59話
色々な人がクラマの病室へ見舞いに訪れたが、どういうことかレイフだけは姿を見せなかった。
クラマがレイフの様子はどうかとパフィーに尋ねてみると……
「あ……レイフは……う、うん。大丈夫。顔の腫れも引いてきたし、もう普段通りよ。……でも……」
パフィーは言葉を濁す。
しばらく悩んでいたが、やがてかぶりを振った。
「これは……レイフから直接聞いた方がいいと思う。私は……いいか悪いか、分からないから……」
核心をわざと外した、意味深な言葉。
クラマはそれに、ただ分かったとだけ答えた。
そして3日後。
日常生活に支障がない程度に回復したクラマは、ついに退院する運びとなった。
後は貸家に戻って次の探索の準備をしながらリハビリしていく。
診療所を出るその前に、クラマはまずサクラの病室に顔を出した。
クラマの顔を見たサクラは開口一番、
「嘘つき! 痛くないって言ったじゃない! このバカ! アホちんこ!」
アホちんこはライン超えてきたな、とクラマは思った。
サクラの魔法治療は三郎が行うことになっていたが、慣れない代謝促進魔法に手間取っているうちに、サクラの目が覚めてしまったらしい。
クラマは涙目で騒ぐサクラの頭を撫でて落ち着かせた。
するとサクラはすぐに大人しくなった。
ついでにサクラの心量も上がった。
クラマはサクラの将来が心配になった。
そして次に、クラマはイエニアの病室へと足を運んだ。
扉を開けて中に入ると……
「――クラマ?」
ベッドに横になっていたイエニアが、クラマの来訪に気付いて身を起こした。
イエニアの着ているゆったりとした病衣。
その首元から鎖骨にかけて、ちらりと刃物による傷跡が見えた。
「傷……もう塞がったんだね」
言われてイエニアは、傷跡を隠すように襟元を正した。
「ええ、私も三郎さんに魔法治療をして貰いましたので。少し遅れますが、私もすぐに戻ります。クラマは先に戻って待っていてください」
いつも通りの、凛として頼もしいイエニアだった。
クラマは枕元の椅子に腰かけて、しばらくイエニアとふたりで雑談に興じた。
治療魔法を受けた感想。
見舞いに来た人たちから聞いた話。
病院食の味と量。
「いやー、いくらおいしいって言ってもさ。しばらくチェーニャ鳥の卵は食べたくないね!」
「クラマは我が侭です。私はたくさん食べることができて、夢のようでしたよ」
などと楽しく歓談していたが、やがて話に区切りがついて、どちらともなく会話が止まる。
「じゃあ、僕はそろそろ……」
と、クラマが腰を上げた時だった。
「……? イエニア?」
椅子から立ち上がりかけたクラマの袖が、イエニアの手で掴まれていた。
「あ……」
それはイエニアにとっても無意識の事だった。
イエニアは驚いた顔を見せて、すぐに顔を伏せる。
……だが、クラマの袖を掴む手はそのままだった。
「どうかした、イエニ――」
ふと、そこでクラマは気がついた。
イエニアの肩が微かに震えていることに。
クラマは椅子に座り直して、イエニアの肩に手を置いた。
イエニアの気持ちは分からない。
だが、人は触れ合うだけで安心を得られることを、クラマは知っていた。
クラマはもう一方の手で、イエニアの手を握る。 震えが止まってくれるように。
イエニアが安心できるように。
イエニアは俯いたまま、ぽつりと呟いた。
「……怖かった」
その声は、クラマが初めて聞く、イエニアのか細い声だった。
細かく震える唇。
イエニアの震えは収まるどころか、次第に大きくなっていった。
「わたし……怖かった……怖かったんです。斬られるのは……死ぬのは覚悟してた。でも……」
少しずつ声色も大きくなる。
嗚咽じみた訴えが、あの毅然としたイエニアの口から漏れ出してくる。
「でも、あいつらは違った……! 私、意識はあったんです……目は掠れて見えなかったけど……周りの言ってることは分かった。彼らは私を殺す気がなかった……ただ、おもちゃにして、それで死んでも構わないっていうだけで……! もう少しで……もう少しで私、あいつらに……!」
クラマは、イエニアを抱きしめた。
イエニアの震えが体を通して伝わってくる。
その震えを自分の体で受け入れるように。
クラマはぎゅっと強く、抱きしめた。
「…………………クラマ………」
クラマは何も言わない。
