18話
人も草木も寝静まる、日本であれば丑三つ時と言われる頃。
しんと静まり返った住宅街の一角を、ひとりのメイドが歩いていた。
もうじき待ち合わせの場所に着こうという時だった。彼女はふと物音がした気がして、振り返った。
背後には――何もいない。
だが、ぐるりと視線を回して……それに気付いた。
背の低い小屋の上に“それ”はあった。
黒々とした夜空に浮き上がる、顔。
屋根の上から彼女を見つめている顔は、不細工な泥人形のようにでこぼこで、奇怪であった。
まるで殴られた腫れが引いていないような顔……。
そう、クラマである。
「みぃつけた」
ニタァ、とクラマが笑ったと同時にメイドは逃げた。
クラマは小屋から飛び降りてメイドを追う!
「今日は逃がすか! エグゼ・ディケ――古木の枝よ、腐朽と振動によって折れろ!」
> クラマ 運量:1454 → 1416/10000(-38)
クラマの願いに従い、メイドの前方にあった木の枝が折れる。
するとそれに連動して、大きな網が広がった。
「……!」
メイドは避ける間もなく、網に絡め取られた。
無論、この網はクラマが木に仕掛けていた罠である。
前回の失敗とダンジョンでの調査結果を踏まえて、少ない運量で捕まえるために考えたのが、この方法だった。
「クックックッ……これで煮るなり焼くなり剥くなり好きに……お?」
網に近づいたクラマは、網の目を破って伸びてきた手に掴まれて、地面に引き倒された。
「ぐえっぶ!」
そしてそのまま間接を抑えて捻り上げられる!
「ぎぃええええええええ痛い痛い痛いやめてえええええええ」
「なぜ追ってきたのですか?」
クラマの背後から、冷たい、凛とした声。
メイドはクラマ背中にのしかかったまま、問いかけてきた。
「いや、なぜ、って……うぅん……」
「こうして返り討ちに遭う可能性に思い至らなかったのですか? 相手がその気なら、このように……」
クラマは首元にひやりとした感触を覚えた。
メイドが取り出した刃物が、クラマの首筋に当てられている。
「終わりです。運量を使う暇もありません。
もう一度聞きます。なぜ追ってきたのですか? まさか根拠もなく自分は大丈夫だとでも思っているのですか?」
向こうがどれだけ本気なのかは分からない。
おかしなことを言えば、今すぐに首をかき切られて絶命することは有り得た。
夜風の冷たさと、背後からする声の冷たさと、首元に触れる冷たさを感じながら、クラマは口を開いて言った。
「いやあ、綺麗なメイドさんが歩いてたから、連絡先を聞いておかなきゃいけないと思ってね」
果たして呆れているのか、怒っているのか。
抑え込まれているクラマには窺い知ることはできなかったが……
「あなたは……」
彼女が何を言おうとしたのか、最後まで聞くことができなかった。
「どうかしましたか!?」
という、イエニアの声に遮られたためである。
現れたイエニアは手にした照明で2人を照らす。
「ティア、いったい何が……え、クラマ……?」
2人の顔を見比べて戸惑っている。
いつになく平静を欠いたイエニアに、クラマは尋ねる。
「えー、ふたりはお知り合い?」
「え、いえ……まあ………」
しどろもどろになっているイエニアに、メイドが告げる。
「先にこの網を解いて頂けないでしょうか」
そう言ってメイドは、クラマにあてた刃物を仕舞う。
イエニアが慌ててメイドに絡まっている網を解いて、それと一緒にクラマも開放された。
照明の灯りを受けて、クラマは改めてメイドの姿を眺めた。
紺色のシックなメイド服で、セミロングの髪はほぼ黒に近い青。
紫色の瞳は起伏を抑えていて、感情が外から読み取りにくかった。
肩にかかった白いケープのために分かりにくいが、かなり着痩せして見えていることを、クラマの眼識は看破していた。
分かりやすく言い換えるならば、おっぱいが大きかった。
「わたくし、イエニア様の従者を勤めさせて頂いております、ティアと申します。どうぞお見知り置きください」
「あ、はい、これはどうもご丁寧に」
つい先刻まで間接を極めてのしかかっていた事など、まるで無かった事のように挨拶してきたメイドに、クラマも思わず頭を下げて応じた。
イエニアがティアに関してクラマに説明する。
「彼女には街で情報を集めてもらっていました。私がこの街の事情に詳しいのは、彼女のおかげです」
「そうだったのか。でも、なんで今まで出てこなかったの?」
クラマの疑問にティアが回答する。
「一緒にいては有事の際に、サポートが不可能になる事が考えられますので、リスクを抑えるためです。あらかじめ申し伝えていなかった事でご気分を害してしまったようでしたら、申し訳ございません」
「いやいや、そんな気にしてないから大丈夫。いやー、なるほどね」
「畏れ入ります」
「それじゃあやっぱり、僕が出てきたのは迷惑だったかな」
「いえ、元から明日にはご挨拶する予定でした」
「あ、そうなの?」
ティアの言葉にクラマだけでなく、イエニアも意外そうに見る。
「ええ、当初の予定とはだいぶ事情が変わりましたので。隠れているよりも、表に出て全面的にサポートするべきとの判断です」
多分その予定を崩したのは自分なんだろうなあ、とクラマは思い当たったので、なんとも言えなかった。
「それから、地下1階への穴を利用することについては、わたくしも賛成です。ただ、決定するのは皆様ですので、よくお考えください」
ティアはそれだけ言うと、クラマが何かを言うよりも先に、失礼しますと一礼して夜の闇へ消えた。
残されたクラマとイエニアの2人。
妙に気まずい空気の流れる中で、クラマが先に口を開く。
「いやあ、王女様の付き人ともなると、しっかりしてるんだねえ」
「あれでも私と同い年ですよ」
「えっ、そうなの?」
衝撃の事実だった。
それはすなわち、クラマとも同い年ということだった。
「この世界の人たちは、若いのに大人だなあ」
「あなたが若く見えるだけですよ」
「いやいやいや、これでもダンディズムを目指してますから。ヒゲとか似合いそうじゃない?」
「どの口が言いますか。まずはその軽口を減らして言ってください」
冗談を言いながら、和やかに笑う2人。
談笑が収まったところで、改めてクラマは口を開く。
「イエニアさ」
「はい」
「また負担かけるような事してごめん」
イエニアは返答に詰まって、思案する。
その間にクラマは続けた。
「さっきのティアとも、あのことを話し合う予定だったんでしょ?」
「ええ、そうですね。彼女は言うだけ言って帰ってしまいましたが。でもクラマ、気にしなくていいんですよ。気付いたことを言わない方が、むしろ後々の負担になりますからね」
「そうだね……うん」
そうしてクラマとイエニアも貸家に戻って、部屋の前でお休みを言って別れた。
睡眠薬を飲んだクラマは眠りに落ちる前にベッドで横たわりながら、「どうしてティアはイエニアと落ち合う前から会議の内容を知っていたんだろう」といったことを考えていた。