松田助役のラーメンと
巡回、清掃を一通り終えて事務室に戻ると、百合丘さんが黙々と液晶タブレットに向かっていた。彼女が制作する駅ポスターはこれが最後、邪魔にならぬようそっとしておこう。
階段を上がって休憩室に戻ると、ピンクのエプロンを巻いた松田さんがキッチンに立っていた。
「本牧くん、ちょうど良かった、スープが煮立ったところだよ」
「お、そしたらいただきましょうか、松田さんのラーメン」
「はいよ」
哀愁を漂わせて調理する松田さんの背を見るのもきょうで最後。僕らは駅を去るが、ここに残る松田さんは引き続きラーメンをつくり続けるそうだ。
多忙な駅業務の傍らラーメンを振る舞うとは、松田さんはなかなかのやり手だと改めて思う。ラーメンづくりが好きでなければできない。
「松田さんは、独立してラーメン屋さんをやろうとか、考えないんですか?」
と、僕のために湯切りする上司にソファーに座って問う。松田さんがいないときは自分で麺を茹でて盛り付けても良い。
「商売になると厳しいからね。ここでなら、安定した給料をもらいながらラーメンがつくれる。もちろんラーメンをつくって僕の懐に入ることはないけど、それでも本牧くんみたいに喜んで食べてくれる人がいるから、楽しく続けられる。ただ、定年後はどうしようかな。そのときはもしかしたら、ちっちゃい店でも開くかもしれないね」
「なるほど、夢のあるセカンドライフで羨ましいです」
松田さんなら定年後、何もしなくても一生過ごせる資金を持っているだろうし、店を開けるほどの資金もあるということだ。今の僕にそこまでの経済力はない。僕が60歳より先まで生きるとして、松田さんと同じようなお金の使い方をしたとしても昔と今では給料が違う。
そしてこうして不満を抱いたところで現状も未来も何も変わらない。僕は僕なりに、他者と比較せず己の過去より良い日々を送れるように人生を歩むしかない。
「はい、お待たせ」
「ありがとうございます。いただきます」
松田さんが僕の前にラーメンを置いた。龍の絵柄の昔ながらのラーメンどんぶりに入った醤油ラーメン。
レンゲで一口スープをすすり、割り箸を綺麗に均等に割って、ずるっ、ずるっと麺をすする。
ああ、ほどよくあぶらの溶けたスープが麺によく絡む。旨味がきっしり染みた肩ロースのチャーシューもまた良い。昔ながらの定番の味でありながら、今ではなかなか食べられない。鎌倉の鶴岡八幡宮近くに美味しい中華そばの店があるが、松田さんのラーメンもそれに劣らない。込められた手づくりの温もりも含めて。
夜と明日の朝も、このラーメンをいただこうかな。
松田さんは自身のラーメンも用意して、僕の斜め向かい、テレビ側に座った。
「うん、きょうもうまい」
と、スープと麺を一口すすって自画自賛。
「いや、しかしね、人生っていうのはあっという間だよ」
「そうですね、僕も社会人になってからは時の流れが急に早く感じるようになりました」
「そうだよね~、過ぎて見ればあっと言う間なのに、トンネルから抜け出したり、楽しみなことがある日まではえらく長く感じる。いろんなことがあったけど、ここのところようやく肩の力が抜けてきたよ。人生は前半が楽しいか、後半が楽しいか、一生同じくらいの調子か、そんな感じで成り立ってるんだね」
「正負の法則ですか」
「そう、正負の法則。人生はいいこともイヤなことも半分ずつ。いいことも悪いことも、永遠には続かない。必ず終わりが来る。でもまあ、トンネルの中にいるときは、一刻も早く抜け出したいと思って、丹那トンネルや青函トンネルみたいなのをずっと進んでたりするからね。でもそれだって、出口はある。だから、長いトンネルを進んできた分の光明はあると、信じるしかないんだよね。もちろん、人生のトンネルは四次元だから、その場で耐えても、逆風に立ち向かっても、逃げ出してもいい。ごっつい列車だって危険なときは止まったり退行するんだから、人間ごときが逃げ出すのは当然さ。まあ、なんていうかさ、それが僕からの、若人へのエールだよ。君たちに幸あれってね」
「ありがとうございます」
「うん。はあ、きょうもラーメンが美味い。これで横浜の空気も美味かったらなおいいんだけどね」
「はは、それはなかなか難しいかも」
「だね、鎌倉は空気も食べものも美味いから羨ましいよ」
「土地には恵まれてますね、僕は。でも松田さん、今は茅ヶ崎に住んでるんですよね」
「ああ、ようやく終の棲家を見つけられたよ。空気もいい。だから、本牧くんも、どうか自分なりに頑張ってちょうだい」
「はい、いろんな道を探ってみます」
次の職場で上手く行くか行かないかはわからないが、並行してそれ以外の道を探っておこう。何もしないでいるよりは、人生の可能性が広がるはずだ。ひょっとしたら寿命も伸びるかもしれない。




