49話
次郎と三郎は通路の先にある窓からロープを下ろして、建物の外に脱出した。
「よォ~し! 警備員まだ来てない! 早く降りろ降りろ!」
「ヒィ~……腕が……足も……ガクガクする……おれもうだめ……」
「ちゃんとござるって言え! キャラ守れ!」
バタバタと夜の闇へと消えていく次郎と三郎。
人がいなくなって静かになった建物の裏手。
2人が降りてきた窓の下へと、小さな影が歩いていった。
「オクシオ・オノウェ……ササシウィ・イーバイーボ・オノウェ・ウーヴォウ・チナエ・ニシイーツ……走って逃げたねずみたち。あしあと消すのは忘れたけれど、朝になったら霜の下。さあ、5つめの扉を開きましょう。――オクシオ・センプル」
> パフィー心量:441 → 407/500(-34)
オノウェ隠蔽を行ったのはパフィーだった。
そこへ、ローブをフードのようにして顔を隠したイクスが歩いてきた。
「……クラマは?」
「ううん、まだ出てこないみたい……」
パフィーは不安げな顔で建物を見上げた。
それを見てイクスが言う。
「わたしが行こうか?」
次郎と三郎が下りたロープを伝えば、魔法具がなくてもイクスなら上がっていける。
しかしパフィーは首を横に振った。
「だめよ。わたしたちは中に入ったらいけないって。オノウェ隠蔽も確実なものじゃないから……」
それに対してイクスは怪訝な顔をする。
「なんで気付かれないように隠れて支援するの?」
「わたしも納得いかないわ! これじゃあ、クラマ達は仲間じゃなくて、使い捨ての駒にしてるみたい! ――どうなの、イエニア!?」
パフィーは振り返って言う。背後のイエニアへと。
イエニアの来た方向の植木の中には、ぐるぐるに縛られた警備員たちが転がされている。
また、建物の正面側からは「金持ちを許すなー!」などと声高に叫ぶサクラの声が聞こえる。
サクラに関しては、隠れて支援するという趣旨を理解しているのか不明であった。
パフィーの眼差しを受けてイエニアが答える。
「はじめにパーティーを組んだ時に伝えた方針そのままです。あなたも納得したはず」
「でも! それじゃあクラマが……」
パフィーは俯き、ぎゅっと自分のスカートを握る。
「クラマなら大丈夫です。きっと」
そう言って、彼女はそびえ立つ壁を見上げた。
クラマは目の前に現れた謎の女とベギゥフの戦いに目を見張っていた。
見覚えのない女だったが、彼女はどうやらクラマを助けるつもりらしく、ベギゥフと戦いを繰り広げていた。
「ふッ! はあっ!」
女の戦いは拳闘スタイルだった。
左の鋭いジャブ、フックでダメージを与えながら間合いを測る。
ベギゥフは伸ばしてきた手を掴もうとするも、女の拳は想像以上に重く、速い。
「ちっ、結構痛えもんだな打撃ってのは」
組み技を専門とするベギゥフは、そこまで打撃を受けた経験は多くない。
その多くない経験の中では、目の前の女の拳は過去の誰よりも鋭かった。
ただし、威力はそこまででもない。
あくまで女にしては重くて強いという事。
ならばダメージを覚悟で一気に詰めれば、と思うところだが……ほとんど使っていない右拳が不穏だった。
ベギゥフは何度も打たれた顔面の痛みが疼く。
ほとんど手打ちの左ですら、芯まで届くこの威力。
もし腰を入れた右をまともに受ければどうなるか――
ベギゥフの口の端が釣り上がる。
……試してみたい。
自分は避けられるのか。あるいは受けきれるのか。
冒険者となってからは久しく感じていなかった、近い土台にいる強敵との闘争。
ベギゥフの全身が震えた。
それは、筋肉の歓喜であった。
鍛えた肉体と技を存分に使える悦びが、ベギゥフの脳を支配する。
その興奮が脳内物質の分泌を促し、肉体に刻まれた痛みを彼方へと追いやっていく――
戦況は、一見すると一方的に殴っている女の優勢。
しかしクラマの目には、互角の攻防に見えた。
ベギゥフは組み技特化。その性質上、たった一度掴んでしまえば、その瞬間に勝負が決まる。
むしろ攻めあぐねているのは女の方だった。
大きく踏み込んで拳を放てば、腕を掴まれるか、懐に入られてしまう。
自然、その打撃は牽制に留まり、「倒しきる一撃」が出せないのだ。
これが通路でなくもっと広い場所だったなら。
時間を長くかけても構わない状況だったなら。
そう、時間をかければ向こうは応援が来る可能性がある。これは心理面で大きなファクターだった。
……自分が動くしかない。
クラマはそう判断した。
だが、あの2人の戦いには割って入れない。
下手に近付けばベギゥフに掴まり、人質になって終わりだ。
鞭での支援も、あれだけ動きが激しいと女に当たる可能性がある。
クラマは思考を回転させる。
今の自分に出来る最善の事。それは――
「オクシオ・シド! サウォ・ヒシハ・セエス・レエダエ・タナハ・セエスナ……!」
魔法の詠唱。
勿論その声は2人に届く。
大きく反応したのは、ベギゥフの方だった。
魔法の標的となるのは自分なのだから、警戒するのは当然だ。
その足が止まり、クラマの方に目が行く。
「フレイニュード・アートニー!」
> クラマ 心量:42 → 12(-30)
魔法を発動させる発動句。
クラマがそれを唱えた瞬間、女が踏み込んだ。
訪れた好機。
これを逃がす手はない。
全力で踏み込み。
速度と体重を乗せて、温存した右拳を繰り出す!
