幸せを届けられる人になりたい
「僕と関わると心が汚れますよ」
本牧さんは冗談っぽく微笑み交じり言った。けれどその視線はあさっての方向を向いていて、放っておけば孤独の淵へ堕ちてしまいそうで、胸にどんよりしたものが残った。
本牧さんは心のどこかで私を遠ざけようとしている。それを確かに感じた。気に入られてないのかな。カラスさんのおかげでちょっと距離を縮められた気がしたけど、やっぱり忙しい中呼び出して、挙げ句少しからかわれたくらいで刃向かって生意気なことまで言っちゃった。それになんの取り柄もなければ見た目だってまだ子どもの私なんかと一緒にいて、楽しいはずなんか、ないよね……。
それでも、楽しみにしてたって言ってくれたのは嬉しかったな。
大人の世界には本音と建前が子供の世界よりずっと多く存在すると、小さい頃から周りの大人たちによく聞かされていた。でもそれを、ちょっと気になっている人の態度から教わるのは、ずんとして、胸が苦しいよ。それでも私も、本牧さんといっしょにいる間は、笑顔でいなきゃ。
思い悩んでいるうち、ガトーフレーズと、本牧さんが注文した冷たい抹茶とあんみつのセットが運ばれてきた。
本牧さんの所作は、以前海辺のカフェで一緒にランチタイムを過ごしたときのように、ちゃんと店員さんにいただきますを言ったり、一つひとつが丁寧だけど、当時より心なしか覇気が感じられない。それでも抹茶を一口飲んでからあんみつを一口含んだとき、ふ~ぅ、と漏れた息に、リラックスできたのかなと安心すると同時に、本当に疲れているときに呼んでしまって、罪悪感が増した。ご無理なさらずご帰宅くださいと言いたいところだけど、私からお呼びしておいてそれは失礼過ぎて、でもからだを想うと帰ったほうが良くてなんて、常日頃の様々な出来事にそういうジレンマが付き纏う。
「ふふ、甘いもの食べると、なんだか落ち着きますよね」
本当はもっと気の利いた言葉をかけたいのに、月並みで、しかもちょっと空気を読んでいないというか、疲れている人に対しての配慮がどこか欠けているような言い方しかできない自分に、右のこめかみが圧迫感を覚える。その気持ちを抑えたくて、緊張して上手に持てないフォークに手を微細動させ、ケーキを一口含んだ。うわぁ、高級品の味がする。
「すみません、自分だけ豪華なもの注文して。誘惑に負けました」
「いえいえ! ショートケ、あ、ガトーフレーズも美味しいですよ! クリームがさらっとしていて、スポンジは舌でほぐれるんです!」
でも、あんみつも美味しそう。抹茶のパウダリーな舌触りと苦味が黒蜜や小豆の甘味を引き立てて、想像するだけでよだれが出そう……。
「あの、あんみつ、一口でも二口でも食べますか? それとも新しいの頼んでご馳走しましょうか」
わっ! 表情読まれてた! え、え、えーと、それはその、間接キスというものでしょうかっ!? 確かにすんごく食べたいけど、いざそう言われてしまうと……!
わあああ! そっかぁ、そうだよね。もうオトナなんだから、思春期の子みたいにそんなこといちいち気にしないよね! こんなことでオドオドするなんて、私は遅れてるんだ、色々と! それとも本牧さんがプレイボーイだから気にしてないだけとか!? まぁどっちでもいいや!
