カタリナの異変
昨夜と同じように夕食の準備を進めて居たカタリナ。しかし自身の調子が少しおかしい事に気付く。
(何だ?少し頭がボーっとする…心なしか動悸も早いような…。)
干し肉をナイフで削ぎ落としながらそんな事を考えていると、自分の指を切ってしまうという初歩的なミスを犯してしまった。
「イテッ。」
「おい、大丈夫かい?」
「あ、あぁ。ちょいと油断しちまった。こんなミス滅多にしないんだがね。」
指の根元を即座に圧え止血すると、
「アスティア、済まないがその中から傷薬と巻き布を出してくれないか。」
と顎で指した。
「うん、ちょっと待っててね。」
アスティアも素直にそれに従うと荷物の中をガサゴソと漁り指示された物を取り出し、カタリナの元へ駆け寄る。
それは底の浅い木製の容器に入った緑色の軟膏のような物で、アスティアが指で少量を掬いカタリナの傷口へ塗り広げる。そしてその上に巻き布と呼ばれていた物(どう見ても包帯だ)を、適度なサイズにちぎって巻きつけると先端を裂き結び、処置を完了させた。
(ふぅん、絆創膏のような物では無く結構古臭いやり方なんだね。あたしやアスティアは自然治癒が早いからそこまで気にしなかったが、やはり当然こういう医療品はあって当たり前だったか。)
また一つこの世界の知識が増えたと、櫻は小さく頷いた。
その後、小さなミスに少し恥ずかしかったのか、苦笑いを浮かべながら料理を続けたカタリナであったが、動悸の早さに比例してドクドクと疼く傷口の痛みが意識から消えずに居た。
「ご馳走様。美味かったよ。」
櫻が空になった木のボウルをカタリナに手渡す。
「そりゃ良かった。昨日と余り代わり映えしないから文句が出るかと覚悟してたよ。」
そう言ってボウルを受け取ろうとした時…。
「うっ!?」
カタリナが突然胸を押さえ顔を歪ませると、地面に両膝を着き身を屈めるようにして倒れてしまった。
「おい、カタリナ!?」
「カタリナ!?どうしたの!?」
突然の事に慌てる二人。
(まて、落ち着け。こういう時は…。)
櫻は自分に落ち着けと言い聞かせながら、カタリナの身体を仰向けにすると額に手を当て自分の体温と比較する。
(う~ん、ライカンスロープの体温が人間基準で同じとも限らないのが不安ではあるが…。)
「…熱があるな。」
その手に伝わる温度は明らかに人体の熱としては高すぎる物であった。
「えぇ!?カタリナ、病気なの!?」
「それは判らんが、一先ずテントに運ぼう。アスティア、そっちを持ってくれ。」
「う、うん。」
子供二人の力を振り絞りカタリナをテントの中へと運び込むと、カタリナが意識を取り戻した。
「う…アタイは気を失ってたかい?」
「あぁ、ほんの少しの間だがね。それより具合はどうだい?まさか重い病気に罹ったりしたんじゃ…?」
「…意識が朦朧として動悸が早い。それ以外は解らないが、少なくともアタイの知ってる病気じゃ無いと思う。済まないがこのまま休ませて貰うよ。夜が明けても症状が改善しないようなら、少し考えなきゃならないしね。」
「解った。表の片付けはあたし達に任せてゆっくり休みな。」
頷く櫻の言葉にフッと微笑みを浮かべると、カタリナは糸が切れたかのようにカクリと意識を失い、寝息を立て始めた。
その様子を確認してから櫻は表に出ると、地面に落ちた食器を片付け、空になった鍋を見る。
「体調が悪くても食うモンはしっかり食ってるねぇ。余程変な病気でも無ければ、食って寝れば治るモンだが…果たして。」
空を見上げると既に星が瞬いていた。
(さて熱を出した時の定番と言えば氷枕と濡れタオルだが、当然ここにそんな用意は無いわな。)
周囲をキョロキョロと見回すものの、ここは元来休憩用ポイントでも無い様子。当然湧水も無ければ氷なんてある訳も無い。水は麓で汲んで来た水筒の中にあるだけで、旅の中では貴重なものだ。
(これはカタリナの水分補給に飲ませた方が良い。無駄に流すのは避けよう…。)
「サクラ様…カタリナ大丈夫かなぁ?命に関わる病気だったらどうしよう…。」
アスティアが不安気な声を出す。
そんなアスティアの姿を見て櫻がポンと手を叩いた。
