オオモリ、そしてふたたび景
事務室で、届けをだした。
特に反応はなかった。三枚ほど書類をかいて、おわりだ。
(バイトもなくなったし━━何も、心配いらないな)
そう、つぶやきかけて、ひとつ心残りを思い出す。
そういえば、あすの夜━━
*
「曇天国にいくんだって?」
ふいに、そう声をかけられて、裕太はぎょっと振り向いた。
顎髭をはやした、小太りの男。かなり年上にみえるが、まだ現役の学生である。新歓コンパで会って以来、時々声をかけてくる。
「……オオモリ先輩」
「やあ」
「なんで知ってるんですか?」
「事務室のとこで聞いてたやつがいたんだよ。……ちょっとコーヒー飲もうぜ」
屈託なくにいっと笑って、オオモリは学食棟のほうをさした。
*
「……お前が、『血の盟約』の資格者だったとはね。」
コーヒーは、オオモリのおごり。上機嫌そうに窓際の席にすわって、足をくんでいる。
「血の盟約を知ってるんですか。」
裕太はなんとなく所在なげに首をかしげた。
「だれでも知ってるだろ。習わなかったっけ?」
「さァ……」
小学校か中学校で、習ったような気もする。少なくとも、母はろくに教えてくれなかった。
「曇天国のことは、よく知ってるのか?」
「いえ。……ぜんぜん。両親も、行ったことはないと……」
「そうか。いろいろ聞けるかと思ったんだけど。」
「……曇天国に、興味があるんですか。」
「ああ。そういう人はいっぱいいるだろ。いつもああいう状態で、誰も中に入れない。マスコミもだ。あそこが日本の一部だったなんて、本当か? 年末にはいつも曇天国特番をやるけど、昔の話ばっかりで、現在の曇天国については何も報道されない━━」
「……そう、ですね。」
「曇天国が何なのか、誰も知らないんだ」
裕太は何を言っていいかわからなくなった。ようやく口を開くと、
「……でも、他にも曇天国へいった人はいるはず……」
「そう。お前みたいに、曇天国へ行く人は時々いる。人数も公表されてる。たしか、去年は三人。けど、体験談がマスコミに出ることはない。報道規制がされてるんだと思う」
「なんのために?」
「さあ……もうひとつ。変な噂がある。曇天国へ行って帰ってきたヤツが、中のことを周りに話した。けど、誰も信じなかったって……」
「……どういう意味ですか?」
「わからん。信じられないような話だったのか。それとも━━」
「それとも?」
「いや、……」
オオモリはちょっと目をそらした。それから、すぐに目線を戻して、つづける。
「とにかく、おれは、あの場所には何かあると思ってる。隠蔽されてるんだ」
「……なんのために?」
「いろいろ考えられるさ」
オオモリは自信ありげにいった。
「とにかく、帰ってきたら、なかの様子をきかせてくれ。頼んだぜ」
「はい。……いいですよ。そのかわり、」
「ん?」
たしか、オオモリはビデオデッキを持っていたはずだ。ならば、いまをおいてチャンスはない。
意を決して、
「……録画を、お願いできませんか。特番なんです。『太陽バロン』って特撮番組の━━」
そう言うと、オオモリはしばらくきょとんとして、破顔した。
「いいよ。そのくらい。とっといてやるから、うちに見にくりゃいい。ビデオデッキないんだろ」
それから、
「でも、お前もそろそろ大人になれよな。」
と、小さくいった。
裕太は、なんだかひどく悲しい気分になった。
*
14時半から、「機甲戦士ラナー」の再放送。
第21話。そろそろ、クライマックスの展開である。
裕太は、缶ジュースをあけて、にやにやしながらテレビの前にすわっていた。
ひとりぐらしをはじめてすぐ、むりをして買ったテレビである。
敵幹部のジュナーゲロスが、子供を人質にとっている。
主人公のラナーが、ぎんいろに光る剣をかざして、━━
がちゃん。
ドアがあいた。反射的に裕太はテレビにとびついて、チャンネルをまわした。
景であった。
「……なにか、みてたの?」
「ん、まあ、……ニュース」
「ふうん。」
そういえば、今日は、でかける約束をしていたのだった。
『……あいつぐ侵入事件に、政府は警備を強化しています……。警察隊では、先月末に逮捕された……容疑者の所属するグループが、ふたたび事件を起こす恐れがあるとして……、曇天国の……』
*
駅前の本屋に寄ってから、画材屋へ。
それから、商業ビルの3階にある映画館。
景の選んだ映画である。1時間半、ぼうっと座っていたが、内容は全然頭に入ってこなかった。
「少し、でかけるんだ」
そういうと、景はふしぎそうに首をかしげた。
「実家にかえるの?」
「いいや。……ちょっとね」
血の盟約のことは、いわなかった。
どうせ、自分でもよくわかっていないのだ。
*
屋上にでた。
10階建てのビル。市内でいちばんの高層建築である。ここからなら、見えるはずだ。
錆の浮いた手すりに身体を寄せて、遠くを見上げる。市街地の西にそびえる、小高い山。ふもとに田とあぜ道と、ぽつぽつと家屋。
その、さらにずっとずっと向こう。
距離感がわからないくらい遠いところに、うっすらと、青い山肌がみえる。
南は知多の沿岸地帯、北はとても見えないが、日本海まで。
全体としては、平たい壁のように凹凸なく広がっているが、よく見ると一箇所、大きくこちら側に突き出したところがある。那古屋山である。
そして、山岳全体の名は、日本山脈。
西日本と東日本を分断する、巨大な土壁だ。
山頂付近には、白い雲がかかってみえる。
ここからは見えないが、その雲は、西日本全土を覆う巨大な傘となって広がっているはずだ。
西日本、いや、
正式には、曇天国、という。
東日本と曇天国とは、那古屋山をつらぬく大トンネルでつながっている。そこを通るほかは、出入りする方法はない。
曇天国が、今のようなかたちになったのは、およそ100年前であるという。
裕太は、歴史の教科書でしか知らぬ。いや、日本のほとんどの者たちは、景がいうように、夢物語のなかの存在としてしか認識していない筈だ。
(……あそこに、いくのか)
実感はない。
なぜ、ゆかねばならないのかもわからない。
それでも、あそこへゆけば、何かが待っている。そんな気はしていた。
*
エレベーターをおりると、景が不満げに立っていた。
高いところが苦手な景は、こんなときいつも待たされる。