◇◇◇
「は、はいっ、ありがとうございます! でっ、では一口……」
言って、ケースに入った予備のスプーンを手に取った未来は、悠生から差し出されたあんみつにそっと口に運ぶ。悠生の使っているスプーンをそのまま使うのは不潔に思われそうなので控えた。
しかし悠生は予備のスプーンを持った未来を見て、もしや無理矢理食べさせてしまったのでは。これまでの交友関係では男女問わず関節キスを気にする人はいなかったからいつもの癖で勧めてしまったが、こういう行為が苦手な人もいるという配慮が欠けていたと後悔しつつあった。
◇◇◇
「ふふふふふふふっ!」
「えっ!? どうしました!?」
あんみつを口に含んだ途端、未来から笑みがこぼれ始め、悠生は反射的にその理由を推理する。
何かおかしなことでもあったか。もしや思っていることが顔に出ていて、僕の心を読んで笑っているのか? だとしたら衣笠さんは僕より人生経験豊富で、油断していると手玉に取られかねない。壺の購入や宗教へ勧誘されたらテーブルをバン! と激しく叩き、お断りして逃げ出そう。威嚇しておけば、よほど僕に執着していない限り彼女は追ってこないだろう。
「ふふふごめんなさいっ。抹茶の苦味と密の甘味が予想以上にマッチしてて。私、想像を上回る美味しさを体感すると自然と笑みがこぼれちゃうんです」
あぁ、そうか、そうだったのか。安心したら肩の力が抜けてきた。
「あ、それわかります。僕もそうだし、きっと人間ってそうできてるんですよね」
とは言ったものの、思わず笑みがこぼれるような食事を経験している人はどれくらいいるのだろうか。おそらく多くの人は物を口に含んで笑い出したら不気味に感じるだろう。現に、自分と衣笠さん以外に美味しいものを食べて思わず笑みをこぼす人を僕は知らない。
本来、食事で幸福感を得られるのはとても自然で素晴らしいこと。それを嘲笑うようなひとは本当に美味しいものを知らないか、逆に恵まれ過ぎていて幸福の価値基準が高くなっているのだろうか。そう考える僕にもきっと恵まれている部分はあって、どこかで幸福を見落としているのだろう。
「はい! 美味しいって、とても幸せですよね! 私もこんな風に幸せを届けられる人になりたいな~」
そういえばいつからか、衣笠さんの態度が少しずつフランクになってきている。
「衣笠さんならきっとなれますよ。そのために、今日ここに僕を呼んだんですよね」
と、僕は仕事の話かそれ以外の用件なのか、さりげなく誘導尋問した。この期に及んで悪質業者や悪徳宗教の手先ではないかと、どこかで疑っている自分がいて、それを綺麗さっぱり払拭したかったのだ。危険を予知し、疑わしいものは納得いくまでとことん突き詰めなければならない仕事柄からか、つい疑り深くなってしまうが、衣笠さんにまでそういった視線を向けてしまう自分に、少々嫌気が差していた。
けれど衣笠さんなら本当に幸せを届けられる人になると、僕は確信している。
「あ、はい、そうでした! 本当にお疲れのところありがとうございます! あの、実は電車で挙式したいというお客さまがいらっしゃいまして……」
◇◇◇
いつ仕事の話題を切り出そうかとあぐねいていた未来だが、悠生から振ってくれて安心すると同時に、心のモヤを取ってくれてありがとうと謝意が込み上げてきた。
本牧さん、愛の告白で呼び出したと勘違いしてなかった! ちゃんと意図を汲んでくれてた! それはそれでちょっと惜しい気がするけど……。
ついでに未来が最も気にしていた点も払拭できて、嬉しいような悲しいような感覚に見舞われ、新たなモヤが発生したのだった。
「電車で挙式……。もし資料などあれば、食後に拝見させていただけませんか」
そう言う彼の作り込んだ感のないほんわかした笑顔は、出会ったときからいつも、私を安心させてくれる。釣られて思わず、私も微笑んでしまう。もしかしたらこの気持ちを『恋』っていうのかな。
「はい! わかりました!」
本牧さんは、やっぱり優しい人だ。何かハートがキュンとするような台詞など言われていないのに、いつの間にか、さっきまでの曇った気持ちが晴れている。
彼はきっと、他人を幸せにできると、自分も幸せを感じられる人なんだ。もちろん、朝比奈店長や小百合さんも。冷たい人が多い世の中で、そういう人たちに囲まれている私は、本当に幸せ者だ。だからこそ私は、幸せを分け与えられる人になるんだ。冷たい人の心も、いつかぽかぽかにできるくらいに。この瞬間、そう改めて決意した。




