いま居る場所がすべてじゃない
「さあここです! 明日はお休みということで、今夜は好きなだけ飲み食いしてください!」
「はは、ありがとうございます……」
衣笠さんが運賃を支払いタクシーを降りた場所は、閑静な住宅街にあるイタリアンレストランの前。レストランの敷地には足を踏み入れたが、石畳沿いに消灯された酒造その他何らかの仕込みをするためと思われる欧風平屋の建物がいくつか並んでいる。レストランまでは少し歩くようだ。通路は暖色ライトに照らされて歩きやすく、落ち着いた雰囲気を放っている。
「どうしました? 引き攣っちゃって。もしかして、気に入らなかった……?」
「いえ、素敵だと思います。ただ、ご馳走になるのが心苦しくて」
「それはだいじょぶです。ノープロブレムです! きょうは鱈腹食べてゆっくり休んでください!」
「ありがとうございます。では、お言葉に甘えて」
「はい!」
と言う彼女の頬は少し紅く、とてもうれしそうだ。そういうところに僕は、毎度胸を焦がしてしまう。
店内に入ると、僕らは奥の四人用テーブル席へ通された。暖色の灯りが控えめに照らす、ログハウス風の落ち着いた雰囲気。ガラス張りの窓の外には、丁寧に手入れされた常緑樹が繁っている。よく見ると、石畳を詰めた水路のようなものもある。
接客スタッフは僕らとあまり変わらない年頃の男女で、各テーブルに注文や用件を訊いて回っている。
僕らは通りかかった男性店員に注文内容を告げ、すぐに中ジョッキの地ビールが運ばれてきた。料理はまだ出ていない。
「ハッピーバースデー!」
「ありがとうございます」
僕らは乾杯をし、喉にビールを流し込んだ。
「ぷはーっ」
と息をついたのは衣笠さん。
「衣笠さんもお疲れ気味のようですね」
「最近ちょっと、職場での絡みがめんどくさくて」
「あぁ、なるほど」
ハッキリ言ったな。
「男っていうのは、いったいどんな生きものなのか……」
言って衣笠さんは、グビグビっとビールを一気に飲み干した。
「すみませーん、フルーツビール中ジョッキ一つお願いしまーす!」
近くを通りかかった先ほどと同じ男性店員に、早くも追加注文。
これは相当ストレスが溜まってるな。
「本牧さんも遠慮せず、滝のように流し込んで土石流のように食べちゃっていいですからね!」
「それはどうも」
ではせっかくなのでと、オニオンフライを注文。僕は酒はほどほどに、ソフトドリンクへシフトして、料理を多く食べるタイプ。
「毎度毎度発車間際の電車に引きずり込みおって! しかも6号車! 東海道線でいちばん混んでるところ! エスコートしてるつもりなら隣のグリーン車にでも乗せたらどうだっつーの! ちゃんと事前にグリーン券買って!」
衣笠さんは打ち合わせで、藤沢、茅ヶ崎、平塚などの式場へ行く機会が多い。その際、同僚の駆け込み乗車に相当苛立っているようだ。
平日の空いた店内に、衣笠さんの声がよく響く。
「あ……すみません……なんか大声で愚痴っちゃって」
ふと、衣笠さんは素面に戻った。
「いえ、気持ちは物凄くよくわかります。正直、そのような人がいなければ僕らの仕事はだいぶ楽になります。カスタマーハラスメントで心が病んで、会社を辞めていっちゃう人もけっこういるんです」
「そうですか……確かに私も、なんでこんなカップルのためにって、思うときもよくあります。あぁ、でも、なんだかなぁ」
「ん?」
言いたいことがありそうなので、僕は続きを促した。
「上京してから、だいぶ心が汚れちゃったなって」
「それは仕方ありません。こっちに来て早々、キャリーカートを引っ掛けられて線路に落ちて、他にも不愉快な思いをする場面は、宮城より多いでしょうから。状況によって心持ちが変わるのは、ごく自然です」
「でも、きれいな人はきれいです」
「そういう人はそういう人。衣笠さんは衣笠さん。あと、そうですね、汚れを知ったときは、人生の分岐点だと、僕は思います。この局面で、そういう人たちに流されるか、強い意志で踏みとどまるか」
