75話
暗く深い谷底へと落下したクラマ達。
生い茂る植物が緩衝材となったおかげで最悪の事態は免れていた。
「いってててて……」
全身の打ち身、擦り傷の痛みを堪えながらクラマは身を起こす。
近くでは一緒に落ちた男が似たように呻いて起き上がろうとしていた。
クラマは上を見上げる。
崖はかなり高く、上がよく見えない。
また傾斜がきつく登れそうになかった。
崖から落ちた際に傾斜をかなり転がったようで、落ちた場所からは相当離れているようだった。
上からパフィー達の声も聞こえない。
クラマは暗い中を半ば手探りで黒槍を探す。
「……あった」
運良くすぐに見つけることができた。
クラマは黒槍を拾い上げると同時に、すぐ傍で折れた棒も発見した。
「ああ……僕のプラエトリアニ・オブ・ザ・パテル・パトリアエが……」
壊れた棒の前で膝を折って嘆くクラマ。
その鼻先に、剣の切っ先が突きつけられる。
起き上がったヒウゥース配下の男だ。
クラマは見上げて声をあげた。
「えぇ~? まだやるの? 協力して元の場所に戻ろうよー」
「黙れ! もとより己の命など惜しくはない。俺の使命はここで貴様の息の根を――」
「ちょ、ちょっちょっちょっーと待った!」
「なんだ? 命乞いなど俺には……」
「後ろ! 後ろ見て後ろ!」
「なに……?」
男が振り返る。
するとそこには――何もなかった。
視界の劣悪な薄暗い谷底。
男は注意深く見るが、どれだけ目を凝らしても先には暗闇が続いているのみ。
「おい、何が……」
と、再びクラマの方へ男が顔を向けた時、そこにクラマの姿はなかった。
男が目を離した隙にクラマは脱兎のごとく駆け出していた。
「きっ……さまァァァァァァ!!!」
男は憤怒の形相でクラマを追いかけた!
「よくも騙したな貴様! 止まれ、逃げるな!」
「いやいやいや、逃げる。逃げるよね普通。それとも止まったら許してくれる?」
「許すわけがあるか! たわけ!」
「だよね。だから僕もこうして逃げているわけで……っと?」
その時、クラマの足に何かが絡まった。
それはワイヤー。
植物ではなく人工のワイヤートラップだった。
「はぁ!? なんっ……でぇえ!?」
あらかじめ植物の罠は運量で避けていたが、人の手による罠は願いの対象に入れていない。
クラマは足をとられた勢いのまま、盛大に地面を転がった。
「くうっ……!」
クラマは黒槍で足に絡まったワイヤーを切断するが、その間に追ってきた男に追いつかれてしまった。
「フゥーーーーッ……小賢しい奴め。だがもう逃がさんぞ、覚悟を決めて神妙にしろ」
剣を構える男。
片膝をついたまま男を見上げるクラマは……
「あ……」
大きく目を見開いて、男の背後を指さした。
「ちょっ……後ろ後ろ!」
「貴様……二度も同じ手を食うと思っているのか」
「いや嘘じゃないって今度は! ホントにホント! ヤバイって後ろ!」
「見苦しいぞ貴様! 今、引導を渡してくれる!」
男が剣を振り上げる!
その上げた手が、コツンと何かにぶつかった。
「なんだ……?」
振り返る男。
そこいたのは、人間よりも遥かに大きな昆虫。
ずんぐりとした巨体に、深緑色の甲殻。
その背中には植物の葉に似たトゲがびっしりと生えており、口からは蟹の足のような歯が外に飛び出て妖しく蠢いていた。
「お……うおおおおおおおおおおっ!?」
ふたりは全速力で駆け出した!
「なにあれ!? この世界ではあんなのが普通なの!?」
「普通ではない! あれはこのダンジョン特有の古代種……緑迷彩大甲虫だ!」
走りながらクラマは背後を見る。
「だめだ、追いつかれる! 戦うしか……」
「奴の甲皮は鉄よりも硬い! 生半可な武器では傷ひとつつけられんぞ!」
とはいえ、このまま走って逃げ切れるものでもない。
クラマは覚悟を決めて、足を止めて振り返った。
気付いた男が叫ぶ。
「無理だ、やめろ!」
「……生半可な武器じゃないんでね」
ティアから授けられた黒槍を構えて、クラマは迫り来る甲虫を迎え撃つ!
渾身の力で突き出される、漆黒の穂先。
歪な四つの刃は甲虫の頭部に突き刺さり、その巨体を止めた。
「刺さった! けど……」
甲虫は止まらない。
槍が体に刺さろうが関係なく進み、槍の穂先を沈み込ませながらクラマに迫ってくる。
昆虫は痛覚を持たない……昔そう聞いたことがあるのを、クラマは思い出していた。
クラマの眼前に迫る甲虫の顔。
甲虫の口から飛び出た脚のように動く歯。
それらが大きく広がって、クラマの顔を掴もうと伸びる!
だが、その歯はクラマに触れる直前で断ち切られた。
「槍を離して下がれ! 今ならそいつは早く走れん!」
断ち切ったのはヒウゥース配下の男の剣だった。
しかしここで槍を離して逃げれば、次の脅威が現れた時に使える武器がなくなってしまう。
出来ることならそれは避けたい。
クラマはなんとかしてこの場を乗り切りたいが……さりとて都合よく妙案も浮かばなかった。
黒槍の魔法を使用するには心量が不足しているのが致命的だった。
「く……!」
槍を捨てて逃げるしかない。
クラマがそう結論付けたその時だった。
――声が届く。
何処かで聞き覚えのある、頭に響く低い声。
「いいや、そのまま掴まえていてくれたまえ」
声がした次の瞬間、シュカッ! という軽快な音と共に、甲虫の背で閃く白銀の軌跡。
一刀のもとに巨大な甲虫が二つに断ち切られた。
続く地響き。ズシンと地面に落ちた甲虫の半身。
そして、クラマは見た。
その甲虫の背に悠然と降り立つ男の姿を。
「……ワイトピート」
クラマは呻くようにその名を呼んだ。
邪神の徒。
悲劇の神の信奉者にして、彼らの裏切り者。
死と不吉を周囲すべてに巻き散らさなければならない、災禍の中心人物。
青い瞳のワイトピートが、そこにいた。
「やあ諸君! 奇遇だね、このような所で会おうとは!」
来客を歓迎するかのように両手を広げるワイトピート。
右手にはサーベルを持ち、左手首から先は失われている。
その剣呑な両の手とは裏腹に、彼が見せる笑みは爽やかで、あきれるほどに優雅で紳士的だった。