何も言わない方がいいと思った。
言葉がなくても伝えられることはある。
だから、中身のない言葉で彼女の存在が損なわれないように。
ただ黙って、抱きしめた。
「…………ありがとう、クラマ」
イエニアの震えが止まった。
その声も――いつもと少し違うが――震えはない。
イエニアはクラマの耳元で優しく囁いた。
「私が乱暴されそうになった時……レイフが庇ってくれたんです。彼らの矛先が自身に向くように、わざと挑発して……」
「レイフらしい」
「ええ、そう思います」
クラマはイエニアから体を離した。
そこにはもう、背筋を伸ばしてクラマをまっすぐに見つめる、普段通りのイエニアがいた。
そうしてイエニアは、クラマの目を見て告げた。
「レイフと話してください。私からは……何も言えません。勝手かもしれませんが……私はクラマの判断に任せたい」
「分かった」
クラマは頷いた。
診療所を出たクラマ。
「さて――行くか」
クラマは久しぶりの拠点、自分達の貸家へと戻っていった。
帰り道の途中で街の人から何度も話しかけられた。
家に着いたのは夕方。
貸家に戻るとイクスが出迎えた。
クラマは帰り道に買った食材を使って夕飯の支度をする。
パフィーが戻り、レイフが戻り、ティアが戻った。
皆で食卓を囲む。
イエニアはいないが、それ以外は普段通り。
特におかしな事もなく、食器を洗い、お風呂に入り、そして夜が来る。
夜が来た。
暗闇の帳が降りきって、黒い黒い、何もない黒が空一面を覆う頃。
人も小鳥も寝静まり、夜のしじまが世界のすべてを抱きしめる頃。
しかし、そこに日の光があることを知っている。
クラマの焦がれる暖かな日差しが待っている。
クラマは階段に足をかけ、一歩一歩と、空へと近付いていく。
ついには階段を登りきる。
そうして、クラマは貸家の屋上に顔を出した。
「あら、奇遇ね」
クラマの太陽がそこにいた。
「ここから登っていくのが見えたからね」
その答えに、レイフはふふっと笑った。
レイフは屋根の上に座って遠くを眺めている。
クラマはランタンを置いて、レイフの隣に腰を下ろして訊いた。
「何を見てるの?」
「いいえ、特に何も。私はただ、あなたが来るのを待ってたんだもの」
「そっか。僕もレイフに用があるんだ」
「あら、クラマから私に?」
「うん……」
クラマは座ったまま空を見上げた。
広がるのは、もはや見飽きた黒。
「……やっぱり月は出てないかぁ」
当たり前である。
「つき?」
この世界には月も星も存在しない。
分かりきったことを今さら確認しながら、クラマは呟いた。
「僕が生まれた国ではこういう時、月が綺麗ですね……って言うんだよね」
「ふうん?」
レイフもクラマに釣られて夜空を見上げた。
ふたりで何もない空を見上げながら、クラマはレイフに向けて語る。
「地球ではね、夜は太陽の代わりに月が照らすんだ。太陽よりはずっと小さい光だから、夜はやっぱり暗いんだけど……それに満ち欠けっていって、毎日少しずつ形が変わっていってね。それから月の他にも、小さな星が見渡す限りに広がってて……天気がいいと、空いっぱいに宝石が輝いてるみたいになるんだ」
レイフの見知らぬ世界の話を力説するクラマ。
その横顔を眺めながら、レイフは言った。
「なんだか幻想的ね」
「……言われてみれば確かに」
よもやファンタジー世界の住人に言われるとは思わなかった言葉に、クラマは苦笑した。
クラマは地球に戻りたいと思ったことはない。
だが、クラマの心象では、この世界には足りないものが多すぎる。
月はない。星もない。雲も、雨も、強い風もなければ四季もない。
戻りたくはないが、欲しいとは思う。
「レイフにも、いつか地球の星空を見せたいな。イエニアとパフィー……みんなにも」
そう言って空から視線を落とし、レイフに目を向けるクラマ。
クラマと目線が合ったレイフは、困ったような照れ笑いをした。
「ふふ、いいわね。私も見てみたいけど……」
そして、レイフは告げる。
「私は、パーティーを抜けるから」
―――――――。
空白の時間。
パフィーとイエニアの態度で予想できていたので、聞き返したりはしなかった。
それにどう返すべきかも、クラマはあらかじめ考えてきていた。
だが……言葉が出てこない。
