92話 - ニシイーツの挿話 ~ 三郎と呼ばれた男
彼の名はマジカル三郎。
このふざけた名前は、サクラによって強引につけられた名前だ。
彼の本名はニシイーツといった。
子供の頃、彼は自分に自信があった。
物覚えが良く、理解が早い。
周りが10を覚える間に20を覚えることができた。
自分は優秀な人間だと思っていた。
運動は不得手だったが、ことさらそれが問題になるとは思っていなかった。
要領が良ければどうにでもなる。
結局、世の中は能力なのだと。そんなふうに思っていた。
毎日が楽しかった。
たが、生まれ育った地元から首都に登って、とある魔法使いに弟子入りをした時に……彼のささやかな自信は脆くも崩れ去った。
自分以外の弟子たちはみんな育ちが良く、話がまるで合わない。
常識が違う。知識が違う。教養が違う。
まるで異世界に放り込まれたようだった。
これまで周囲の人間を心の内で密かに見下していた彼にとって、この状況は周囲の皆が自分を見下しているように思えて仕方がなかった。
最初のうちは見返してやろうという気概があった。
だが魔法の修得でも差がつけられると、自尊心を守る拠り所がなくなり、彼の心は急速に萎んでいった。
ただひとり補講を受けるのは屈辱だった。
同期の仲間たちの励ましの言葉。
時間を割いて修練に付き合ってくれる親切心。
それを……ありがたいと思ったことはない。
疎ましさしか感じなかった。
そんなに自分との差を、余裕を見せつけて楽しいか!?
もういい、もう放っておいてくれ……これ以上、俺に現実を押しつけないでくれ……。
そうして彼は、師や仲間達に何も言わずに、逃げるように田舎へ帰った。
実際、逃げたのだ。
心が傷ついて弱った彼は、自分の部屋に引き篭もった。
結論から言えば、これまで生きた年月と同じだけの時間を部屋から出ないで過ごすことになった。
地球の単位で言えば既に彼の年齢は40過ぎ。
途中、何度も外に出ようと考えたことはあった。
その機会もあった。
だが結局は出なかった。
何故か?
理由は色々ある。
考えれば言い訳は無限に用意できる。
しかし結局のところは、ただひとつの言葉で説明できる。
怖かったのだ。これ以上、自分が傷つくのが。
そうして「自分が今動かない理由」だけをひたすら探し続けるだけの、ぬるま湯につかった日々。
その言い訳のひとつが、「自己研鑽」という建前で行っていたオノウェ調査だった。
オノウェ調査で近所に住む女の子の私生活を覗き見る。
初めのうちは、他にすることがないので暇潰しにと考えていた。
しかし実際のところ、それは困難を極めた。
魔法の使用にあたってとても重要な項目が、“距離”だ。
効果の対象が離れれば離れるほどに精度は落ちる。
最初は隣の家のことも全く分からなかった。
しかしそれでも続けた。
ひとつのことに没頭する職人的な性格のためか、あるいはひとえに非常に強い性欲の賜物と見るか。
しかしながらそれ以上に――暇だったのだ。
そして、魔法使いの修行を途中で投げ出したため、彼は他に使える魔法を習得していなかった。
悲劇が起きたのは、彼の調査範囲が通りをふたつ挟んだ先まで及んだ頃のことだった。
いつも通りに魔法で集めた情報をもとに自慰にふけっていた時、ついに業を煮やした父親が部屋の扉をこじ開けたのだ。
筆舌に尽くしがたい阿鼻叫喚の後、結果だけを述べると彼は家を追い出された。
その後は放浪していたところを次郎に拾われて、このアギーバの街へとやってきた。
目的があったわけではない。
何もなかったから、次郎の誘いに乗った。
それだけだ。
この時の彼の頭の中は、どうやって死のうかという事しかなかった。
サクラと出会ったのは、そんな時だ。
彼女は若く、明るく、奔放で、短絡的で、そして――どんな困難にも前向きに進んでいく勇気があった。
すべてが彼と正反対だった。
眩しかった。
だから目がくらんでしまったのだ。
サクラという少女に。
年甲斐もない恋心。
そんなもの、伝えられるはずもなかった。
