朝の海風を浴びながら
自宅を出て、普段とは逆の南方向へ進む。ごくありふれた住宅地のようで、よく見ると造りががっしりしていて値の張りそうな邸宅の多い鎌倉。東北地方の建て売り住宅や古くからの日本家屋に囲まれて育った私は、このリッチな空間にいるだけで場違いな気がして動揺してしまう。
裏道なのに二車線になっていて歩道も少し広く、雑居ビルが建ち並ぶメインストリートより道幅が広く開放的。黄緑色のイチョウ並木は白を基調とした景観に彩りを与え、この季節はセミが大合唱している。
急勾配じゃなければ、文句なしに気持ちいいのにな。ハイヒールで歩いたら転びそう。山を切り拓いて宅地造成をした街だから、とにかく坂が多い。
待ち合わせの喫茶店は、坂を登りきってすぐの頂上にある。あと50メートルくらいかな。
夏真っ盛りで暑いけど、少し先の海から駆け上がってくる風が心地良く、木々の葉がさわさわと掠れ合う。空にはツバメが弧を描き、電線に留まって一休み。周囲の山々には緑が多く残っていて、森林浴ができそう。
鎌倉に住んで良かった。色んな意味で!
坂を登りきり、喫茶店はもう目の前。まだ緊張してるけど、前に進もう!
そう思った矢先、目の前にベチャッと白い何かが落ちた。見上げれば、電柱にその物体とは正反対の真っ黒な鳥が留まっている。
糞だ。カラスの糞だ……。
どうしよう、喫茶店は目の前なのに、このまま下を通ったら汚されちゃうかも。だからといって、急勾配で坂の下が見えないから、迂闊に車道へ出たら今度こそ轢かれるかも。かもしれない行動は大事だって、本牧さんが勤務する駅事務室のポスターに書いてあった。
あぁ、どうすんべ? 数年前に青森から観光さ来てた小学生のめんこい女の子が「こういうときはロケットランチャーでぶっ飛ばしちゃえばいいんですよ」とか教えてくれたの思い出したけど、んなことさ思い出したってロケットランチャーなんか持ってねぇし、持ってたとしてもカラスさん可哀想だし犯罪だぁ。今までいろんな人とふれあったけど、特にあの子は大人しそうな顔して強烈だったなぁ。
このイントネーションで本牧さんと会話したら笑われそう。
ほんと、世の中いろんな人がいる。その一人ひとりを幸せにするのが私の仕事で、これから同じ思いで仕事をしている本牧さんに相談しに行く。このくらいの障害、突破できなくてどうする。よし、走ろう!
ベチャッ!
ふぅ、間一髪で逃れた、あとコンマ何秒か遅かったら確実に汚されてた。まさか本当に投下するとは。恐るべし。でもおかげで、ちょっと緊張が解けたかも。ところで私、変な恰好してないかな? 髪が跳ねてたりしないかな? 後戻りはできないし、どうせいくら何を変えても不安要素は尽きないよね。
「いらっしゃいませ! 一名さまですか?」
ようやく喫茶店の出入口に到着し、上半身と対面する高さに薄いガラスが嵌め込まれた白い木製の扉を押し開けると、頭上に取り付けられたベルがチャリンチャリンと音をたて、四十代くらいの女性店員さんがお出迎えしてくれた。白と黒を組み合わせたフォーマルな制服は、まるでバーテンダーのよう。「いえ、待ち合わせです」と少々挙動不審気味に告げると、窓際席に本牧さんの姿を見つけたので「あちらの方と」と付け加え、手を彼のほうへ向けた。
本牧さんの服装も白いTシャツとそれ以外は黒。気取りなくシンプルに引き締まっていて、でも同じ黒を基調とした鉄道会社の制服とは違ってプレイボーイ感を漂わせている。そのギャップに、思わず一瞬見惚れてしまった。そういえば本牧さんって、女性経験豊富なんだっけ。居酒屋での同期さんとの会話を思い出した。
もしかして、彼女さんがいたりするのかな……。
本牧さんも私の存在に気付いてこちらを向き、というよりどこか気付かないフリをして、いま気付いたみたいな素振りを見せているような……。
見られたんだ。カラスとのマヌケな応戦。あの席なら間違いなく見える。
「おはようございます。朝から災難でしたね」
「お、おはよござますっ! やっぱり見てたんですねっ」
本牧さん! それ話題にするんですか!? 緊張と驚きで噛んじゃったじゃないですか!
「はははっ、見ていて笑い堪えるの大変でした」
あぁ可笑しいと付け加え、堪えていた笑いを吐き出しながらお腹を抱えている。
「えっ!? ちょっ!? こっちは大変だったんですよっ!?」
「はははははいっ、すみませんはははははっ!」
ちっともすみませんって感じじゃないし! 私そんなに可笑しかったですか!?
でも、本牧さんもこんな風に笑うんだ。仕事熱心で、常に人や社会のことを想っていて、落ち着いた大人のイメージだったけど、ふふっ、なんだか母性本能くすぐられちゃう。




