彼と出逢ったしとしと雨の朝
あれは4月1日、しとしと雨の朝のこと。
前を歩いていた中年女性の引くキャリーバッグに躓き、ホームの黄色い線の外へ弾き出され、そこで踏み留まろうとするも履き慣れないハイヒールでバランスを崩し、約2メートル下の尖った砂利が敷き詰められた線路に叩き付けられた社会人デビューのあの日。
衝撃で少し意識が朦朧として、ようやく気が戻ったときに聞こえたのは電車の接近を知らせる自動放送。
どうしよう、電車が来ちゃう!
この場から離れなければと焦り始めたそのとき、ヒュルヒュルと電車が接近しているときに響く音が聞こえ始め、それが次第に大きくなってゆくのがはっきりわかった。とにかく逃げなきゃと両手を突き立て身を起こし後ろを振り向くと嫌な予感は的中し、カーブの向こうから電車が見え始め、みるみる迫っていた。でも、脚を挫いて動けない。このままじゃ轢かれちゃう。
このとき私は初めて、電車という乗り物の大きさを意識した。レールの幅は大股開きでも足を掛けられそうになく、車体は自動車の何倍も大きくて、おまけにゴムタイヤではなく鋳鉄製の車輪。轢かれても10分くらいは生きている場合もあるそうで、その間、どれだけの苦痛に見舞われるだろう?
いやだ、まだ今日は夢だったウエディングプランナーの第一歩を踏み出す日で、宮城には大切な家族や友だちもいる。それに、恋だってしてみたい。結婚してお父さんとお母さんに、できればじいちゃんばあちゃんにも子供の顔を見せたい。まだやり残していることがたくさんある。
ホーム上を見上げると、じろじろとこちらを見たり何事もないように立ち去る人が殆どで、3割くらいは立ち止まってじっとしているか、面白半分にがやがや騒ぐ集団もある。うち10人くらいはスマートフォンを私に向けて写真や動画を撮影しているようだ。知ってる人が誰もいない、負のオーラが満ちた場所で、汚れたからだのまま卑しい人々の娯楽のネタとなり、絶望に支配されながらバラバラに砕かれる。そんな結末、絶対いや!
逃げなきゃ。何がなんでも絶対。大地震を乗り越えた東北魂が、こんなところで未来を諦められるわけねぇべ!
恐怖で口は痙攣するけれど、それでも周囲を見渡して逃げられる場所を探す。向かい側の線路は反対方向の電車が来るかもしれない。ホームの下は金網が張り巡らされていて入れない。脚が痛くて目の前の避難用梯子は上れない。前から2両目の位置に落ちたから、這って逃げれば電車の停止位置標識より先に行けるかも。距離は大体30メートルくらいかな。それでも片足が不自由だから、逃げ切れるか不安。でも一か八か、動くしかない。
恐怖で呼吸が乱れ、肩が前後に動く。怖い、怖過ぎてからだが内部から壊れちゃいそうだけど、逃げなきゃ間違いなく何もかもが終わる。がんばっぺ、がんばっぺ私! 動けっ、動けえええ!!
文字通り、決死の覚悟でからだを揺り動かした、そのとき。
ホームの上から、ブー!! と大きな音のブザーが鳴り響いた。誰かが非常停止ボタンを押してくれたんだ。再び後ろを振り向くと、迫っていた電車はホームに差し掛かる直前で止まっている。
駅でたまに聞く鈍くけたたましいブザー音が、そのときはまるで天使が奏でるラッパのようで、安心したら、ふあああっと腰が抜けてしまった。
「大丈夫ですか!?」
放心状態でしばらくその場に女座りをしていると、ホーム上から駅員さんに声を掛けられたので、電車が来る方向を見ていた私は顔を上げた。
うわっ、インテリ系っぽいイケメンさんだ! 俳優さんだったら絶対売れる!
これが、本牧さんとの出会い。本牧さんは慣れた動作で周囲の安全を確認すると避難用梯子を素早く下り、私のもとへ駆け寄ると、そっと手を差し伸べてくれた。
あぁ私、少女漫画のヒロインみたい! それとも乙女ゲーム!? これから駅の事務室に連れられて、そこには色んなタイプのイケメンが待っていて……。
大丈夫? 怪我はないかい?
僕たちと巡り会わせるために神様がキミを線路に落としちゃったのかな?
みたいな感じで次々とイケメンが集まってきたりして。
これを機に私は駅に来る度イケメンたちに囲まれて、色恋のなかった女子校ライフからモテ路線まっしぐらなの!? いやんどうしよう!? まだ家族以外の男の人と手を繋いだこともないのに!
いま思えば、命の危機を脱して早々妄想に浸っていた、なんて痛い女だろう。実際はごく普通のオジサマ駅員さんたちに「あぁあぁ何々どうして落ちちゃったの~」とか尋問されただけだった。それでも本牧さんは汚れを拭き取るためのタオルを何枚か持ってきてくれた。
一瞬の妄想熱が冷めて、本牧さんを見詰める。
この男性、クールで甘い顔立ちだけど、すごく一生懸命だ。一挙手一投足からそれが感じられる。黒を基調とした制服が、まるでタキシードみたい。それが本牧さんに抱いた第一印象。私にとって本牧さんは、馬車から手を差し伸べてくれた王子様。もちろんそれはお仕事で、誰にでも平等にやることだと思うけど、このひとときだけは、私の王子様。
見惚れつつも、私は脚を挫いて身動きが取れない旨を本牧さんに告げた。
「わかりました。ではよろしければ、僕の背中に負ぶさっていただけますでしょうか」
雨でびしょ濡れになって、しかもレールの鉄粉や機械油が付着して汚れた私。負ぶさったら本牧さんも汚れてしまうけれど、電車を止めてしまっているし、一連の流れなのだろうから、恐縮しつつ素直に従った。
身長も肩幅もごく平均的な本牧さん。それでも男の人の背中は大きくて、思わず胸の奥がキュッとした。反り返らないようになるべくからだを密着させると、制服から僅かに煙草のにおいがした。息は臭わないからきっと本牧さんは非喫煙者で、他の社員さんが吐いた煙が染み込んでいるのかな。なんて、想像したり。
梯子を一段一段上る度に胸が擦れたけど、本牧さんに感触が伝わるほど大層なものは持っていないから、変に意識しないようにした。
それでも、たったいま出会ったばかりの、今後会話する機会などないかもしれないこの人の肌の温もりは、意識せずにいられなかった。私を転落させて知らんぷりしたキャリーバッグの女ほか、突き刺さった公衆の邪心や恐怖の氷が溶けてゆくようで、項に頬を擦りつけたくなるほどに情緒不安定だったのか、それとも本牧さんから放たれるオーラがそうさせたのかは、定かではない。
さて、そろそろお出かけしようか。思い出に浸ったら、さっきまでの緊張が嘘みたいに、なんだかウキウキしてきちゃった。あ、靴はどれにしようかなっ。
お読みいただき誠にありがとうございます!
第5話に源豆乳さんによるヒロイン(未来)のオトナ感あふれる素敵なイラストを頂戴しておりますので、是非じっくりご覧ください!




