泡姫が手招く空へ
ラーメン屋は大船に移転してから少しの間、客足が遠退いた。原因は完成しきっていないチャーシューだ。しかしすぐに茅ヶ崎の店舗と同じクオリティーに戻り、復調した。
食洗機は久里浜さんがプレゼント。スペースの都合により大型の業務用ではなく、一度に四人分程度の食器を洗えるサイズで、高性能の製品にした。
これにて一件落着。僕は再び会社のつまらない仕事以外やることがなくなった。
20時、僕はいつも通り街灯のない薄暗い家路を辿っていた。
労務管理はしっかりしている日本総合鉄道。労働基準法の定めにより月あたりの残業が45時間を超えないよう、緊急事態が発生しない限り深夜帰宅はない。平均残業時間は社内全体で20時間、1日あたり90分が目安。僕も概ねそのくらい。
「よう兄ちゃん、きょうはラーメン食べてかないのか?」
突如僕の目の前に現れたのは、お馴染みの幽霊オヤジ。
「きょうは未来が休みで、家で夕飯を用意してくれているそうです。懸賞で当たった喜多方ラーメン」
「結局ラーメンかい」
「毎日でも飽きませんよ、ラーメン」
傍目には、暗がりの中で僕が独り言を発している格好。
「そうだな、俺はここんとこ毎日食べてるが、ビールがあると尚いい」
「ああ、いいですね、ビール。帰ったら飲もうかな」
「飲め飲め、人生いつ終わるかわかんねぇからな」
「そうですね」
酔っぱらって電車に轢かれた人が言うと物凄い説得力だ。
「なあアンチャンよお、アンチャンはとりあえず、テメェが幸せになることを考えろ。アンチャンはテメェのために他人に迷惑かけるようなこともしなければ、金儲けのためだけに生きたいわけでもないだろ。そういうヤツなら大丈夫だ、生きる意味は後から付いてくる。そう感じるように仕組まれてる。俺は死んでから、アンチャンがラーメン屋のために一所懸命動き回ってる姿を見てやっとそれに気付いた。たからいまになってやっと、迎えが来た」
「迎え、ですか」
「そうだ、空がきらきらして、光の柱ができてるだろ」
オヤジが見上げた空を僕も見上げたが、街明かりで少し燻んだいつもの星空だ。真上にオリオン座が見える。
「ええ、綺麗な空ですね」
僕は嘘をついた。
「マリリンモンローがよお、手招きしてるんだ。早く帰ってきてダーリンってな」
それは百パーセント嘘だな。仮に美人が手招きしているとしても、関内か伊勢佐木町のママあたりだろう。
「それはそれは。大層なことで」
「このヤロウ、信じてねえな?」
「関内か伊勢佐木町あたりのママじゃないかと」
「惜しいな、行き付けだった堀ノ内の泡姫だ」
堀ノ内は川崎にある国内最大級の風俗街。
「伊勢佐木町には行ってないんですか?」
僕が勤めていた駅の近く、つまりオヤジが轢かれた駅の近くに位置する伊勢佐木町にも風俗街がある。
「モテる男はあっちこっちにオンナがいるもんだ」
「なるほど」
「じゃあな、あばよ」
「ええ、またどこかで」
はにかんで僕に背を向けたオヤジは右手を首の高さまで上げ、左手に競馬新聞を持って消え失せた。
「そうか」
僕はラーメン屋のために動き回ってたつもりなんだけどな。
オリオン座を見上げた僕は、未来が待つ家に、気持ち歩調を緩めて帰った。




