クマを脅迫する女
クマが気になり二度寝できなかった僕は、草刈りが終わった7時まで2階から衣笠家の面々とクマの観察を続けた。庭へ出る度胸はない。
7時。すっかり陽が昇り、都会とは比べものにならないボリュームでセミが合唱している。僕は寝室で居間へ出るタイミングを窺っていると、衣笠さんが「おはようございます。もうすぐ朝ごはんができますよ」と迎えに来てくれたので、クマについて訊ねてみた。
「あのクマさんは幼馴染みだからだいじょうぶです。でもたまにおよそから来たクマさんが混じっていたりするので、それは危ないから気を付けなきゃいけません」
クマと幼馴染みという斜め上をゆくスペックの持ち主、衣笠未来。やはり彼女、只者ではない。
朝シャワーを浴びてジャージを替えた衣笠さんは薄手の白いタオルを首に掛け、上半身を起こした僕を見下ろしドヤ顔で語る。タオルの下部には紺色で何かの業者名とそこの電話番号がプリントされている。
「なるほど。でも野生のクマを餌付けすると頻繁に人里へ下りてきて、互いに悲劇を生むのでは?」
「そう、それなんです。そこで私、考えました。この家の後ろは山になっていて、そこもまるごと衣笠家の土地です」
出た、田舎の人は山を持っているという伝説。実話だったのか。
「クマさんは私が小学校低学年になったころからよく家のすぐそばに姿を見せるようになりましたが、うちの敷地を出ると通報され猟友会に射殺されてしまう。いえ、うちの庭や畑でも、もし誰か他所の人が見ていたら危険なわけですが……」
言葉に詰まったが数秒後、衣笠さんは話を再開した。衣笠家の隣家までは約2百メートル。その家の後ろに山はなく、開けているそうだ。
「でも、人間が土地開発を進めてしまったがために、クマさんは行動範囲を狭められてしまいました。それには我が家も加担していて、この一帯はじいちゃんが子どものころ、後ろの山と同じく森林だったそうです。それを切り拓き、田畑をつくって、後に越してきたご近所さんも同じようにしてきたと聞きました」
「それで、クマは餌不足になってしまったと」
「はい。人間の暮らしを豊かにするために、クマさんや、自然の生きものたちは犠牲になっているのです。たまにイノシシさんも出没しますが、あの子たちは聞き分けが無く文字通り猪突猛進で、猟友会の手によりやむを得ずボタン鍋になったり……」
衣笠さんの言う通りかもしれない。この一帯に限らず、経済活動のために行き場や命を失う動植物はたくさんいる。彼らの犠牲と引き換えに、僕ら人間は便利で豊かな生活環境下にいられるのだ。その営みが行き過ぎた結果、この区域にクマやイノシシが下りてきてしまったのだろうか。
「けれど幸い、初め私を獲物にしようとしたクマさんには次第に懐かれたので、食べものが欲しければ玄関まで、私もしくはじいちゃんばあちゃんを呼びに来て、いっしょに畑に出て、欲しいものをねだるようにしつけました。もし勝手に食べたりうちの敷地を出たら銃殺刑だよと、高価なウォーターガンを見せつけ脅しつつ」
ウォーターガン、つまり水鉄砲でクマを脅迫する女、衣笠未来。サバイバルゲームに参加したら優勝するかもしれない。獲物がまさかの立場逆転だ。
法律上、野生動物を行政に無許可で飼育してはならないが、これは自然と共生するための限りなく黒に近いグレーといったところだろう。仮に衣笠家のバックヤードに生息するクマに農作物を与えず放置した場合、彼らは行動範囲を拡げ、住民を襲ったり、他所の農作物を食らうなどの被害が想定される。
ただし、これはあくまでも特例。一般的には悲劇を生まないために、野生のクマを餌付けしてはならない。
「本牧さんもクマさんとお友だちになっちゃいますか?」
問う彼女の眼差しは無邪気なようで、どこか悪戯っぽい。
「いえ、ご遠慮させていただきます」
穏やかに、やんわりと、笑顔をつくり、お断りした。
「怖がらなくてもだいじょうぶですよ! 動物はやさしい人には懐きますから!」
彼女は僕を一刻も早くこの世から消し去りたいのだろうか。だいじょうぶ、焦らなくてもあと7年弱でいなくなりますよ。
それとも僕を本当にやさしい人間とでも思っているのだろうか。
「どうしました本牧さん? 神妙な面持ちですけど」
「いいえ、なんでも……」
「ふふふっ、さ、朝ごはんにしましょう!」
いじられているのかいないのか、いまいちわからないが、彼女のその純朴な笑顔に、僕はいちいち頬をほんのり温めてしまう。
きょうもなんだか、ほっこりと良い一日になりそうだ。
あけましておめでとうございます。
お読みいただき誠にありがとうございます!
本年も『未来がずっと、ありますように』をよろしくお願いいたします!
また、新年早々更新が遅くなりまして申し訳ございません。




