はじめての夜
駅文庫を読んだりデッキから高原の緑生い茂る景色を眺望しているうち30分は瞬く間に過ぎ電車が来た。城ヶ崎海岸駅、ちょっとした秘境駅でござった。
この普通電車に伊東駅まで乗った私たちは、城ヶ崎海岸駅には停車しない後続の特急踊り子に乗り換えた。こんどは白地に緑の斜めストライプが入った古いタイプの車両だった。
ガタンゴトン、昔ながらの電車の音。右側の車窓は海に沿った道路と街。ところどころヤシの木が立っていて、南国情緒が漂っている。通路側の座席では、本牧さんがスヤスヤ眠っている。私もなんだか眠たくなってきた。
『ご乗車ありがとうございましたー、大船~おおふなで~す』
「うーん、もうちょっと眠っていたかった」
「僕も」
眠っているうちに、あっと言う間に大船駅に着いた。静かな伊豆から戻ってくると、大船駅はなんだか騒がしい。今はあまり混み合っていないのに、なんでだろう。
眠たい眼をこすりながら、私たちは駅ナカでケーキを買って、本牧さんのアパートに戻った。すっかり日が暮れて、隙間風の入る部屋は冷え切っていた。
本牧さんが暖房を入れると部屋は徐々に温まり、コートを脱いでも寒くなくなった。
「ケーキ、食べよっか」
私は微笑んで、本牧さんに言った。
本牧さんは「うん」とやさしく微笑み返すと、ヤカンで湯を沸かして白いマグカップにティーバックの紅茶を淹れてくれた。
「ふぅ、紅茶おいしい」
「本格的なのはないけど」
「今のティーバックって、けっこう本格的なんですよ。それに、実家でおばあちゃんと紅茶を飲むときはティーバックだから、懐かしくて」
「そっか、実家には帰らないの?」
「近いうちに帰りたいなぁって思いながら、どれくらい過ぎただろう。帰りたいなぁ」
暖房の風と隙間風が混じり合うのほほんとした時間が過ぎて、私、本牧さんの順で入浴した。
夜、布団にふたり、横並び。
「きょうは楽しかったなあ。また、どこかに行きたいな」
「行こうよ、また。きょうはほんとうにありがとう」
「ふふっ、私が困ったときは、きょうみたいに引きずり出してね」
「うん。でも、どっちも闇落ちしたらどうしよう」
「そうなったらとりあえずここから離れたどこかへ行くって決めておきましょう」
「そうだね」
彼の表情が、昨夜よりだいぶやわらかくなっている。きょうはほんとうに、お出かけして良かった。
「あの、さ」
「ん? なあに?」
私が笑顔で応じると、彼は私の肩に手を添えてきた。
「だめ?」
「え……」
きょう、楽しい一日の締めくくりに、こんなことがあったらいいなって、出かける前から心のどこかで期待していた。でも、自分から誘う勇気はなくて、からだに自信がなくて、疲れている彼に無理なことをさせたくもなくて、殻に閉じ込めていた気持ち。
「だめ、じゃない、よ?」
言うと、彼は私を抱き寄せて、
「んっ!」
唇を重ねた。それは突然で、心臓がドクンと跳ねあがった。
思い出をいっぱいに詰め込んだ夜。




