第4話
私の願いを全く無視して、女性は笑顔で消えてしまった。
世の中の森羅万象を知り尽くしたつもりはないが
先程から立て続けに起きている多数の現象は
私の知っている物理法則や物事の可否についての常識を
完全に覆していた。
そうして全てが終わった時、残っているものといえば
爆発によって付けられた舗道への爪痕とカップ麺の空容器くらいで
女性が消えてしまった今となっては、とてもじゃないが
先程からの出来事が現実であったとは、急に信じられなくなった。
きっと今までの光景は今朝の夢で
街の景観は、何があったか私が来る前からこうなっていて
何処かの非常識な輩がカップ麺の空容器をポイ捨てしたのだと
割と本気で思ってしまうほどだ。
むしろ夢であってくれ、と思い始めた頃には
何か夢か現か確かめる手段はないかと考えていて
そういえば昨日の夜から、昼ごはん用のカップ麺をカバンに入れたなと
思い出し、カップ麺の存在を確かめるべく
カバンを確認してみると中身が空っぽで、2つの意味で血の気が引いたもんだった。
ともかく、夢であったかどうかなど今更どっちでもよく
問題があるとするならば
それは偏に今日の昼ごはんをどうするかの問題だけであり
食堂の、カップ麺以下の味であるラーメンにするか
学校をこっそり抜け出し近くのラーメン屋に駆け込もうか
ロッカーの中に入れておいた非常食用カップ麺の出番か
それはもうひたすらに悩みながら歩き始めた矢先
今度は少し中年の女性の叫び声が聞こえた。
中年女性の叫び声と言えば、大まかに2種類あって
大したことでもないのに自分に注目を集めたいがために発せられる
耳障りで不快感極まりない「いやなおとタイプ」と
本気で危機が迫っている時に発せられる断末魔の様な
耳障りで不快感極まりない「いやなおとタイプ」があるが
今回のは断末魔の様な、いやなおとタイプだった。
などという冗談を考えている場合ではない。
この声は聞いた事がある、というか聞き慣れた人物の声だ。
その人物の叫び声など聞いたことはないが
それだけに危機感が伝わり、日頃世話になっているというのも合わさり
気がつけば私は走り出していた。
やはり声の主はパン屋のおばちゃんで
いつもパンを買う時におまけをしてくれると有名だが
そんなことよりも、その悲鳴の原因であろうと思われるモノに
思わず呼吸が止まりそうになる。
おばちゃんは腰が抜けてしまったのか立てない様子で
必死に手を使いながら後ずさりを試みているが
おばちゃんを見下ろすその生物に対して
その行為が有効とはとても思えない。
外見こそ大きなコウモリの様に見えるが
大きく開いた口からは、まるでワニの様に凶悪な牙が
上顎下顎無数に無造作に生えており、はっきり言って肉食にしか見えない。
なにやら言葉を喋っている様だと観察していると
おばちゃんと目が合った。
「ーーーっ!!」
瞬時に、目を逸らしてしまった。
しまったと思った。私がするべきことはそんなことじゃなく
何よりおばちゃんを救うことで、ならばあの怪物に
「おい、もっと美味そうな肉があるぞ!」とでも言って気を引き
腰の抜けていない私が囮となって走るべきなんじゃないのか。
自責の念と恐怖心が、自分の中で一気に膨れ上がったが
最終的に理性がそれを制す事に成功し、再びおばちゃんの方に目をやると
おばちゃんの上半身は消え失せていた。
同時に、耳に嫌な音が入ってくる様になった。
先日、亀を甲羅ごとワニが捕食する恐怖の映像を見たが
限りなくそれに近い、何かが折れ、割れ、擦り潰されていく音。
その不快な音は、怪物の顎の動きと同期している様だった。
どうやら私は無意識のうちに叫んでいて、それが災いし
怪物がこちらを向いて、人間の体液が滴る口元をニヤリと歪ませた。
ハッとした頃にはもう全てが遅く
恐怖心で動けなくなった美味そうな肉に
何の躊躇もなく飛びかかってくる怪物に対し、私は
確かに腕力には自信があった。
学校での体力テストは全校生徒含めてぶっちぎりの一位で
変な男に絡まれた時も、いつだって泣いて逃げていったのは相手であり
その辺の人間相手ならば、そうそう負けることはないだろうと思ってはいたが
こんな現実離れした怪物となれば話は別だ。
恐怖心と重圧感で動けなくなり、人間を骨ごと捕食する程強靭な顎と牙に対し
成す術なく捕食されていく、具体的なイメージすら出来上がっていた。
ところがそのイメージは、随分現実とは乖離のあるものだった。
事実私は生きていて、一方怪物はさながら予備時計の様に
無残な姿で舗道に転がり、絶命している様だった。
ふと片手に重さを感じ、視線を下げると
いつの間にか、見慣れた扇子を親指と人差し指でしっかり握りしめ
もう片方の手からは、モノを殴った時に感じる独特の痛みが走り
服には血液と思われる液体が、複数箇所にわたり付着していた事から
あの怪物を絶命させたのは自分なのだと、実感がないまま理解した。
一体どの様な手順で事に及んだのかを思い出そうとすると
「テンアゲ〜!」
と、先ほどの怪物と同じ様な声が複数聞こえてきて
何をしたのかは覚えていないが、ともかく複数で来られたら
今度こそ食われると直感的に察知し
一先ず逃げることに専念することにした。
混乱した頭を、両頬をパシッと叩き上げることで落ち着かせ
街にある図書館が、災害時の避難場所になっている事を思い出し
最悪そこに立てこもることになっても、非常食があるだろうと
冷静な答えが出たので、一目散に図書館へ走り出した。