五色沼
周辺を徘徊していると、バス停後方に木造のビジターセンターを見つけたので20分ほど立ち寄ってみた。客はほかにおらず、スタッフと僕らだけの空間。屋根が高く取られていて開放感がある。
館内には五色沼についての説明書きや書物、周辺で見られる昆虫や動植物の写真などが展示されている。
中でも僕が注目したのは……。
「ツキノワグマ……」
「何を今更。いるに決まってるじゃないですか」
「いるに決まってる?」
「そうですよ。森といえばクマさんです! 湘南の森にはいなくても、東北の山中の森ならほぼいます!」
「そりゃそうか」
「あきらめましょう。あきらめてスッキリしましょう!」
「スッキリって、何を」
「クマを適度に恐れて森林浴をしましょう! お気楽リラックス! それに、ほら」
衣笠さんはハンドバッグをおもむろに物色、皮のベルトが付いたベルを取り出した。その瞬間、チリンチリンと小気味良い音がした。
「クマ鈴です。大抵のクマは人に近寄りたくないと思うので、この音を聞いただけで逃げて行きます」
「なるほど」
「ただし、最近は人を襲いに来るクマもいるみたいです」
「……」
彼女は僕をからかって楽しんでいるのだろうか。自分が実家のそばに棲んでいるクマと友だちだからといって、福島のクマと仲良くなれるとは限らないぞ。
ビジターセンターと、その脇にある雪室を見学した僕らは、緩やかな斜面を上がっていった。どうもこの先に五色沼があるらしい。
急ぐ用もなく、ゆっくりと歩く高い木々に囲われた道。遊歩道になっている湿地帯には水芭蕉が群生し、白い花を咲かせていた。
名も知らぬ鳥やハルゼミの声。ここでは僕らの足音と、自然の音しか聞こえない。
「おっ」
足元に黄色と茶色のチョウが現れた。モンシロチョウのようにふわふわしておらず、俊敏に飛翔し足元の石ころに留まった。
「タテハチョウの仲間ですね。虫さんにとっても棲みやすい、自然豊かな場所ということですよ本牧さん」
「虫くらいならね。スズメバチじゃなければ」
「真夏になればまあまあそこそこ出てくるかもしれませんが、まだそんなには出ていないと思いますよっ」
衣笠さんはこの自然豊かな環境に心を躍らせているようだ。
数分歩くと、大型バスを十数台収容可能とみられる大きな駐車場が現れ、更にその向こうには地元の土産物や特産品を扱う道の駅のような店舗があった。その向こうにはソフトクリームや軽食類を提供している売店がある。
良かった、ちゃんと拓かれた場所じゃないか。
せっかくなので僕らは売店で五色沼ソフトなる瑠璃色のソフトクリームをそれぞれ購入。若干の塩味があり、食べやすい。
そしてその売店の向こうには____。
「わあ……!」
目を見開いて眼下に広がる光景を臨む衣笠さん。僕らの目の前には、一面が瑠璃色の大きな沼が広がっている。山が入り組んでいてどの程度大きいのか不明だが、対岸の山までは数百メートルある。空の青と深い緑の山、そして、瑠璃色に澄んだ沼。
ああ、都会で汚れた心が洗われてゆく。
「さて、じゃあほかの沼も見に行きましょう! きっと素晴らしい景色が待ってますよ!」
「ほかの沼? 今回の目的地は五色沼でしょう? ほかにも行くの?」
「本牧さん、五色沼は5色の沼があるから五色沼っていうんです。ここはその五色沼の中でもいちばん大きい毘沙門沼。ほかの色の沼は深い森の中にあります!」
「深い森の中?」
「そうです。花咲く森の道の中です!」
「ほう……」
「ビビりですね、私からすれば都会の人混みのほうがよっぽど怖いです。あれこそ危険のジャングルです!」
「まあ、確かに……」
山道でクマに遭う確率より、人混みで危険人物に遭う確率のほうが余程高いだろう。
「ということで、ほかの沼の絶景も楽しみましょう!」