「そうだ、アスティア。済まないが一つ頼まれてくれないか?」
「え?」
そうして櫻の出した案は、アスティアの太ももを枕にし、両手を頚動脈に当てる事でカタリナの熱を冷ます事であった。当然直に頭に当てるべくアスティアは素足を顕にしている状態だ。
「済まないね、お前さんの冷たい身体なら少しはカタリナの熱を下げられるかもしれない。悪いが一晩その状態で居てみてくれないか。」
「うん、任せてよ!」
その元気な声にカタリナが僅かに呻き声を上げると、アスティアは慌てて口を塞いだ。
夜の闇が深くなり外では虫の声だけが響く。
櫻も眠る事無くカタリナの容態を見守っているつもりであったが、慣れない山登りに体力を消耗していたせいだろうか、ウトウトとし始めると半ば夢の中へと落ち始めていた。
「あ、気がついた?具合はどう?え…ちょっと、どうしたの?カタリ…きゃぁ!?」
突然のアスティアの悲鳴。
櫻がハッと意識を取り戻し顔を上げる。するとその瞬間、強い力に組み伏せられ櫻の頭は地面に叩きつけられた。
一瞬視界が飛ぶ。目の前がチカチカする。何とかその不鮮明な視界に目を凝らすと、そこには獣の姿があった。
「な…!?」
思わず声を上げそうになるが、その姿はよく見るとカタリナだ。以前出会った時に一度だけ見た獣人の姿だ。そしてその獣姿のカタリナが、目を血走らせ今にも櫻を捕食しようと大きな口を開けて迫っていたのだ。
櫻は慌ててその両肩に手を伸ばし、迫る牙を抑えようと踏ん張るのだが、カタリナの怪力の前に全く抑止力にならない。
「カタリナ!どうしたんだ!?」
声をかけつつ読心を試みる。
するとその頭の中にあるのは、『櫻の全身に牙を突き立て血肉の全てを貪り尽くしたい』という食欲だけであった。
(まさか…これが禁断症状か!?)
昼間のリトの姿に自身を重ね、腹を食い破られ内臓を貪られる自分を想像し、櫻の顔色が青ざめる。
「いやいや!草食動物ならまだしもあたしの内臓なんて臭くて食えたもんじゃないよ!」
何とか思い止まらせようと声を上げるものの、カタリナの耳には最早そんな言葉は届かない。
グワッと口を開くと、物凄い力で櫻の首元目掛けて牙が迫る。
慌てて腕を横にし、犬を制するようにその口の中へ突っ込む。しかし、その腕に牙が食い込むと『バリバリッ』と音を立て骨が砕け、その先に繋がっていた手首から先がボトリと櫻の顔の横に落ちた。
「…ッ!?」
自分の手が、在る筈の無い場所に転がるその光景に言葉を失い、次の瞬間
「うあああぁぁぁー!!」
櫻の悲鳴がテントの中、いや、山腹に木霊した。
ボリボリと音を立て口の中に残った櫻の腕を骨ごと咀嚼し、ゴクリと飲み込むカタリナ。その目は再び櫻の喉首に狙いを定めると、何の迷いもなく食らいついた。
「ガッ…っは…!」
喉の中まで貫通したのをハッキリと認識出来る。それ程までに深く突き刺さったカタリナの牙が、今まさに櫻の首を食いちぎろうとした時、
「サクラ様を離せー!!!!」
アスティアが鉄の鍋を全力でカタリナの横顔目掛けて振り抜いた。
『ガインッ!!』
鈍い音と共にカタリナの口の力が緩む。その隙を逃さない櫻。
「アスティア!これを!」
喉に開いた傷口のせいで上手く出せない声を振り絞り、自分の横に転がっていた手首を残った手で拾い上げるとアスティアに投げ渡した。
「…!うん!」
それを受け取り意図を理解したアスティアが、傷口から滴る血を飲み干す。
「ハアアァァァ!」
血を飲み力を増したアスティアが気合を入れ
「ヤアアァァァ!」
掛け声と共にカタリナの横顔に渾身の拳を叩き込む。すると流石のカタリナも怯み櫻の上から身を避けると、四肢で地面をしっかりと踏み締める体勢でアスティアを睨みつけ、『グゥゥゥ…』と獣そのもののように唸りを上げる。
「カタリナ!しっかりしてよ!」
アスティアの呼びかけにも全く反応せずに、獲物を奪われた獣の如く敵対心を剥き出しにするカタリナ。
(何だ!?これが禁断症状なら今あたしの腕を食った事で摂取は済んだ筈だろう!?まさかあの欲望を満たさなければ回復しないとでも言うのか!?)