「よくある、大きな勢力に流されて、社会順応性という大義名分で正当化するやつですか」
「えぇ。でも、そういうことがあったら、いつでも僕に話してください。僕にもそういう場面は日々あって、話を聞いてもらえるとうれしいので」
「本牧さんも、最近は会社のことで疲れてる感じがしますもんね」
「ははは。えぇ、ほんとにもう、滅入っちゃいますよ。ま、今夜はせっかく素敵な場所に連れてきてもらったので、仕事のことは忘れます」
「うん、それがいいです! そうしましょう!」
とはいったものの、会社は人員削減、列車の短編成化、減便など、過度なダウンサイジングを行った結果、サービス力が低下して、ここ数年は顧客からのクレームが殺到。会社を支えてくれているお客さま、社員などから見放され、雲行きが怪しくなっている。
鉄道や空間創出をしたいと望んで入ってきた社員は馬鹿を見て会社を去り、従順で染めやすい、悪く言えば自分を持たない人間を使い捨てにする、そんな風土になりつつある。ほんの少し前までは、社員をじっくり育てて才能を開花させてゆく、そんな会社だった。
僕らの会社は国に守られているから、よほどのことがあったとしてもそう簡単には潰れない。しかし下手したら、僕の寿命が尽きる前に業績が暴落して、リストラが発生するくらいには追い込まれる可能性がある。世間一般には順風満帆に見える日本総合鉄道は、実は自ら崖っぷちにひた走り、けっこうピンチだ。
会社がここまで身を削いできたには理由がある。
首都圏の鉄道事業は黒字。莫大な利益が出ている。しかし首都圏以外の地方には赤字路線が多い。人口が少ない、車社会であることや、寒い地方では除雪費用が嵩み、車両の維持費等も含めると満員列車でも赤字になる場合がある。
また、今後は少子高齢化が進み、人口が更に減少。当然収益も減る。会社はそれを恐れ、先手を打ってダウンサイジングを進めたが、時期尚早すぎた。まだ利用者が多い現在にそれをしてしまった。1時間に1本しか運転されないような路線でも4両編成から2両編成に短縮して超満員列車となり、乗車しきれず溢れてしまうお客さまも出るほどだ。これは非常にまずい。このままでは鉄道というコンテンツ自体が嫌われ、客離れに歯止めがかけられなくなる。
列車に限界まで人を詰め込んで、たとえお客さまに次の列車までお待ちいただく時間帯が発生したとしても仕方なしとしてきた会社に、お客さまの堪忍袋の緒が切れた。路線によっては最終列車でさえ乗り切れないお客さまが発生している。この日本総合鉄道は、お客さまを目的地まで安全に運ぶという最低限のサービスさえ果たせていないのだ。
あれもこれもと税金をつぎ込み大盤振る舞いだった公企業が破綻して民営化した日本総合鉄道。その改革と称して断捨離をし過ぎた結果がこれだ。よく世間で見る断捨離妻が夫や子の大切なものまで捨て、怒りを買い孤立する流れと似ている。
では赤字路線を廃止してしまえばという意見もあるだろう。しかし利用者が少ないとはいえ、その路線も誰かにとっては生活必需品。それをそう簡単に切り捨てるわけにはいかない。利益を確保しつつ、公共の福祉に資する。また、今後起きるであろう大規模災害に備えた復旧費用の留保も必要。ダウンサイジングを進めている経営幹部は鬼のように映るかもしれないが、心境は複雑かもしれない。僕が経営幹部なら、少なくとも地方路線で乗り切れないくらい人を詰め込むなんてことはしないが。
一方、ダウンサイジングに躍起で息苦しいこの会社に賭けた僕の人生は、大敗北が濃厚になっている。これでは死んでも死にきれない。
僕が死亡すると予知した日は32歳の7月13日。現在27歳の8月2日。残り5年弱。いまからならまだ、別の道を探す手もある。
人生は、いま身を置いている場所がすべてじゃない。会社がどうであろうが、未来は自分次第だ。
行く末が短くても、最後まで足掻く。そんな泥臭い生き方が、僕には合っている。




