夏の夜のあぜみち 中編
「もうお家は近いんですけど、ちょっとだけ立ち止まって、上を向いてほしいんです」
「あっ……」
衣笠さんに促され見上げれば、思わず息を呑む満天の星空。真上の星が密集して帯状になっている領域は天の川だろう。
僕はなんて愚かなのだろう。生まれてこのかた除夜の鐘を2千回は聴いているが、若かりし頃の煩悩は未だ残っているようだ。
「きれいでしょう? ここは開けているから、360度の星空を見渡せるんです。なのに本牧さん、足元を警戒してばかりだから」
彼女は母性を孕む穏やかな笑みで、しかしどこかいたずらっぽく僕を見遣る。敢えて視線は合わさず、互いの逃げ道を用意して。
「すみません、慣れない場所と会社で培った危機意識で。しかし、本当にきれいな空だ。湘南の砂浜でも夜になるとなかなかの星空を見られるのですが、これには敵わない。本当に、空一面に星がびっしりと敷き詰められている」
「私も、鎌倉に引っ越してからこの星空の尊さに気付いたんです。市街地で星がよく見えないのは仙台も同じなので、そこを離れれば当たり前に見えるものだと思っていたのですが。あ、もちろん鎌倉だっていいところたくさんありますよ! 極楽寺の緑のトンネルになってる坂道とか、よくテレビに出てる海が目の前の鎌倉高校前駅とか! あれはあれで宮城にはない良さがあります!」
「ははっ、そんなにフォローしなくても、鎌倉の良さは僕もよくわかっているので大丈夫ですよ」
「ふふふーん、本牧さんのそのいかにも神奈川県民な感じ、嫌いじゃないですよ」
何かを達観したかのように、衣笠さんは胸を張る。神奈川県民、特に横浜や湘南の人は地元愛が強く、自らが住まう土地に謙遜しない人が多い。しかも他県民に素敵な場所へを連れて行って欲しいと頼まれれば、客観的に交通費をかけてでも来る価値のある場所へ案内できる。僕もまたその一人だ。
「ありがとうございます。あぁ、でもここは、本当にいい場所だ。来て良かった」
「ふふふ、そうでしょう?」
彼女と繋いだままの手に、思わず力がこもる。鉄道の現場第一線で常に身の危険と隣り合わせの僕に夜道の恐怖による吊り橋効果は表れなかったが、瞬く音が聞こえそうなほどの空に、心ときめかずにはいられなかった。
僕はいま、何に恋をしているのだろうか?
この満天の星空か、かすかに脈動の伝わる彼女の温かい手や、何度見ても輝いている上を見上げるときの輝く瞳や唇か。
遠回りの問いかけなど本当は不要で、僕はいま、そのすべてに恋焦がれている。
このまま星空を見上げていたい夢幻空間を遊泳漂っているような心地よさと、彼女を抱き寄せたい衝動がせめぎ合い、呼吸が苦しくなる。しかしそれはこれまでにない快感で、子どもっぽい表現だけれど、わくわくドキドキという言葉が相応しい感情だ。




