魚の神
「サクラ様!」
「お嬢!? っく!」
アスティアとカタリナが、姿の見えなくなった櫻を追うようにして慌てて海の中へ潜ろうとする。しかし、
「無理だ! アイツは『ヒライ』の魔魚だ! 獲物を一突きで捕らえて海底まで持って行っちまう…もう、あの嬢ちゃんは助からない…!」
ビビは苦々しい表情を浮かべ、足元に広がる暗闇に視線を落とした。
(…一つ波を超えると人は油断をするもの。あの偽神、何故死なぬかは解らぬが、それならばそのまま深海に封じ込めてやろう。)
闇の中、櫻達の戦いを観察していた影がニヤリとほくそ笑んだ。
(しかし、光の射さぬ深海では流石に何も見えぬか…命令魔法の瘴気も残り少ない。ウィンディア・ダウで使い過ぎたな。ここであの偽神を上手く封じる事が出来れば良いが、瘴気の増産と並行して他の手段も継続するべきだな…。)
向こう側の景色にアスティアの姿を捉え、影は不気味に口の端を歪めるのだった。
(くっ…い…息が…水圧が…。)
櫻は必死に腹部から突き出たモノを両手で掴む。するとソレが生物の口だという事に気付いた。
ソレは地球の『ダツ』に似た特性を持った魚であった。口の間に滑り込ませた指先に、獰猛に生え揃った鋭利な歯を感じる。
その歯に指を引っ掛け、身体を引き抜こうと腕に力を込める。その度に鋭い歯が指先を切り裂き、ポロポロと小さな指が落ちて行く。しかし深く深く沈み込んで行くその勢いと水圧が、非力な櫻の腕を、身体をミシミシと砕き始め脱出を許してはくれない。
既に櫻の肺の中は海水で満たされ、普通であれば窒息死の域に達している。しかし死ぬ事の出来ない櫻には苦しみだけが襲い掛かり、深海の闇の中で気が狂いそうな苦痛を感じ続けていた。
しかしそんな中に在っても櫻は諦めなかった。苦しみの中で思い浮かぶのは、アスティアの笑顔、そして泣き顔だ。
(…ふふ…そんな顔は…させられない…ね…!)
そう思った時だ。『ザンッ!』という音と共に魔魚の動きが止まった。海底に突き刺さったのだ。それは余程深く刺さっているのか、深海の闇の中だと言うのに櫻の目の前が海底である事が判る程だ。
魔魚はまるで昆虫標本を固定する虫ピンのように櫻を串刺しにしたまま動きを止め、微動だにしなくなってしまった。
(何だコイツは…!? あたしを食うつもりじゃないのか…!?)
自由の利かない手足を力を振り絞り動かし、後ろ手に魔魚の身体へ手を添え、グッと精気を練り込むと、恐らく頭であろう箇所へ向けて『風のドリル』を繰り出した。
指先から広がる渦が魔魚の身体を引き裂く。しかし櫻の身体に刺さった嘴が、未だに櫻を海底へ縫い留めていた。
(クソッ、抜けない…! どういう構造をしてるんだ!?)
櫻は現状を確認しようと、光の玉を生み出し周囲を照らし出した。すると、櫻は信じられない光景を目にする。周囲には数体もの大きな魚が互いを牽制し合うかのようにして櫻の周囲を泳ぎ回っていたのだ。
それは鯛のようなモノやウツボのようなモノ、深海魚のようにグロテスクな姿のモノから更には地球の生物には例えられないような奇妙な姿のモノまで多様で有ったが、少なくともそれらに共通する事、それは、それらが全て魔魚であるという事であった。
(……!!)
驚き、思わず息を飲むように海水を飲み込んだ。しかし胃の辺りは既に魔魚に貫かれ、飲み込んだ海水はそのまま腹部から血煙を纏い抜け出て行く。
余りの絶望的な光景に、櫻の思考が一瞬停止した。だが櫻は水圧でひしゃげた眼球で力強くそれらを見据えると、光の能力で全身から『閃光』を発した。瞬間、暗黒の世界が白く染まると一部の魔魚達は混乱したように動きを乱す。ソレを確認するとすかさず覚悟を決め、自身の腹部に手を添えた。そして躊躇い無く自らの腹部を、貫く嘴諸共に『風のドリル』で引き裂き、拘束を解いたのだ。
離れた下半身が血煙を撒き散らしながら闇の中へ消えて行くと、一部の魔魚はソレを追うようにして姿を消す。そして腹部からは腸が海中に散り、残った魔魚達もそれらに我先にと喰らい付く。
(ぐっ…うぅ…こ、この隙に…。)
そう思った時だった。『ガッ!』と、櫻の頭に何かが覆い被さるようにして視界が遮られた。かと思うと、ソレは喉へ食い込み、その内側に何列にも並ぶ歯が眼窩へ入り込むと同時に頭骨をメリメリと圧迫し始める。
(が…あ…あぁ…!?)