ベギゥフは女の踏み込みを見て、咄嗟に顎と頭部をガード。
だが、狙いはそこではなかった。
――貫く衝撃。
女の拳が、がら空きの腹部に突き刺さる!
鈍器で打たれたかと錯覚した。
それほどの衝撃が、ベギゥフの腹から背中までを突き抜ける。
その目は眼球が飛び出すかというほどに見開かれ、全身が硬直する。
「………」
その目が、動いた。
瞳孔が女に向けられる。
ひきつるように、わずかに歪む口の端。
ベギゥフは倒れなかった。
鍛え上げられた腹筋、それだけではない。
クラマの詠唱によって生じた隙そのものが誘いだった。
詠唱は止められない、魔法の効果も分からない。
それを悟ったベギゥフは魔法への対応をすっぱりと諦め、女に攻めさせるよう、あえて隙を見せたのだ。
その駆け引きに、彼は勝った。
女の腕が掴まれている。ベギゥフの手で。
女は咄嗟に下がった。掴まれた手から逃れるために。
同時にベギゥフも前に出る。
もはや駆け引きは要らない。体重で押し倒すだけ。
上から女に覆い被さるベギゥフ。
女は背中から地面に倒され――
その最中、女の足がベギゥフの股の付け根に当てられた。
女は逃げるのではなくベギゥフを掴んで引き込みながら、股の付け根にあてた足を思いきり押し上げた!
――巴投げ。
ベギゥフの巨体が宙を舞い、廊下の反対側へ転がり落ちた。
「ぐぅっ! くそっ、投げもあるのか!」
受け身をとったベギゥフが立ち上がろうとする。
そこへ――
「こっちだ!」
上空からクラマの声。
見れば天井に空いた穴からクラマが、銀の鞭を女の方へと伸ばしている。
女は跳び上がり、その鞭を掴んだ。
クラマは思いきり鞭を引き上げる!
「くそっ、逃がすかっ!」
地面を蹴って駆けるベギゥフ。
その手が女の足に伸び……宙を掴んだ。
間一髪、ベギゥフに捕まる寸前で、女は空中に身を逃れた。
引き寄せた女を、しっかりと抱きとめたクラマ。
そうしてクラマと女は危機を脱した。
届かぬところに引き上げられた獲物を、ベギゥフは見送り……力なく座り込んだ。
「……っかぁ~~! やられたかぁ~~!!」
天を仰いで、両手で顔を覆う。
駆け引きには勝ったが、あと一歩で掴みきれなかった。
悔しい。が、妙に清々しくもあった。
次にやればどうなるか分からない。久々に堪能した、きりきりとした緊迫した戦い。心地よい疲労感がベギゥフの体を満たしていた。
最後の投げも手を離すつもりはなかったが、直前のボディブローが効いていたようで力が入らなかった。
走るのが遅れて逃したのも、そのせいだ。
――そこで気がついた。
「そうだ……逃がしちまったんだ……!」
自身が警護の任務に失敗したことに。
ベギゥフは苦しげに頭を抱えた。
「ぐぅぅぅぅ……またおれの悪い癖が……!」
あまりに戦いが楽しくて、仕事であることを忘れてしまった。
時間をかけられて嫌なのは相手なのだから、決着を急がず時間を稼ぐことに徹すれば……と激しく悔やんだ。
しかし、楽しかったのだ。
いやしかし、楽しさに我を忘れてはならない。
「くそぉぉぉっ! 反省だっ!!」
元組み技格闘チャンピオン、ベギゥフ。
根っからの格闘好きであり、そして真面目な男であった。
――天井から忽然と女が現れたのだから、天井に抜け穴があるはず。
そこから間取り図を見た時の記憶を辿ると、このあたりに天井点検口の表記があったのをクラマは思い出した。
それを踏まえて見上げると天井に扉を見つけることができた。
そこでクラマは魔法で跳躍力を高めて跳んだのだった。
そうして屋根裏から屋根の上に、屋根の上から外へと降りた2人。
「ありがとう、助かったよ」
クラマがそう言うと、正体不明の女は背を向けたまま答える。
「あなたを助けたわけじゃないわ。目的が同じだから、手伝っただけよ」
そう言う女の姿、声。
やはりクラマの記憶にある人物とは一致しない。
「そっか。ああ、そうだ。自己紹介もしてなかったね。僕はクラマ。きみはどう呼べばいいかな?」
「名乗るほどの者じゃ……いや」
女は少し思案して、若干躊躇いがちに告げた。
「……エイト。それが、私の名前」
「エイトか。うん、ありがとう。エイト」
クラマがにっこりと笑うと、エイトはマスク越しにも分かるほどの苦渋の表情をする。
そしてエイトは我慢できないとばかりに、クラマに詰め寄った。
「……あのね! こういうのはやめなさい、本当に!」
言って、クラマが被っているパンツと、首にかけた水着を剥ぎ取った。
一緒に元から被っていた覆面も脱げる。
「あ、忘れてた。いやあ、自分と一体になるほどフィットしてたんだなあ」
「そっ……っ……!」
何かを言おうとして必死に堪えるエイト。
どうやら、だいぶ感情的になりやすい人物のようだった。
彼女はふーっと大きく息を吐いて落ち着くと、改めてクラマに背を向けた。
「とにかく、その借用書を早く届けてあげなさい。じゃあね」
「あーっと待った!」
颯爽と立ち去ろうと地を蹴ったエイトの足首をクラマは掴んだ。
「うわっ! わっ、わっ……! そ、そういう危ないことはやめなさい!」
「ごめん。ごめんついでに、ひとつだけお願いしたいことがあって」
「え……?」
エイトが振り向くと、にこにこしたクラマの笑顔があった。




