精霊
轟音━━
遍在するケムリが、大きな渦になって空気をまきあげる。
ハチゾウの家が、いや森全体が震えているかのようだ。
(地震!?)
裕太はあわてて床に手をついて入口のほうをみた。
ハチゾウの姿が目にはいる。落ち着きはらって、ゆれる椀を手でおさえている。
ベエは?
裕太が視線をむけるより先に、ベエは動いていた。
両手を入口のはじにかけて、大きく身をのりだす。はずむような声で、
「くるよ、」
とさけぶ。
裕太は、ベエの頭のよこから、外をみあげた。
渦が。
地上から、空をふさぐ大雲まで、竜巻のような煙の筋が高く立ちあがっている。
「……すぐ!」
さけび声。何が、とといかえす間もなく、とびだしていく。
たんたんたんたん、とするどい足音。一段ずつ降りている音ではない。
裕太は身をのりだして、空をみあげる。
そこには、白い、巨大な狼がいた。
むろん、本当の狼を見たことなどない。せいぜい、シベリアンハスキーくらいだ。
それでも、雲間から突き出すその大きな頭は、狼のものと知れた。
太い首、つりあがった目、それに何より、するどい攻撃性を秘めた牙。
けれども、━━
再び、轟音。つよい振動。
ふらつきながらも、裕太は階段へと出る。足元がぐらつく。
あわてて手をついて、空を見上げる。
狼は、雲のなかから半身を突きだして、降りてこようとしていた。
その背には、梟のような翼。
(目が合った!?)
錯覚か、ともかくそう感じて、絶句する。それから、まばたき。三度目の振動とともに、眼鏡が耳からはずれて地上へとすべりおちていく。ぼんやりした視界のまま、ふたたび、みあげる。
それは厳然として空にいた。
ぴぃーっ! と、笛の音、
周囲の家から、人々が飛び出してくる。
よく見えないが、若い男が多いようだ。全部で10人ほどか。
「気にせんでええよ。べつに、たいしたことじゃない」
ハチゾウがのんびりという。
「たいしたことじゃ、って……」
「よいから、見ていろ」
男たちは、手になにかを持っているようだ。
金属器がふれあう音。武器か。大きな剣のようにも見える。
狼は、男たちをぎろりと睨みつけるようにして、首をまげた。ずうん、と太い地響きとともに地上におりる。大きい。肩の高さが、ハチゾウの家の戸口と同じほど。木々の間に身をひそめるようにして、ぐるりと周りをみる。
足もとに、数人の男がかけよる。前肢を斬りつけるような動き。しかし、まったく傷ついたようには見えない。
翼がたかだかとさし開かれる。
━━ッァーイ! ラーイ!
いつのまにか、下におりていたベエが、するどく叫ぶ。
たかく、するどく。同じく三度。
裕太は、眼下のベエを凝視した。
眼鏡はない。だが、なぜか、とてもよく見えた。
ベエが、まっすぐ前にむけてつきだした右手、そこに描かれた、赤い線と、黄土色の三角形、ぐるぐる渦巻く曲線模様。
ぬめぬめと、動いていた。
空中をはしるように、しゅるり、しゅるりと紙のうえを滑るかのように。
半月形の筆文字なぞは、ベエの肌からはなれて鎌首をもたげてさえいた。
「ゆけ!」
ベエが、叫ぶ。
しかし、男たちは、動かない。
動いたのは、べつのものだ。
(なんだ……?)
けむり。
最初は、そのように見えた。
そこらを漂う煙のくずよりは少し濃いような。白い、もやのようなもの。
もやから、ずるりと伸びる流体になり、蛇のような長物から、人のような姿になる。
まっしろな、抽象化された、人間の上半身。そのように、見えた。
目鼻だちは、よくわからない。顔のようなものは、あるようだ。
「あれは……、」
裕太が目を見開くと、ハチゾウは、ほう、と意味ありげにつぶやいた。
それは、宙を舞って、白くたなびくもやを背負いながら、戦士たちのわきをぬけていった。
男たちは、振り向きすらしない。
「見えていないのですか。」
「そういうことになるかな。」
とぼけた声で、ハチゾウがうそぶく。
ベエの体の紋様のうごめきと、「それ」の動きは、一致しているように見えた。
それは、地面の少し上をすっと抜けて、狼の足にからみついた。
そのまま、ずるずると狼の体表をはいまわり、上から下までロープのように伸びきって、あちこちの関節にからみつく。羽のつけね、首、膝、指にも。
狼には、「それ」が見えているのか。わからない。
わからないが、絡まれればやはり不快らしく、ぐいぐいと動きにくそうに身をひねる。
それから、
それは、しゅーっと首を伸ばして、
裕太の目の前に、ぱちりと目をみひらいて、顔をだした。
「え、」
髪のながい女の顔、のようにみえた。
つりあがった赤い目には、虹彩はなく、つるりとひらべったい肌は、煙と一体になって。
しろく、滑らかに。
Hi!
目があった瞬間、そんな声がきこえた。
電光が。
いや、なにか、それに似たものが、ふたりの目のあいだを走りぬける。
瞬間、裕太の視界がゆれた。
三度、大きくぶれて、それから、五秒ほど暗転。
ふたたび映ったときには、見えるものがかわっていた。
自分の、顔。
地味で、気が弱そうで、やたら線が細くて。見るのもあまりすきではない。驚いたような表情で、ぴたりと固まっている。
おもわず手の感覚をさぐるが、何もない。
触覚も、聴覚も、嗅覚も、視覚以外の感覚がなくなってしまったかのようだ。
そのまま、目線が移動していく。
ぐるぐるぐる、と狼の首にまきつく白いものがみえる。
体? ……だれの?
それから、ぎらりと、視界の隅で光るものがみえた。
狼の真横。大樹のまわりを廻る階段のうえ。
剣だ。
抜き身の大剣をかかえた男が、じっと座って狼をみつめている。
脚の筋肉が、ぴくり、ぴくりと動く。
飛び出すタイミングをはかっているのだ。
迷っている。そんなふうにも見えた。
狼をみる。
いや、自分の目でみているのではない。あの白いものが、むきをかえたのだ。
身体をたかく伸ばして、上空から、狼を見下ろしている。
ふたたび、ぎらりと光るものがみえた。
狼のうなじに、青白い、糸のようなもの。いや、きっさき、割れ目?
またたき。だんだんとゆっくりに、それから、
「首筋だ!」
おもわず、叫ぶ。
身体の感覚が戻っていた。視界も。
その次の瞬間、
男が、跳んでいた。
狼のうなじの古傷めがけて。