頭部に被さるソレに手を添えようとした瞬間。
『パキャッ!』
殻が割れるような音と共に、櫻の頭は難なく砕かれ、腹腔の空になった身体が『ビクンッ!』と跳ねると、両腕が力無く垂れ下がった。
程無くして首から上が無くなった櫻の残りに、血の匂いに誘われて集まって来た、魔魚では無い通常の肉食魚達までが群がり始め、ソレを魔魚達が捕食の為に追い回すという地獄のような食物連鎖が始まった。
(ぐぅ…マズい…このままじゃ、またアスティアに負担を掛けちまう…。)
頭部を失った事で思考が肉体から魂へ移った櫻が周囲の瘴気の気配に気を配る。すると、残された胴体を狙うように魔魚の1体が襲い掛かって来た事に気付いた。
(マズい!? 残りの身体まで食われたら、またアスティアを妊娠させちまう!)
必死に残った腕を伸ばそうと力を込める。するとその時だった。櫻に迫っていた魔魚を、激しい海流が飲み込んだのだ。
それはまるでその場だけをかき乱すようにし、周囲の水流は影響を受けて居ない、余りに不自然な渦。その中で魔魚の身体がボロボロと引き裂かれ肉片となって行くのが見えた。
(なっ!? 何だ!?)
驚く櫻を他所に、他の魔魚達も同じように激流に襲われ、ソレを逃れた数体も今度は突然地面から飛び出した鋭い岩に貫かれ、ビクビクと身を震わせる。
瞬く間に魔魚達は殲滅され、肉食魚達は逃げるようにと言うよりは、道を空けるようにして姿を消した。そしてその後に現れたソレに、櫻は驚愕する。
それは余りに巨大な魚影。恐らく地球で最大と言われるシロナガスクジラの10倍はあるのではないかと思える程の巨体を持った、シーラカンスのような姿をしていた。
一枚一枚が大きく鋼のような鱗に身を包み、しかし2対在る胸鰭はまるで羽衣のように美しく優雅に水の中を扇ぐ。
(…今度こそ駄目か…? すまん、アスティア…また苦労を掛ける…。)
余りの圧倒的な存在感に、櫻は生物としての絶対的な敗北を覚悟した。ところが、
《いやぁ、遅くなって申し訳ない。…はて? 『人』とはこんな姿だったかな…?》
胸と腕しかない櫻の意識に、そんな明るくのんびりとしたような声が響いて来たではないか。
《…ひょっとして…お前さんも神…かい?》
突然の事に、躊躇いがちに念話を送る。
《おぉ、無事なようじゃな。うむ、ワシは魚の神を仰せつかって居る者じゃ。随分と面倒を掛けたようでスマンのぅ。》
そう言ったかと思うと、魚の神を名乗るその巨体は大きく口を開ける。すると櫻の身体が柔らかな水流に流されるようにしてその中へ吸い込まれて行くではないか。
(おわぁ!? く、食われる!?)
焦る櫻。だが、その口腔内へと櫻の上半身が収まると、パクリと閉じられたその内部は水圧から解放された空間であった。
《地上の生物にはこの環境は辛かろうて。直ぐに戻してやるから少し待ってておくれ。》
魚の神はそう言うと上昇を始める。
《お前さん、まさかあたしを助けに来てくれたのかい?》
《いやぁ、お恥ずかしながらオマエさんを助けたのは結果なだけで偶然なんじゃ。この海域で瘴気に侵された同胞の数がまた増えて来たという報告が有ってな。始末をしに来た処に神気を感じ取ったんじゃが、海の神とも大地の神とも違う、姿を見れば獣の神にしては小さいし、虫の神にしては大きいと不思議に思ってな。》
《あはは…本当はもう少しばかり大きいんだけどね。》
そう言いながら櫻は身体へ力を込めると、再生を始めた。先ずは頭、そして胴体と内臓…しかし、腰の辺りまでを再生した処で栄養が尽きたのか、脚の付け根で再生が止まってしまった。
(ぐぅ…! 矢張り足りなかったか…! むしろここまで再生出来ただけでも運が良かったと思うしかないね…。)
痛みの感覚が戻った身体に顔を歪めながら、それでも無事にアスティア達の元へ戻れる事に安堵の色を見せた。
《それにしても最近の瘴気の出現頻度は酷いね。まさかあんなに魔魚が居るなんて…。》
口腔の中で光の玉を浮かべ、櫻は疲れた声を漏らす。
《確かに最近の瘴気の量は多くなっているねぇ。だけど侵される者の数自体は多少増えこそすれど、それ程変わっては居らんよ。海の底の辺りは多い時にはあんなものさ。》
《何だって? それじゃお前さん、いつもあんな群れと戦ってるのか!?》
《まぁそうだねぇ。あっちこっちで増えて来たら始末に行く日々さ。そう言えば以前にオマエさんには別の海の同胞の住処を護って貰った事が有ったね。あの時は礼を言えなかったが、助かったよ。ありがとう。》
《別の海…。》
(あぁ、オーシンの魔獣退治の事か。)
《いや、アレはあたし達の都合でも有った。気にする事は無いよ。》