気持ち悪いと拒絶されるのが分かりきっている。
だから彼は、道化に徹したのだ。
サクラの望む役割を演じた。
それでいいと思っていた。
あの男が……クラマ=ヒロが現れるまでは。
三郎はサクラと二人でダンジョン地下1階を走っていた。
陽動作戦は成功した。
サクラ達が黒槍の魔法で壁を吹き飛ばしたら、すぐさま敵が来た。
敵が来れば、後はあらかじめクラマに指示されていた通りに逃亡すれば役目は終わり。
そのはずだった。
だが、あまりに敵が来るのが早すぎたのだ。
こんなにすぐに逃げ出してしまっては、陽動の役目が果たせない……サクラはそう思ってしまった。
姿を現した敵が一人だけというのもあった。
退路を確保したまま、その場に留まって粘ろうとしたのだ。
その目論見は成功した。
……そう。それは、つまり。
敵が集まってくるまで粘ろうという思惑が成功したのであれば――大量の敵と相対することになるのは、川の水が高きから低きへ流れるがごとく当然の結果であった。
そんなわけで現れた大勢の敵から一目散に逃げ出したサクラ達だった。
全員ではないが敵の一部はダンジョン内まで追ってきて、そうして逃げ回っている間に獣の群れと遭遇。
その時のゴタゴタで一郎や次郎と別れてしまった。
今、サクラと三郎を追っている敵は一人。
だがニ対一ならいける……ということは全くない。
彼らに出来ることは、ただ逃げるのみである。
逃げて走って、息を切らせて。
しかしついに行き着いた先は、無情にも袋小路。
「えぇーっ!? 行き止まり!?」
「ううっ……!」
背後からは追ってくる足音。
進退窮まる窮地。
袋のねずみ。
絶体絶命の状況に、三郎は激しく動揺しながら思考を巡らせた。
――サクラを守らないと! 誰が? じ、自分しかいない! やるのか!? そ……そうだ、今やらずにいつ動く!? 今がそのときだ!
サクラの視線を受けている――という認識が、彼の背中を後押しした。
勢いに任せて彼は迫り来る敵に振り向いた!
それは、やぶれかぶれであった。
勝算があるわけではない。
それどころか、振り向いて拳を振り上げたはいいが、彼の目の前は真っ白で、敵の姿が目に入っていない。
……気付いた時には、彼は剥き出しの土の地面とキスをしていた。
敵のパンチ一発でダウンしたという事実は、頭を働かせて思い出すまでもなく明らかだった。
三郎は無様に土を噛みながら思う。
……結局こうなるんだ。分かっていた。だいたいやる前から想像はつく。できないことをやろうとしても時間と労力の無駄。人生の損失である。
三郎はそう考えていた。
そう、言い訳していた。
今の自分にできることは何もない。
だから後はこうして、嵐が過ぎ去るのを待つのが正しいのだと。
それが自分が一番傷つかない方法だということを、思慮深く賢い彼は知っている。
「ええい、大人しくしろ! 小娘!」
「うっさい、このっ! 大人しくしろはこっちのセリフよ!」
三郎の耳にサクラと敵が争う音が聞こえた。
どうやらサクラは激しく抵抗しているようだった。
三郎は心の中で語りかける。
そんなに暴れちゃダメだ。抵抗すればするほど痛い目を見るだけだ。……と。
「あっ!」
どざっ、と人が倒れる音。
「ふぅ……これで少しは大人しく……がっ! こっ、こいつ噛みやがった!」
「むーーーーーー! んむぅーーー!」
「くそぉ、手加減してやればこいつ……! そこまでするなら覚悟はできてるんだろうな!」
サクラは抵抗をやめない。
三郎にはその行動が理解できない。
――なんで。どうして。
噛みつきなんてしたら、相手は手加減してくれなくなる。
思わぬ反撃で傷を負わされた者は、そのマイナスの帳尻を合わせるために、自分に傷を負わせた相手から何かを奪おうと考える場合が多い。
……サクラは何も持っていない。
男に奪えるものといったら、貞操だけだ。
悲嘆と焦燥の中で、三郎はひとつの可能性に思い至ってしまう。
――もしかして、自分が起きて加勢するのを期待しているのでは?
