメルルを小屋へ連れて行ってあげて。」
「はい、お母さま。」
クリスティーナの言葉に素直に従い、トリシャはメルルと共に屋敷の裏手へと向かい、櫻達はレオンも含めて正面玄関から屋敷の中へと足を踏み入れた。
「あ、奥様、お帰りなさいませ。」
「ただいま戻りました。お留守番、ありがとうね。」
使用人だろうか、数名の身形の整った若い女性がクリスティーナの姿に気付くと頭を下げつつも気さくに声を掛け、彼女もまたそれににこやかに応えた。その様子は野盗に襲われた事等微塵も匂わせぬ程に自然だ。
だが使用人が顔を上げると、クリスティーナの姿にハッと息を飲んだ。彼女の服の正面にベッタリと着いた、血のような染みに気付いたのだ。
使用人達は慌てたようにクリスティーナに駆け寄ると、一体何が有ったのかと心配そうに尋ねる。しかしクリスティーナが『森の果実の汁が掛かってしまっただけよ』と笑って話すと、彼女達はホッと心の底から安堵の表情を浮かべた。
(成程ねぇ。大きな屋敷でも、これだけの人が居れば余生を悠々自適に過ごす為に隠居するのも頷けるか。)
オマインに移り住んだというレオンの祖父の事を思い、櫻は納得が行ったという風に乾いた笑いを浮かべるのだった。
その後、ギルドの仕事を終えて戻ったライアンを含め、一家と櫻達は食堂へと集まり、夕食となった。
立派な食堂には大きな長テーブルが中央に置かれ、家長であるライアンが正面になるように座る。まるで映画で見る貴族のようだと、櫻は呆気に取られてその様子を眺めた。
だが意外というべきか、クリスティーナを始めとしたライアン家の面々、そしてその対面に座るように櫻達が席に着くと、使用人達も食事の準備を済ませ共に席に着いた。そして、以前にトーチュの町の娼館で見た事が有るように、皆が両手を組んで何かに祈るよう目を閉じる。
櫻も見様見真似でそれを行うと、程無くして食事が始まった。その様子は決して無言な訳では無く、声を抑えこそすれ皆が楽し気に話をしながらの和気藹々としたものであった。
(ふ~ん…貴族の食事なんて堅っ苦しいもんだとばかり思ってたけど、ふふっ、この雰囲気は悪く無いね。)
機嫌良く目の前に並ぶ料理に手を付ける。金属の器に盛り付けられたそれらは、柔らかな肉がゴロリと入った濃厚な味のビーフシチューのような料理に、瑞々しいシャキシャキとした歯ごたえが楽しいサラダは素材の持つ甘さだけで充分に味わう事が出来る程。他にもカタリナ向けに用意された厚切りステーキのような歯応え抜群の肉や新鮮な果実のデザート等、櫻達は約束通りの美味しい食事を御馳走になった。
「ふぅ~、食った食った…美味かったよ。御馳走様。」
蜂蜜のような甘さの溶けた水をコクコクと飲み干し満面の笑みで櫻が言うと、使用人達も嬉しそうにその小さな客人に笑顔を向けた。そして片付けの為に使用人達が食堂を出て行くと、そこにはライアン一家と櫻達だけが残る。
「使徒様、もし宜しければ今晩は我が家にお泊りになっては如何でしょうか。」
突然のライアンの一言。それに驚いたように視線を向けたのはトリシャであった。
「え? 良いのかい? あたしらは御馳走になっただけで充分なんだが…。」
その申し出に櫻は少々申し訳無さ気にコップをテーブルの上に置く。
「いえいえ、もう夜も遅い時間。使徒様方の都合が悪くなければ是非に。」
「そうかい…? そこまで言われちゃ断わるのも失礼ってもんだ。お言葉に甘えるとしようかねぇ。」
素直に申し出を受け入れた櫻にライアンがニコリとすると、トリシャの表情もパァっと明るくなった。
ライアンが両手をパンパンと打ち鳴らす。すると使用人の女性が一人、扉を開けて入って来た。