《はっはっは、謙遜するな。ワシは同胞をこちらの海に避難させるのと、先住の者たちとの仲裁等が有ってなかなか戻る事が出来なかったものでな。早めに始末が付けられたのは本当に助かったんじゃ。》
《ハハッ、そうかい? それじゃ、その言葉は有り難く受け取っておくとするよ。どういたしまして、だ。》
「…なぁ、もう諦めろ。アタシらだって長い間こんな処に居たら疲れちまう。オマエら、このままじゃ溺れちまうぞ。」
船の残骸の木の板に掴まり波に揺られるカタリナと、時折羽根を羽ばたかせながら海面すれすれに飛ぶアスティアが、揃ってジッと海中に目を向けていた。
「アタシも助けられたし、あの嬢ちゃんが凄いヤツだってのは解った。オマエらにとってどれだけ大切な存在だったかも解るけど、死ぬ時ってのは呆気無いモンなんだよ。受け入れな。」
ビビ達は気の毒そうな表情を浮かべながらカタリナ達を説得する。
その言葉を耳にしながら、カタリナはチラリとアスティアを窺った。
アスティアは下腹部に手を添えながら、もどかしいような表情を浮かべていた。
(どうやらまだ孕んではいないみたいだね…という事はお嬢は健在か…ならどうして戻って来ないんだ、お嬢!)
グッと奥歯を噛み締めるようにして表情を歪ませる。すると、暗い海の底から何やら巨大な影が昇ってくる事に気付いた。
「なっ!? 何だ!?」
驚くカタリナの声に、ビビ達も足元へ目を向ける。
「まさか、魔魚!?」
「そんな!? こんなデカいの見た事無い!」
「ビビ! アン! コレは幾ら何でも無理だよ! 逃げよう!?」
余りに巨大なソレに、三人はパニックを起こす。だが、
「サクラ様!?」
アスティアが声を上げた。
「何だって!?」
「サクラ様を感じる! あの中から!」
そう指差す先に巨大な影が徐々にその姿を顕わにすると、カタリナは大きく息を吸い込みその巨大な魚影に向かい潜り込んだ。そしてアスティアもまた、その後に続く。
「おい! よせ! 敵う訳無いだろ!」
手を伸ばすビビ。しかしその声は既に届かない。アスティアとカタリナが、その巨大な魚の口に飲み込まれる姿が視界に映る。
「…っ…バカ野郎!」
ビビが握っていた槍をギュッと強く握り締めると、海へ潜ろうとした。その時…。
巨大な魚の口がパカリと開いたかと思うと、その中からアスティア、カタリナ、そして二人に曳かれるようにして櫻が上がってくる姿が見えた。
「えっ…!? ビビ、あの子!」
アンが驚き目を見開く。
「生きてた!? 何で!?」
スーも驚きの表情を浮かべながら、それでも喜びビビに抱き付く。ビビはそんなスーを抱き寄せながら、浮上してくる三人を見つめた。
「「ぷはぁっ!」」
三人の顔が水面から出ると、揃って大きく息を吸う。するとそんな三人を持ち上げるようにして、巨大な魚がその下から背中を海上へ浮き上がらせたではないか。
まるでちょっとした陸地のようになったその背中には巨大な背鰭が立派に聳え、櫻達は揃ってソレに寄り掛かるようにして大きく肩で息をし、空気を堪能した。
ビビ達はそんな様子をポカンとした表情で見つめながら、その手にした武器を構える。
「あ~、やめときな。『コレ』は魔魚じゃないし、お前さん達が敵う相手じゃないよ。」
ビショビショに濡れた服を脱ぎ、ギューっと絞るアスティアとカタリナの横で、既に衣服も失い全裸の櫻が声を掛ける。するとその時になってビビ達三人は櫻の姿の異常に気付き、思わず息を飲んだ。
「じょ、嬢ちゃん!? オマエ、脚が…!?」
再生出来ず、一先ず傷口を癒着させるようにして塞いであった脚の付け根に視線を釘付けにし、震える指を向ける。
「あははは…まぁコレに関しては深く聞かないでおくれ。それよりお前さん達も上がると良いよ。折角の厚意だ、甘えさせて貰おう。」
そう言って地面…いや、魚の神の背中に手を添え、優しく撫でた。
《おや、そこに浮いているのは…。》
魚の神が波間に見え隠れする物体に気付く。それはビビ達が討伐し、船の船尾に繋いであった魔魚の死体だ。船は砕かれ海の藻屑となってしまったものの、死体は沈む事無く海面に揺蕩っていた。
《あぁ、あたし達は元々あの魔魚を討伐にこの海域まで来たんだ。ただ、突然の襲撃に船は沈んであたしは海底まで攫われてしまってね…後は知っての通り。無様を晒しちまった。》
《何と何と、そうじゃったのか。いやぁ、ワシは底の方の始末や同胞の面倒で忙しくて、数の少ない上の方までは気を回して置けんかったんじゃ。恐らく底の方で食い物の取り合いに負けた弱いヤツが腹を空かせて上って来たんじゃろうな。地上の者に迷惑をかけたようじゃが、こりゃ助かる。そうだ、折角だからお礼にオマエさん方を陸まで運んでやろう。》
(アレが…弱い…?)