やめてくれ。――と、三郎は思った。
敵の男にではない。
サクラに対してだ。
自分にそんなことを期待するのはやめてくれ、と。
だが、次にサクラの口から出てきた言葉。
三郎はそれに、天地が逆さになるほどの衝撃を受けた。
「はぁ!? 覚悟しろ!? こっちのセリフよ! あんた三郎に何してくれてんのよ! 絶対許さないから!」
「……………あ……」
その言葉で、三郎はついに気がついてしまった。
これまでずっと見て見ぬふりをしてきたもの。
あまりにも下劣で、卑賤で、正視に堪えないほどに矮小な、自分自身の本性を。
愛する者を守れないどころか、逆に守られ、あまつさえそれを疎ましく感じている自分の姿を直視した。
――なぜ、こんなことに。
こんな場面を望んでいたわけではなかった。
彼が……彼だけが知る真実では、普段は情けないけどやる時はやる。それが予定していた“本当の自分”だった。
なんの根拠もなく、なぜかそう思っていた。
「あ……あぁ………ああぁぁあぁぁぁぁ……!」
溢れ出す。
悔恨、慚愧、憤怒、自責……ありとあらゆる自虐の念が、怒涛のように三郎の胸中から噴き出していた。
胸を掻きむしって自分の心臓を引きずり出し、握り潰したくなるほどの激情が渦を巻いて、三郎自身を強く強く責めたてる。
一度溢れ出してしまえば、誰にも止める術はない。
長きに渡って溜めに溜め込んだ、理想と現実の齟齬。
止めることなどできなかった。
壊れたダムからは、際限なく水が溢れ出す。
――死ななければ。
そう思った。
今ここにいる自分は死ななければいけない。
客観的に見て。
冷静に考えて。
これは、生きる価値のないモノだ。
――だけど、だけど……死にたくないんだ……。
この期に及んで。
なんという、信じられないほどの見苦しさ。
我が事ながら心の底から呆れ果てる。
事ここに至っても妥協しなければならない腐った性根よ。
死にたいし、死ぬべきだけど、どうしてもどうしても死にたくなくて死ぬのが嫌で仕方がないから――
妥協に妥協を重ねた最後の二択。
このまま寝たふりを続けてサクラのもとを去るか……
あるいは、今すぐ立ち上がり、立ち向かうか。
「……オクシオ・オノウェ……」
それまでサクラにかかっていた男が、ぎょっとして振り返る。
先ほど軽くパンチ一発でのしたヒョロヒョロの男が、いつの間にか立ち上がり、魔法の詠唱を始めていたのだ。
「イーオハ・アナサ・バーヒ・サエドスガ・ツノセウェシ……」
「魔法……! させるか!」
男はサクラを放り投げて、三郎のもとへ走る!
三郎は陳情句を省略して発動句へ続ける。
男が三郎に襲いかかる直前で、その詠唱は完了した!
「オクシオ・センプル!」
次の瞬間、三郎の拳が男の顔面を殴り倒していた。
「ぐぅっ! な、なんだ……!?」
地面に倒れた男は軽く混乱していた。
彼は魔法使いではないものの、いくらかの魔法に関する知識があった。
その知識が、彼に大きな違和感を与えている。
「オクシオ・センプル……!? それは魔法具を使わない汎用の発動句だ。お前、魔法具なしで魔法を……!?」
魔法具がなければ戦闘中に魔法を使用できない。
これは対魔法使い戦闘の常識であり、大原則だ。
有り得ない出来事に、彼が困惑するのも当然だった。
「……オクシオ・オノウェ……」
三郎は男の言葉には答えず、再び詠唱を開始した。
今のが偶然ではなく、何度でも成功できるとでも言うかのように。
「イーオハ・アナサ・バーヒ・サエドスガ・ツノセウェシ……」
「くそっ! やらせるか!」
男は今度こそ途中で詠唱を止めようと、勢いよく起き上がって三郎に向かって殴りかかった。
三郎はそれを必死に避けながら唱える。
……が、避けきれずに男の拳が三郎の頬をかすめる!