ぐっと奥歯を噛み、拳を握るクラマに向けて、レイフは続ける。
「みんなの足手まといにならないようにって、弓を練習してみたり、よその冒険者から短剣の使い方を教わったりしたけど……ダメだった。危険が迫ってくると、どうしても目を閉じて縮こまっちゃう。目の前が真っ白になって、何も考えられなくなるのよね」
以前にクラマとの訓練でイエニアも言っていた。
戦い慣れていない者は、恐怖のために、相手の攻撃を最後まで見続けることができないと。
「奥に進めば、もっと危険が増えていくんでしょうし……私だけならいいけど、このままだと私のせいでパーティーが全滅するだろうから」
正論だった。
否定できる要素がない。
レイフがピンチになれば、クラマは必ず助けようとする。
それが続けば、いずれは破綻するのは目に見えている。
レイフはそこで軽く息を抜いて、クラマに微笑みかける。
「ふふっ、そんな顔しないで。パーティーを抜けたからって、別に会えなくなるわけじゃないわ。みんなが良ければ、このままここにいてもいいわけだしね?」
自分はそんなに酷い顔をしているのか、とクラマは思った。
だが、いつものように表情を繕えなかった。
格好つけた軽口も、今ばかりは出てこない。
冷静に考えてみれば。
レイフには抜けてもらって、新しくメンバーを募った方がいい。
秘密を共有するため厳選する必要はあるが……既に候補は何人かいる。
ダンジョン攻略のためには合理的で、当然の判断だった。
クラマもそれは理解している。
その上でクラマは、口を開いた。
「駄目だ。抜けたら駄目だ」
レイフの言葉は否定しない。
否定できない。
ただ、駄目だと主張した。
レイフはそれを優しく諭す。
「だめよクラマ。約束したでしょう、彼女たちをダンジョンの奥まで連れて行くって」
「……レイフとも、約束した」
「ごめんね、あれは嘘なの。だから無効」
「それならイエニアとパフィーだって無効だ」
すでにイエニアとパフィーの嘘は暴かれている。
そうとは知らないレイフは少し驚いた顔を見せたが、すぐに別の答えに変える。
「でも、イエニアとパフィーにはダンジョンに潜る理由があるわ。私にはもう理由がないの。クラマには復讐のための資金集めに来たって言ったけど……もう復讐する気なんてないのよ。ただ、自暴自棄になって来ただけ。でもみんなとパーティーを組んで、みんなと暮らして……それじゃいけないと思って。私の馬鹿な考えに、みんなを巻き込みたくないの」
レイフは仲間意識が芽生えた結果……仲間のために、パーティーを抜けるという結論に至った。
つまりここでレイフを引き留めるということは、「自分のせいで仲間が」という不安と罪悪感を背負っていけという事である。
不合理なだけでなく、それは残酷な事だ。
だが、クラマは引かない。
どこまでも食い下がっていく。
「……でも、仲間のために全滅してもいいと言ったのはレイフだ」
「それは互いにやるべき事をした上で、そうなっても仕方ないという事よ。パーティーのためには、私が抜けるのが私のやるべき事。そうでしょ?」
「………………」
クラマは返せる言葉がなくなってしまった。
話は終わりとばかりにレイフは腰を上げ……その手をクラマは掴んだ。
「頼む。行かないで欲しい」
レイフは怪訝な顔をする。
「どうしてそこまで私がパーティーに残ることにこだわるの? 一緒にダンジョンに行かなくても仲間でいられるのに。サクラ達だってそうでしょ?」
「………それは……………」
レイフにとっては当然の疑問。
しかしそれは、クラマにとっては答えることのできないもので……
「……僕も、嘘をついている」
クラマは、訥々と語り出した。
己の重ねてきた嘘の数々を。
自分の特技、経歴。
守るつもりのない口約束。
嘘を言わない日はなかった。
すべてを事細かに覚えているわけではないが、ひとつひとつを、できるだけ漏らさぬように語っていく。
……かなり長い時間、語ることになった。
思いつく限りを喋ったクラマは、ゆっくりとレイフから離れる。
そして、その後に言った。
「……だけど、僕が隠してるのはそれだけじゃない」
そう告げたクラマの瞳は、果てしなく虚ろで、光の差さぬ闇のようだった。
まるで空の暗闇に溶け込むかのように――
「でも……それは言えない……それだけは、どうしても……」
