貴重な時間
衣笠さんと出会ってから1ヶ月ほど過ぎた。あれから今日まで彼女とは一度も会っていない。僕は雇用や社内での風当たりが心配で、夜も眠れない日々が続いている。
連絡先を交換しているとはいえたった一度会っただけの人なのだから、そこまで心配する必要もないのかもしれないし、彼女自身、僕のことなどとうに忘れて仕事に追われる日々を送っている可能性は大いにある。それはそれで良いが、なにしろ彼女、純粋過ぎて都会や社会に騙されてしまいそうで心配だ。
街路樹の新緑と海のきらめき、そよぐ潮風が心地よい昼過ぎ。僕は港のオープンカフェで1200円のハンブルグステーキとライスのランチセットをいただくことにした。
表面はサクサク、中はミディアムレアの絶妙な焼き加減がとても気に入っていて、週に一度は通っている。ストローでジンジャーエールを吸い上げながら頭上を飛び交うカモメを警戒するが、持ち去られたらファストフード店で百円のハンバーガーを買おう。
「本牧さん!」
ハンブルグステーキにナイフを入れようと下を向いたとき、左斜め上から不意に声をかけられた。久しぶりに聞く声だが、忘れるはずがない。
「衣笠さん。お久しぶりです」
と、僕は右手を伸ばして対面の席に衣笠さんを促し、彼女は「失礼します」とそっと掛けた。屋根のあるカウンター席じゃなくて良かった。
「お怪我、完治されたようで良かったです。いま休憩中ですか?」
「はい。おかげさまで。お仕事はまだ事務とかお客さまへのお茶出しをしながら遠目で観察している状況ですが、人に恵まれているので気に入っています。本牧さんも休憩中ですか?」
「いえ、徹夜勤務明けで、お客さまにご案内できるよう周辺の観光スポットとかお店を巡っているのですが、疲れてしまったのでランチに来ました」
「そうなんですか。疲れてるのにすごいですね! 良かったら今度、おすすめスポットを案内してください!」
「はい、是非ご一緒しましょう」
と、返したところでウェイターが衣笠さんの注文を取りに来て、他愛ない会話をしているうちにアボカドとサーモンのサンドイッチとカシスジュースが運ばれてきた。衣笠さんは人見知りなのか、頬を紅潮させながらモジモジしていて、とても緊張している様子だった。
僕も同じだが、衣笠さんもウェイターとのやり取りの度に頭を下げ、笑顔で接していた。僕の周囲には、店員に横柄な態度で接する者も多いから、彼女の注文の様子を見ているだけでも心がホッと和らいだ。
もっと知りたい。彼女のこと。きっと僕が気付かなかったこと、知らなかったことをたくさん知っていて、だけど世の汚れを知らないから、おかしな方向へ逸脱しないように見守っていたいなんて思ったりもする。
理想像を浮かべたところで、彼女が本当はどんな人物なのかなんてまだ理解してはいない。もしかしたら全てが計算し尽くされた行動という可能性もあるのだ。女性というのは特にそういった傾向が強いから、ハニートラップに掛からないよう冷静に見る必要性も感じている。
「そ、それではまた、お会いできたら嬉しいですっ。失礼しますっ」
ゆっくりトークをしたいところだが、残念ながら衣笠さんは休憩時間が終わってしまうため店を出た。立ち上がって職場へ戻る背中はかなりオドオドしていたものの、芯は凛としていて間違いなく夢へ向かって突き進んでいた。
衣笠さんが出た13時前から店は段々と空き始め、後から来る客を気にする必要がなくなった僕はひとり潮風に当たりながら砂糖とミルクを混ぜたホットコーヒーで一服。
せっかく知り合えたのだから、衣笠さんと仲良くしてゆけたらいいなと、勝手な願望を抱きつつ穏やかな海を見下ろしていると、思わず「ふぅ」と息が漏れた。日々ガサツな人やカリカリした人が多い職場で仕事に追われる中、こうした時間は貴重だ。
だがこの人生、あまりゆっくりしているわけにもいかない。予知によると余命は7年と少し、そうでないとしても人間いつ死ぬかなんてわからないのは職業柄よく知っている。衣笠さんのようにすぐに夢の舞台の花道に立てるわけではないが、着々と理想の鉄道空間を創り上げてゆかねば。
とはいえどうしてだろう。夢だけでは、何かが足りないのだ。それが胸や脳に引っかかって、思うように歩を進められない自分がいる。これを解明してこそ、夢をカタチに換えられる。そんな気がするのだ。
お読みいただき誠にありがとうございます!
この作品がどのような方々に読まれているのか気になる普段は変態ギャグやコメディーを中心に執筆している作者です。
お気に入りユーザーさまは殆どが上記のような作品や異世界ファンタジーがお好みのようですので、この作品は普段私と交流のない方が読んでくださっているのかな~と勝手に想像しております(^^;