やった、と男は思った。
さすがにこれで心想律定は乱れたはずだ。詠唱の妨害は成功した、と。
「――オクシオ・センプル」
だが止まらない。
再び、三郎の拳で男は地面を転がった。
「ば、ばかな……不可能だ……!」
そう、不可能だ。
たとえ超一流の魔法使いであっても、戦いながら、攻撃を避けながら心想律定を組むことなど出来はしない。
だが彼には出来る。
彼は超一流……どころか、三流以下の魔法使いである。
使える魔法はオノウェ調査だけ。
オノウェ調査しかできないから……彼は、ひたすらそれだけをやり続けた。
自分の部屋に引き篭もってからずっと。
これまでの人生の半分以上の時間を。
地球時間で言う20年もの年月を、ただそれだけに費やしたのだ。
故に、ことオノウェ調査魔法のみに限っては――彼が失敗することは有り得ない。
たとえ針山の上だろうと、あるいは灼熱の火に囲まれていようと……彼は難なく成功させるだろう。
「……そうか、分かった」
殴られた男は三郎をよく観察しながら、ゆっくりと立ち上がった。
「理由は分からないが出来るんだろう。だが……二度も同じ詠唱。それはつまり、他の事は出来ないってことだ。違うか?」
男は冷静にそう分析した。
三郎は答えられない。
男は自分の推理が当たっていると見て、続けた。
「そしてどっちの場合も俺の突きに合わせたカウンター……盗んでるのは俺の思考か予備動作か……こっちの仕掛けるタイミングが分かるんだろ。だが、それはかなり限定的な予測になるはずだ」
「………………」
三郎の背筋を汗が伝う。
早くも看破されてしまった。
三郎が読み込んでいるオノウェ情報は、「相手が次にやろうとしている攻撃」という事のみ。
ばれてしまえば、いくらでも対処の方法はある。
そして――目の前の男は静かに構えをとった。
鋭く見据える目には、もはや油断の色はない。
「大したものだ。そこまでの高みに至るには、並大抵の修練ではあるまい。だが……次は破ってみせよう」
男は気勢をあげる。
「どうした、唱えてみせ――んごぶ」
「あ……」
セリフの途中で男が崩れ落ちた。
男の立っていた背後。
そこには大きな石を頭上に掲げたサクラが。
「…………………………」
「え? あ……あれ? なにこの空気? な、殴っちゃダメだった?」
「あ……ああー……は、はは……いや、助かった、よ……っと」
三郎はガクリと力が抜けて尻餅をついた。
「ちょっ、ちょっと大丈夫!?」
「は……はーっ……はー……はーーっ……!」
ほんの短い間の戦いだったが、三郎は体が動かなくなるほど疲弊していた。
極度の緊張、そして運動不足が原因だ。
あのまま続ければ三郎に勝ちの目はなかった。
……実際、2回殴っただけで三郎の拳はもう限界だった。
戦いというのは殴られた方だけじゃなく、殴った方も痛いのだということを、今さらながらに三郎は実感していた。
体の状態は最悪。
しかしながら、彼の胸の内はすっきりとしていた。
見えている風景も、なんだかさっきまでとは違うように見える。
色々なものが以前よりも鮮明に網膜へ映っているような気がした。
「はーーーーーー……よっ、こい、しょ、っと」
三郎はふらつきながら立ち上がる。
「ほらもー、ふらついてるじゃん! 無理するんじゃないの!」
「いんや、無理でもやらないと」
――なにしろ、自分はあのクラマを超えなくてはならない。
それは必然の目標設定であった。
立ち上がり、サクラの隣にいることを望んだ以上は、クラマは当然倒さなくてはならない敵だ。
……それが不可能だということは分かっていた。
クラマは特別だ。
誰が見ても分かる。クラマ=ヒロという人物はあらゆる面で、凡人とは一線を画している。
しかし無理という事実は、今の三郎にとっては、やめる理由には当たらなかった。
どうせこの身は死んだようなもの。やるだけやってみればいい。……と。
「ちょっと三郎、聞いてるー?」
自分の目の前で手を振るサクラに向けて、彼は言った。
「サクラ、これからは三郎じゃなく本名で呼んでくれないかな」
割り当てられたゴザル口調は、とっくにやめていた。
「え? 本名? ……って、なんだっけ?」
「ニシイーツ」
「ニシイーツね。いいけど……あっ! ひょっとして三郎って呼ばれるの、嫌だった……?」
遠慮がちな上目遣いで見上げてくるサクラ。
彼――ニシイーツは苦笑した。
「いいや、コレはただのケジメだから」
「ふうーん……? ま、いっか」
サクラとニシイーツは連れ立って歩きだした。
こうして、かつて三郎と呼ばれた男は、三郎の名を捨て去ることで、己を取り戻すことができた。
とりあえず――この街での騒動が一段落したら、体を鍛えることから始めよう。
……と、ふらふらとした足取りでダンジョンの道を進みながら、彼は人知れず心に決めたのだった。