「此方のお客様方を3階の客間へ案内してあげてくれないか。大切な恩人なのでね、丁重に頼むよ。」
「畏まりました。では此方へどうぞ。」
こうして使用人に案内されたその部屋。そこはまるで高級宿のような広々とした空間、床一面に敷かれた絨毯と、立派なソファーに挟まれたテーブル。窓からは中庭が見え、ホーンスの小屋やちょっとした散歩道のようなものも見える。
そんな部屋の左右に2つずつの扉が在る事に気付いた櫻達は、その中の一室を覗き込んでみる。するとそこは天蓋付きのダブルサイズベッドが据え置かれた寝室。他の部屋も覗いてみると同様で、一人一部屋を贅沢に割り振った造りとなっていた。
櫻は隣で一緒に部屋を覗き込んでいるアスティアにチラリと視線を向けてみる。するとその金色の瞳は期待に満ちてキラキラと輝いていた。
(…今晩は覚悟をしておいた方が良さそうかねぇ…。)
ハハッと乾いた笑みを零す櫻であった。
テーブルの上にはお菓子が用意されており、それはどうやら穀類を挽いた粉と果物を使った焼き菓子のようだ。そのお菓子とお茶を楽しみながらソファーに腰掛けていると、部屋の扉を『コンコン』とノックする音。
「はーい?」
櫻が返事をするとカチャリと静かに扉が開き、そこから顔を覗かせたのはトリシャだ。
「皆様、お風呂をご一緒いたしませんか?」
そう言ってにこりと微笑む。するとカタリナは感心したように、
「へぇ、流石貴族の家だね。風呂が在るのか。」
と零した。
「ん? 普通は無いものなのか?」
「お嬢…そこまで知らないのか…。」
最早呆れを通り越して感心するようなカタリナ。
「庶民の家に風呂なんて普通は無いよ。風呂に入るなら大抵は公衆浴場とか風呂の在る家で使わせて貰うのが一般的、普段は身体を水拭きする程度さ。…そういえばお嬢は今まで宿の風呂には入った事が有ったけど、公衆浴場はカムンキキで一回入っただけだったね。本当に浮世離れしてるよねぇ。」
「あはは…。」
迂闊に無知を晒してしまい返す言葉も無い櫻は困ったように笑うしかない。
(そうか、各家に井戸が掘られている訳でも無いもんな。昔の、銭湯に通ってた時代を思い出すねぇ…。あの頃のあの感じも悪いものじゃなかったが、再びそういう時代に来るとは不思議な感覚だ。)
しみじみとそんな事を思いながら、櫻達はトリシャの案内で浴場へと足を運んだ。
そしてそこで一同は驚きの光景を見る。
「これは…流石にアタイも予想してなかったよ。」
カタリナも驚くそれは、正に銭湯のような大きな浴場であった。
流石にタイル張りという訳では無いが、屋内に巨大な岩を切り出し加工したらしい湯舟が在り、その中からは薄っすらと湯気が立ち昇っているのが見え、更には何やら爽やかな香りが浴室内に満ちている。
裸のままで思わず立ち尽くす櫻達の前に、同じく生まれたままの姿のトリシャが嬉しそうに躍り出た。
「さぁ、どうぞ。」
にこりと手で指す浴槽には何やら柑橘類のような黄色い果実が無数に浮いており、まるで柚子湯を彷彿とさせ、それを目にした櫻の顔には自然と柔らかな笑顔が浮かんでいた。
桶でお湯を汲み掛け湯をする。お湯はぬるま湯という程度で然程熱くは無いが、水に馴染んだ身体に久々のお湯は直ぐに体温を上昇させた。
浴槽の中を覗いてみると底の一部に穴が開いており、そこから自然とお湯が沸き出ている事に気付く。どうやら天然の温泉の上に作られた浴室のようだ。
広々とした湯舟の中で皆が暫くの間肩の力を抜いてほっこりとした表情を浮かべる。そんな中で櫻がチラチラとトリシャに視線を向けている事に気付いたアスティアは、ムッと頬を膨らませた。
「そういえば此処にはトロリが生えてないけど、どうやって身体を洗うんだい?」
