新しい日常へ
14時、照明器具以外は残っていない殺風景な部屋に、僕はひとり戻った。これが、この部屋への最後の帰宅だ。
エアコンのない部屋は蒸し暑く、遠くで鳴くアブラゼミがそれを際立たせているが、それでもどこか涼しいのは、この建物が生気を失い、血が巡らなくなってきているからだろうか。
箪笥の後ろに隠れていた柱には、人名おぼしきものと横線が掘られていた。名は『し』しか読み取れないが、誰かの成長記録で、横線は身長を表しているのだろう。これを見たのは入居日以来だ。
あの頃の僕はまだ、会社に情熱を持っていた。
引っ越しは人生の転機だ。今回の転居は同棲も伴うが、これがどう化学反応を起こすだろうか。良くも悪くも、何もないということはないだろう。
アパートとの別れは涙腺が弛むほど名残惜しいが、心はもう前へ進んでいる。
心は前進しているが、行き先がわからない。人生はミステリートレイン。
僕は居間に座り込み、禅を組んだ。何もない空間でセミの声を聴くなんて機会は、そう滅多にない。
そこで、何かを得ようとは思わない。陽が翳ってきた最期を迎えた部屋で、ただただ無の時を過ごす。
どれほど経っただろうか。敢えて腕時計は見ず、汗ばんできたところで僕は立ち上がり、部屋を一つひとつ見て回り、靴を履いて、後ろ髪引かれる思いでそっと外に出て、最後に居間の奥を覗き込み、扉を閉めた。
僕は十秒ほど礼をして、アパートに別れを告げた。