魚の神の言葉に櫻は唖然とし、口をぽかんと開く。
《…そりゃ助かるが、良いのかい? 忙しいんだろう?》
《なぁに、ワシだってたまには陽の光を浴びてのんびりしたいからな。サボる良い口実じゃ、はっはっは!》
何とも豪快な笑い声が頭の中へ響き、櫻は呆れながらもその表情は微笑んでいた。
「ふふっ、陸まで運んでくれるってさ。」
ニコリとした表情で軽く言い放つその言葉に、ビビ達は驚きを隠せない。しかしいつまでも海に浮いている訳にも行かないと、魔魚の死体に括っていたロープを三人で一本ずつ手にして巨大魚の背に恐る恐る上陸すると、ゆっくりと腰を下ろした。
《準備完了だ。東の方に在る大陸に向かって貰えるかい?》
《よしよし、任せなされ。》
魚の神の穏やかな声と共に、その巨体がスィーと移動を始める。不思議な事にその巨体は大して揺れず波も起きない。そして周囲の波の影響等何も無いかのように、背中に乗る櫻達の身体が大きく揺れる事も無い。まるで景色が自分達の周りを流れて行くかのようだ。
「わぁ…。」
今まで経験した事の無い余りの出来事に、ビビ達は言葉を紡ぐ事が出来ずただ呟いた。そんな三人に櫻がフと気付く。
「ん? お前さん達、その髪はどうしたんだい?」
小さく指差すその先。何とビビ達の髪が虹色に輝き風に靡いていた。
「え…あ、あぁ。コレか? アタシら魚人族は、濡れた髪が空気に晒されると光の加減でこうなるんだ。こうなると、ほら…。」
そう言ってビビ達は両手を広げるようにして櫻達へ身体を見せる。すると、その体表から仄かに湯気が立ち昇っているではないか。
「体温が上がって、身体が乾くんだ。」
その言葉の通り、まだ身体に雫が垂れる櫻達と比べ、ビビ達の体表はほぼ乾いた状態になっている。
「へぇ~、成程…地上と水中の両方で活動し易いようになってるんだねぇ。」
「こんなのは別に珍しく無いだろ…アタシ達としちゃ、嬢ちゃんの方が不思議でならないよ…。」
得体の知れない存在となった櫻に、ビビ達は少しばかりの恐怖を感じるように身を寄せ合う。そんな様子に櫻は眉尻を下げて乾いた笑いを漏らした。
(っと、そうだ。)
《なぁ、魚の神。お前さん、水の主精霊の居場所は知ってるかい?》
フと思い立ち尋ねる。
《あぁ、勿論知っとるよ。今向かっとる大陸の、更に東の大陸の南の方に居る。》
《あ~…大体の場所は聞いた事は有るんだがね、その主精霊の居る場所ってのは、やっぱり海の底なのかい?》
《そうだね。さっきオマエさんが沈んでた処よりももっと深い場所じゃ。…そうか、オマエさんは今、主精霊巡りをしておるのか。》
《そうなんだよ。それで、以前の人類の神は自力で水の主精霊の処に行ったとファイアリスから聞いてね。どういう方法で行ったのか、何か知らないかい?》
《ほほぅ!? それは知らなんだ。『人』がそんな事を成し遂げるとは、先代は大したものだったんじゃの。じゃがスマンのぅ、ワシはここ数代の人類の神とは直接会った事も無いし見た事も、声を交わした事すら無い。どんな方法であそこまで行ったのかは解らん。》
声色が少々申し訳ないという風に濁る。
《いやいや、気にしなくても良いさ。どうせ回るのは順番的に最後だ、それまでに何か考えておくとするよ。》
ハハハと声を上げて笑う。するとそんな突然の声に、アスティアとカタリナ、更にはビビ達までが何事かと視線を向け、櫻は思わずハッと両手で口を塞ぐと困ったようにはにかんで見せた。