もしそうならば…櫻は最悪の場合を覚悟する。
アスティアを敵と認識したカタリナが全身のバネを使い物凄い勢いでアスティアに向かい突撃を繰り出す。
狭いテントの中では回避する場など無く、その突撃の直撃を貰うとアスティアとカタリナはテントを突き破り外へ転がり出てしまった。
「アスティア!大丈夫か!?」
腕の止血と喉の修復を終えた櫻が声をかけると、
「うん、ボクは大丈夫だけど、カタリナが…。」
その言葉通り、カタリナの様子が何処かおかしい。
四つん這いで唸りを上げるその姿は先程と同じだが、身体が微妙にビクビクと痙攣し明らかに苦しんでいる。
「どうした、カタリナ!?」
櫻が声をかけると、アスティアに向いていた視線が突如櫻の方を向き、猛烈な勢いで飛びかかる。しかしその動きは狩りを行う獣の精細さも優美さも無い、暴れる獣のようであった。
間一髪でアスティアが櫻を確保し、4枚の羽根を羽ばたかせ空へ逃げる。
「済まないね、助かったよ…。」
「ううん、そんな事より、カタリナどうしちゃったの!?」
「恐らく、あれが禁断症状なんだ…。」
「えぇ!?でもそれならさっきサクラ様の腕を食べたんだから、もう治まるんじゃないの!?」
(そうか、ひょっとして…。)
「多分その筈なんだが、恐らくあたしの成分が全身に回りきらないと症状が治まらないんだろう。このまま暫くカタリナの様子を見守るしかない。」
「う…うん。」
眼下で吠えるカタリナを辛い眼差しで見つめる。
すると、カタリナが全身に力を込め、上空のアスティア目掛けて跳び上がってきたではないか。
「えぇ!?うわっ!」
慌ててその攻撃を避ける。
「そうか、症状が治まらないとは言え、あたしの肉を食ったんだ…身体能力が向上しててもおかしくない。もっと高空へ…。」
そう言った時、ガクリと櫻を支える腕の力が抜けたのが解った。
見るとアスティアの背に生えていた羽根が2枚になっている。血の効果が切れたのだ。
(くそ、やっぱり飲む量で時間が変わるのか!手の先に残った程度の血液じゃそんなに持たなかったか!)
「アスティア、今あたしの血を飲めないか!?」
「この体勢からはちょっとキツイよー!」
今の状態は櫻の両脇に腕を差し込み支えている体勢で、とても今の姿勢から櫻の首筋に牙を突き立てる事は出来そうにない。
「クッ…仕方無い。何とかカタリナが正気に戻るまで耐えるしかないね。」
腕に意識を集中させ一気に腕を再生させバランスを取る。
するとそこに2度、3度とカタリナが飛びかかり、その度にアスティアはふらふらと櫻を抱えながら空を舞った。しかしついにカタリナの手が櫻の足に掛かると、鋭い爪を突き立てた。
「しまっ…あぁぁぁ!」
突き刺さった爪がカタリナの自重の勢いで櫻の足を引き裂く。
「サクラ様!」
アスティアが慌てて高度を下げると、ついにカタリナと地上で相対してしまった。
櫻も急いで足を修復するとカタリナの突撃に対して回避に専念する。しかしただでさえ身体能力の高いライカンスロープ、そこに神の血を得た超個体だ。そして相対するのは貧弱な子供二人。
カタリナの素早い動きに櫻は必死の抵抗を試みるものの再び難なく組み伏され、アスティアも櫻を助けようと飛びかかるがカタリナの腕のひと振りで弾き飛ばされてしまう。
(もう駄目か…!?くそ、あたしゃどこまで肉体の損傷を受けて大丈夫なんだ!?脳みそまでやられたら流石にマズいと思うぞ!?)
