84話 - 賢者の挿話
クラマとヤエナが去った後、その姿が消えても虚空の先を見据え続ける賢者ヨールンの姿があった。
闇の中でも燻ることなく煌めく紅玉の瞳。
まるでそれは嵌め込まれた宝石のようだった。
しかし――
「いつまでも人形のままでいられるか……」
ソレは聞こえるはずのない声。
男の口は動いていない。
当然だ、紡がれた声色はしわがれた老人のもの。
ここには青年の姿をしたものしかいない。
いや、もうひとつ……
「ィ……ィィ……ァィ……」
クラマがいなくなったのを見計らってか、鍾乳石の陰からソロソロと姿を現す黒いもの。
――魔物。
ヨールンは魔物に手招きをすると、近寄ってきたそれを両手で頭上に高く抱え上げた。
元は人間――いや、神の造りし“人形”であったもの。
今やそれは顔もなく、手もなく、足もなく、ただ体の軋みで鳴き声のような癇に障る音を奏で、棒状の器官を突き出す勢いで移動を行う奇怪極まる物体。
知性を捨て、尊厳を捨て、さらには有機体であることすら捨て、このようなものに成り果ててまで生き永らえて――果たしてそこに希望はあったのか。
今となっては何も語れぬ当人にしか分からない。
魔物と呼ばれることになった、《神の粛清》を経た古代人たち。
魔物を頭上に掲げた賢者ヨールンが口を開いた。
「先輩……」
美しい青年の声には、どこか遠い郷愁を思い起こすような、優しさと悲哀があった。
賢者ヨールンは魔物を自らの膝の上に乗せ、再び釣り竿を地底湖に向かって構えた。
「小賢しく……常軌を逸した奴じゃが……あのくらいでなくてはならん」
「ィ……ィィ……」
膝の上の物体に、その言葉が通じているのかいないのか。
「さて、うまく動いてくれるかの……儂の可愛い人形たちは……」
賢者は魔物を優しく撫でて、語りかけるように呟いた。




