エピルローグ
「そこでちょっと動きを止めてくれ、」
亮平が、指示をだす。
裕太はいわれたとおり、リールーの右頬に筆をそえたポーズでとまる。きょうは、眼鏡をかけている。髭もそって、なんとなくリラックスしているようだ。
背後から、シャッターの音が、何度も。
「……絵を撮ってちょうだいって、言っただけなんだけど」
景は部屋のすみで腕組みしている。苦笑しながら。
「いいだろ、……これ、応募してもいいよな」
シャッターの嵐がとまって、亮平がそういう。古い、傷のついたカメラを床にそっとおろす。
「応募?」
「雑誌にさ」
景が眉をしかめる。
何かいおうとしたところに、がちゃんとドアがあく。
ピンク色の髪を両側でしばって、メガネをかけた少女が入って来る。
「え、」
裕太がつぶやく。
「リカ、どうしたの」と景。
少女は、右手にさげた紙袋をつきだして、
「来ちゃった。……ドーナツ、つくったの」
「お前、こなくていいっつったろ」
亮平が、袋を受け取りながら、つっけんどんに言う。
「おれの彼女。ごめんな、勝手に」
そういわれて、裕太はなんとなくほっとした。
「……おまけだ。景、裕太、そこに座れよ」
そういって、亮平は、絵の前にふたりを並ばせる。
寄り添って、パシャリ。ふたりはてれくさそうに笑った。
「さあ、食べましょう。リカ、ありがとね」
景はすぐに離れて、早口でそう言った。
そのとき、つけっぱなしのラジオから、とつぜん大きな声。
『緊急ニュースです……ただいま、那古屋トンネルが不通になったという情報が入りました……詳しい状況はまだ不明です。なお……』
「トンネルが!?」
裕太がさけぶ。おもわず、空中に目をやる。精霊の姿はない。
『なお、ただいま、曇天国を包む雲が急激に大きくなっているようだと情報が入りました……那古屋山周辺の12の自治体で、避難勧告が出ています……現場から、……』
避難勧告というところで、景がぴくりと震える。
裕太は部屋をとびだした。
たかだか二階建てのアパートである。周囲の建物が邪魔をして、ふだんは曇天国の雲など見えない。
しかし、見えた。
ふだんの高さよりはるか上。まっすぐに天をつくような、巨大な入道雲。
漆黒の。
身体にふるえがはしる。
とたん。かちっと視界が切り替わる。
上空。
曇天国全体を、まがまがしい雷雲が覆っているのがみえる。
雷雲はぐるぐると渦をまいて、蛇のように動いている。
音はない。
これは、精霊の視界か。
『タスケテ!』
耳のなかで声がひびく。
『キテ! キテ! 曇天国ガ━━』
ふっと、意識が肉体へもどる。
目の前に、精霊の顔があった。
頬をゆがめて、いつになく真剣な目で……
『曇天国ガ、オワッチャウ! キテ! ハヤク!』
裕太は、すっと目をとじて深呼吸した。
魔術師の考え方。
目をひらく。邪魔になった眼鏡をはずして、
「どこへいけばいいの?」
かたい声で。
精霊は歓喜の声をあげて、
『イズモ!』
それはどこ、といいかけたが、思い直して目を上にやる。
ともかくも、曇天国へ。
そこから先は、精霊が案内してくれるだろう。
「裕太!」
景の声。すぐ後ろにいた。
目を細めて、不安そうに首をかしげている。
裕太は振り返って、「ごめん、行かなきゃ、」とつげる。
「どこへ?」
「曇天国へ。」
「どうして!?」
景の手をとる。ふるえが伝わってくる。
「……また、帰ってくるから。」
それだけいって、走りだす。
かえるのではない。ゆくのだ。
そして、また戻ってくる。
それが、魔術師の、生き方だ。