覚悟を決めた瞬間…獲物を確実に仕留める獣の狩猟本能か、再び的確に喉首を狙った牙がガブリと突き刺さり櫻の口から大量の血が逆流し、『ごぼっ』と粘度の高い音を漏らし溢れた。
「サクラ様ーーーー!!!」
アスティアの悲痛な叫びが木霊する。
だが、食い千切られるかと思った喉は牙が刺さったまま、その口は全く動かず、それどころかカタリナの動きが止まった。
(…?)
櫻は眼球だけを動かし、喉元のカタリナを見る。すると、まるで立ったまま眠るかのようにその瞳は閉じられ、獣の威圧感も消え失せていた。
腕に力を込め拘束を解くと、喉に刺さったカタリナの牙を外しその身体の下から這い出す。
「治まった…のか…?」
喉を押さえ治癒をし、四つん這いの体勢のまま動かなくなったカタリナを見つめる。アスティアも櫻の元へ駆け寄り、身を庇うように抱き付きつつもカタリナの様子に目をやった。
ほんの数十秒だろうか、しかしその時間が物凄く長いものに感じられた後、カタリナの獣人形態が解けると、全身から力が抜けたかのようにその場にうつ伏せに崩れ落ちた。
「「カタリナ!?」」
慌て駆け寄る櫻とアスティア。恐る恐る二人が覗き込んだその姿は、まるで何事も無かったかのように寝息を立てる穏やかな表情であった。
「…一先ずテントに運ぼう…。」
再びカタリナを二人で持ち上げ、穴が空き支柱も歪んだテントの中へと運び込むと、二人も地面に腰を下ろし『ハァ~』と大きな息をついた。
「まさか禁断症状がこれ程とは…症状が現れるのも症状の重さも想像以上だった…。幸いなのはここにあたし達しか居なかった事かねぇ。これが町中なんかだったら周囲に被害が出るだけじゃなく下手をしたらカタリナが討伐される可能性すらあったかもね。」
寝息を立てるカタリナを眺め、自分の浅はかさを恥じる。
「ま、一応問題は解決した。恐らく夕飯の時からのカタリナの不調も禁断症状の予兆だったんだろう…これからは気を付けよう。…流石に再生に体力を使いすぎた、あたしももう眠い…アスティア、寝よう。」
「うん。」
そうして櫻とアスティアは身を寄せ合うように瞳を閉じ、騒がしい夜は終わりを告げた。
翌朝。
「おわぁ!?何だい、この穴!?」
騒がしい声に櫻とアスティアが目を覚ます。
「何だい?うるさいねぇ…。」
「カタリナ…どうしたの?」
「どうしたの…じゃないよ!テントが破れて穴が空いてるし、柱も曲がっちまってる…あぁ!このテント結構いい値段したんだよ!?」
壊した張本人の慌てぶりをみて櫻とアスティアは顔を見合わせると、『プッ』と吹き出した。
「うわぁぁ!?手、人の手が落ちてる!一体何があったんだ!?」
昨晩アスティアが血を飲み干した後に放り投げておいた櫻の手を見つけ更にパニックになるカタリナ。
(ふむ…身体から離れた部位はそのまま残ってしまうのか…下手に放置してその辺の獣にでも食われたら大変だな…。)
「カタリナ、それはあたしの手だ。良かったらお前さんが朝飯として食ってくれ。なぁに、まだそれ程時間も経ってないから鮮度は悪く無いぞ、血は殆ど無いかもしれんがな。」
笑いながら耳を疑う事を言う櫻にカタリナが目を丸くするが
「カタリナ、昨夜は凄かったんだよ?」
とアスティアが横から口を挟むとその言葉に
(えっ!?昨夜一体何があったんだ!?凄かったって…アタイ、熱で意識が飛んでる間に何かとんでもない事しちまったんじゃ…!?)
と淫らな妄想を繰り広げてしまう。
「ははっ、どうやら平常運転みたいだね。さ、それじゃ朝食を食べながら昨夜の事を説明してやるか。」
「そうだね。ほら、カタリナも表に出よう。今日も良い天気だよ。」
そうして二人に引き出されたカタリナは、昨夜の出来事を聞かされ仰天しながら賑やかな朝食を済ませた。