苦悶に震えるクラマ。
クラマの抱える闇。
まさにそれこそが、レイフを引き留める理由であり――だからこそ、明かすことができない。
それを言ってしまえば、パーティーそのものが破綻してしまうから。
故に、クラマは理屈を語れない。
クラマに出来ることは……恥も外聞もない、幼稚な泣き落としだけだった。
しかし……
――駄目だ、これは。
クラマは焦っていた。
泣き落としのために自らの嘘を告白した。
そこまではいい。
どうしてそこで、「でも言えないことがある」になるのか。
懺悔するなら全てを曝け出さないと。
なぜ馬鹿正直にそこまで言ってしまうのか。
明らかに交渉のやり方を間違えている。
クラマは己の失敗を自覚し、絶望した。
……しかし、思い起こせば最初からそうだった。
レイフとふたりきりになると、思ったことが言えない。
普段通りの態度がとれない。
それだけではない。
レイフの性的な誘いや冗談に対して乗っていけずに、すぐに逃げ出してしまう。
他の人が相手なら、いくらでも変態行為を要求できるのに。
心量回復のために下着を盗んだ時もそうだ。レイフの下着を盗むのは躊躇われた。
ここまでくれば、もういいかげんクラマも自覚せざるを得ない。
……自分にとって、レイフが特別な存在なのだと。
口を閉ざして俯いてしまったクラマ。
レイフはそんなクラマに対して確認をした。
「う~ん……その、どうしても言えないこと……っていうのが、私を引き留める理由?」
「うん……」
「理由は言えないし、私が抜ける方がいいのは分かるけど、抜けないで欲しいって?」
「……………うん」
消え入りそうなクラマの声。
細かく確認されればされるほど、自分がバカなことを言っているのが浮き彫りになって苦しくなる。
なるほどなるほど……とレイフは頷き、そして言った。
「クラマって頭いいしわりと何でもできるけど、肝心なところでダメよね」
「……それはけっこう自覚してる……」
クラマの喉奥から絞り出すような返答。
一方のレイフは、口をへの字に曲げて考え込んでいた。
「ん~……よく分かんないのよねぇ。パフィーに抜けて欲しくないとかいうなら分かるんだけど」
「ちょっと待って。そうだ。そう、それ」
クラマは掴んでいた手を離し、ビシッとレイフを指さした。
「うん? それって? どれ?」
思い出したように話に乗ってきたクラマ。
実際、クラマは忘れていた。
クラマもレイフに用があってここに来たのだ。
「僕はその誤解を解きに来たんだ。あのさ、レイフ。僕のことロリコンだと思ってるでしょ」
「え? そんなこと言われても……ねえ?」
状況証拠は揃っている。
クラマはその誤りを正すため、これまで固く閉ざされてきた真実の扉へ、ついにその手をかけた。
「パフィーを膝の上に乗せて僕がボッ……したと思ってるでしょ」
「え? なんて?」
「…………僕が勃起したと」
「よろしい、被告はしっかり事実を述べるよーに。で、違うの?」
確かに、そう思われても仕方のない状況だった。
しかし真相は違っていた。
「あの日はパフィーと一緒に神々の想像画を見ていたんだ。そしてあの時、パフィーがめくったのは美と官能の神のページ」
「あ~、あれね。そんなにいやらしい絵だったかしら?」
湯浴みをしている女性と、それを窓から覗いて赤面する女性の絵だ。
それだけ? と問うレイフに対し……クラマは身を切るような思いで答えた。
「……その時ね、思ったんだ。レイフが信奉する神だなって。……で……レイフはどうやって“奉納”してるんだろう……って想像して……」
「…………あ~……」
その時は丁度、心量を回復する神々への“奉納”についてパフィーから説明を受けたばかりだった。
そこから思わず想像してしまうのは避けられない。
クラマはレイフから自分の顔を隠すように、目元に手を置いていた。
服の内側にびっしり汗をかいているのが分かる。
……だから言いたくなかったのだ。
あなたのことを考えて勃起しましたよ、などと本人に向かって軽々しく言えるはずがない。
これにはレイフもさすがに少し気まずそうだ。
「ん~……でもちょっと待って。それじゃあ、どうしてあの時……初めて会った時に、私のおっぱいプレスサンドで心量が下がったの? まさかほんとに窒息?」