カタリナが辺りを見回し疑問を口にする。カタリナの言うように、屋内で床も煉瓦の上に板張りという造りの為に樹木を植えるような地面は存在しない。
「はい、それは此方を使います。」
そう言うとトリシャは浴槽から上がり、傍に置いてあった小さな木製の筒を手に取る。キュポッと音を立てて蓋を開くと、その中には何かの粉が入っていた。
トントンと指先で軽く叩きながら器から少量手に取ると両手でそれを擦り合わせる。すると手の中からモコモコと泡が立ち始めたではないか。
「おぉ…何だこれ? まるでトロリの葉みたいだ。」
カタリナが驚きながらその様子を見る。だが櫻は、
(へぇ、粉石鹸みたいだ。この世界にもこんな物が在るんだねぇ。)
と感心した。
「えぇ、これはトロリ粉と言う品ですの。さぁ、使徒様方、どうぞ此方へ。」
両掌に泡を乗せ、トリシャはにこりと微笑む。
「あ…? あぁ…。」
促され、最初にカタリナが浴槽から上がると、そこに用意されていた小さな切り株のような見た目の椅子に腰を下ろした。そしてその背中にトリシャの柔らかな掌が触れる。
「まぁ…なんて逞しいお身体。」
感心したように背中を撫でるその手に、カタリナも思わずくすぐったく背筋を伸ばした。
「はは…まさか貴族のお嬢様に背中を流して貰えるなんて思いもしなかったよ。」
「ふふっ、わたしも普段は使用人達に洗って貰うばかりで、こういう事は初めてなのですけど…サクラ様が仰いました『裸を見せ合える同じ『人』』という言葉、わたし、凄く心に響きましたの。こうして使徒様方とご一緒にお風呂に入る事で、わたしは貴族の娘では無く一人のトリシャとして肌を触れ合わせる事が出来るのですもの。」
細い指先がトロリの泡で滑らかにカタリナの背中を撫で回す。その言葉は、気さくに言葉を交わせる間柄であろうともやはり取り払えぬ貴族と庶民の壁のような物を重荷に感じているように思える。
そんな様子に今度は櫻がお湯から上がると、トロリ粉を手に取り泡立て始めた。そしてカタリナの背を洗うトリシャの背にそれを塗り広げた。
「きゃっ、サ、サクラ様!?」
突然の事に驚き可愛らしい声を上げるトリシャ。
「いけません、ここはわたしに使徒様方をおもてなしさせて下さいませ。」
「いいんだよ。此処には使徒も貴族も居ない、皆ただの『人』だ。お前さんにばかり洗わせてたら不公平だろう? どうせなら皆で泡まみれになった方が楽しいさ。」
そう言って櫻の手が背中から脇腹へと伸びると、トリシャは飛び跳ねるような勢いで背筋を伸ばした。
「アスティア、あたしの背中を洗ってくれないかい? 命も一緒に洗おう。」
「は~い。」「それでは失礼致します。」
アスティアはトロリ粉を身体の正面に軽く塗し、そのまま櫻の背中に覆い被さるようにして身体を上下させる。すると最初はサラサラとした感触が徐々にぬるぬるとし始め、その間から泡がもこもこと現れ始めた。
「あはは、おもしろ~い! 葉っぱが無いのにどんどん泡が出て来る!」
「本当だねぇ。これが有れば旅の中でトロリの木が見つからなくても身体をサッパリさせる事が出来そうだ。」
「うふふ…それでしたら、この町の西側、貴族の別荘地の中に貴族御用達のお店が揃っている通りが在りますの。そこで購入出来るという事ですわ。旅立ちの前に伺ってみては如何でしょう。」
「へぇ、そいつは興味有るね。お嬢達の服も買いたいし、船を探す前に買い物と行こうか。」
浴室に楽し気な声が響き、何時の間にか小さな輪になるように皆で身体を洗い合う中、トリシャには自然な笑顔が浮かんでいた。そんな様子に櫻も微笑みが零れるのだった。




