この店には人々の幸せが詰まっている
昨日土曜日は9時から18時までの日勤で、退社後に気分転換に夜風を浴びつつ港の公園や洋館巡りをしてから電車に乗り、僕は居住地付近に店を構える中学時代から通い続けている古びたラーメン屋に入った。衣笠さんもこの辺りに住んでいるらしいが、未だ見かけていない。
ぶは~、うまい。
カウンター席で食前に中ジョッキ一杯のビールを流し込み喉越しの爽快感を満喫しつつ、物思いに耽る。
定員30名ほどの通路が広い店内はカウンター、テーブルともに子連れや左官屋の作業着を着た茶髪男性4人組、僕のようなスーツ姿の男性など、言葉は交わさずとも見知った常連客で半分程度埋まり、店の隅、天井に取り付けられたラックに設置された液晶テレビからは、毎週どこかの街に密着してご当地の魅力を伝えるバラエティー番組が流れている。全国どこでも見られるような、ごくありふれた雰囲気の店内では、今日も寡黙までは行かずも口数少ないオヤジがせっせと黄金色の麺を茹で、その横では黄色い作業着がトレードマークの奥さんがチャーシューを均等に切り分けている。見事な連携プレーだ。
入社してからずっとルーチンワークの繰り返しで、接客好きの僕にとっては人との触れ合いのある駅業務はやりがいあるが、ただ接客しているだけではどこか満ち足りない。何か新鮮で面白いことがしたい。
人や社会を幸せにする、そんな仕事がしたい___。
毎日が貴重なのに、同じことの繰り返しが、あとどれくらい続くのだろう。これが能力で予知できて、良からぬ未来が見えたら恐ろしい。
そもそも新鮮味を追求する前に、鉄道会社の課題は多すぎて、しかも後手になっている案件だらけだ。今年度に入ってから四ヶ月弱、僕が勤務する駅だけでもホームからの旅客転落が15件。
最初の一件目は衣笠さんで、その後も雨の日に多く発生したが、殆どが他の客の余所見による被害やスマートフォンをしながら、音楽を聴きながらの不注意による自損事故。残る数人は泥酔者だった。他にもテロや傷害事件の対策、システム進化や人材確保により列車を増発させ混雑緩和を図るなど、言い出したらキリがない。せめてマナーに関することはお客さまが協力してくれればと思うが、会社側も力及ばずで、衣笠さんたち被害者には申し訳ないし、僕ら社員も頭を抱える毎日だ。
「はいお待たせ。こってり塩九条ねぎチャーシューハーフミックス」
オヤジからカウンター越しに湯気立ち上るラーメンを差し出され、僕は「いただきます」と言いながら互いに慣れた動作で受け渡しをする。僕が頼んだのは、こってりスープの塩ラーメンに九条ねぎと肩ロース、バラ肉のチャーシューをそれぞれ三枚ずつトッピングしたもの。これだけトッピングしても800円ほどと、他店と比較するとかなり良心的な価格設定だ。しかも、並盛でも成人男子には丁度良いボリュームがある。もちろん煮玉子、海苔、メンマは基本としてトッピングされている。スープはこってりとあっさりの二種あるが、こってりのほうが人気だ。
早速れんげでスープを汲み、それを縦向きにして啜る。れんげはスープを啜るところを他人に見せぬよう、こうして鼻を隠すように使うのが作法だ。さて、具や麺もいただこう。先にビールを飲んでいてなんだかなだが、健康に配慮してまずはネギから。続いてそれを麺に絡ませ一緒に啜る。
あぁ、うまい。やっぱり夏は塩だ。沖縄県産の旨味を含み且つすっきりした塩スープに混ざった背油と九条ねぎが麺によく絡み、重量感とシャキシャキ感を両立させている。プラスアルファ、チェーン店には出せないここのオヤジならではの手作りの味がする。
この店には、人々の幸せが詰まっている……。
すっかり仕事を忘れ感慨に耽っていると、ビジネスバッグに入れていたスマートフォンのバイブが鳴ったので、スープまで完飲したところで着信内容を確認する。
珍しい、衣笠さんからのメッセージだ。しばらく会っていないが、元気にやっているだろうかと心配しつつ、通信アプリの表示ボタンをタップした。
『こんばんは。夜分にすみません。大事なお話があります。お時間の都合が良いときに、二人でお会いできませんか』
何かあったのだろうか。中高生時代の僕なら告白の呼び出しかもと胸がざわつくところだが、大人になって冷静を覚えつつある現在、数回しか会っていないにも拘わらずそれを期待するのはおかしいだろうと、別の用件を想像する。
もしや悪質なカルト教団やマルチ商法の誘いか? 彼女のような純粋な人は知らぬ間に悪の渦に引き込まれている可能性がある。
いや待てよ。逆に純粋を装って実は組織のリーダー格という可能性もある。
ふふふ、本牧さんってチョロイですねっ。
スーツやストッキングを脱ぎながら妖艶な目つきで僕を嘲笑う衣笠さんの姿を想像してしまった。夜の生活とはご無沙汰だから、薄暗いホテルの一室での商談後、枕営業まで持ち込まれたら乗せられかねない自分のチョロさを再認識した。
女とは実に恐ろしい生き物だ。悪女に少しでも隙を見せると、あっという間にほぼ全財産を搾取される。ソースは高校の同級生。他山の石だが明日は我が身。何かを買って欲しいとせがまれたり疑わしい言動が見られた場合にはすぐにその場を離れ、今後一切連絡を取らないようにしよう。近所に住んでいるとあって、最悪引っ越しも視野に入れねばならないか。ここは歴史的に有名な古都、鎌倉。のどかでショッピングや交通の便も兼ね備え住みやすく、離れるのは後ろ髪を引かれる思いだが、同じ条件を満たす周辺の街の部屋探しもしておこう。彼女がもし、そういった類の人間であればの話だが。
けれど僕は、出会った4月1日を忘れられない。車椅子を押して、満開の桜並木の下を歩いたとき、不覚にも若干の好意を覚えてしまった。あの透き通る眼差しはどこまでも真っ直ぐで、もしかしたらそれ故仕事に行き詰まり、僕を頼りにしてくれている可能性も捨てきれない。どちらのケースも考慮して、威圧感と落ち着いたオトナの雰囲気を兼ね備える黒を基調とした服装で会おう。