「おっぱいプレスサンドっていうんだあれ……いや、あれはレイフがお姉さんとか言うから」
「ああ……」
先ほどクラマが語った地球での経歴。
その中で、姉に言われた言葉がトラウマになっているという話が出ていた。
「最近はいくらかマシになってきたけどね。正直、できれば思い出したくない」
「そう……それじゃあ、ラーウェイブなんて行ったら地獄ね」
「そうなの?」
「だって、イエニアの姉が十何人もいるのよ?」
「それは絶対行きたくないね」
などと軽く脱線しつつ、後は残った細かい嫌疑を消化する。
「パフィーを見て心量が上がるのは?」
「かわいいからです。以上!」
「開き直ってきたわね。それは納得できるけど」
口頭弁論を終えたレイフは大きく息を吐いた。
「なるほどね。誤解だったのは分かったけど……そしたら今度は、イエニアが大変ね」
「ちょっと待った。そこも誤解があるんじゃないか。僕が好きなのは――」
と、言おうとした口が止まる。
レイフの人差し指が、クラマの唇に当てられていた。
驚いて目を見張るクラマ。
レイフは顔を近づけて囁いた。
「分かったわ、パーティーを抜けるのはやめる。その代わりに……今の言葉の続きは、ダンジョン攻略が終わってから聞くわ」
そう言って、レイフはいたずらっぽく微笑んだ。
「う……!」
クラマは言葉に詰まった。
ここでそう言われては、何も言うことができない。
これは言葉の人質。
完全に言質を取られた形だ。
クラマが告白の続きをしたければ、パーティーが全滅しないように今まで以上に頑張れということ。
……クラマのやる事は変わらない。
ただ、告白して自己犠牲に走るような格好つけが封じられた。
やられた、とクラマは思った。
客観的に見ればクラマは目的を達成したので、交渉は成功だ。
しかし……
「ふふっ、しっかり私を守ってね。王子様?」
ランタンの微かな灯りに照らされた笑顔。
童女のようにきらきらと煌めいて、遊女のように妖しく揺れる。
その笑顔に、目を奪われる。
「……わかった、僕にまかせて」
のしかかる圧倒的な敗北感。
クラマはどこかで聞いた言葉を思い出した。
“恋愛は惚れた方が負け”
確かにその通りだ。
そして同時に思った。
なんて役に立たない言葉なのだろう……と。
それからしばらくは、そのまま屋上で色々なことを話し合った。
入院中の出来事。
次の探索について。
行政への不信感が広がる街の様子。
レイフが探索中に落ち着いて行動できるように、セサイルや納骨亭マスターに相談しようという提案などなど……
「あいつら私の名前がレイフだからって、レイプするなんて……ねえ?」
「いや、そういうのはちょっと」
「クラマはレイフをレイプしたくない?」
「そういうのはちょっとね?」
……やがて話すこともなくなり、ふたりはどちらともなく立ち上がる。
階段へと向かうレイフ。
その背にクラマは声をかけた。
「……レイフ。僕は隠し事したままで……本当にいいのかな?」
それは後ろめたさから、思わず口をついて出た言葉だった。
その疑問の答えは既に出ている。
イエニアが隠し事をしていても、それとは関係なしにクラマは信用している。
これはクラマの心の弱さから出た、泣き言に等しい言葉。
レイフは人差し指を自身の頬に当て、首をかしげて告げる。
「実はね、私もクラマにまだ嘘をついてるの」
ここにきて思いもよらない言葉が飛び出してきて、クラマは面食らう。
レイフは可愛らしい照れ笑いを浮かべて言った。
「クラマが教えてくれたら、私も教えてあげる」
返事に窮するクラマを置いて、レイフは階段を降りた。
残されたクラマは難しい顔をしている。
ここにきて新たな謎を残してきた。
果たしてレイフのついた嘘とは――?
……しかし、それはそれとして。
「手玉に取られているなあ」
さすがと言うべきか。
レイフは“男をその気にさせる”ことに長けている。
クラマは今さらながらに、レイフがパーティーメンバーに選ばれた理由を痛感していた。
要するに「がんばれ」の言い方がとても豊富なのだ、彼女は。
いいように操られている感はあったが、クラマはそれが嫌ではなかった。
むしろ心地良かった。
クラマは空を見上げる。
空の中心。
そこでは微かな光を伴った太陽が、夜の終わりを告げるように姿を現していた。




