ゆったりした電車の旅
走行速度、車両の構造や性能、レールなどなど、わけわからんほどの法令が定められている鉄道だけど、事故を完璧には防げない。例えばいま、急に電車の前に何かが立ち塞がったら、ブレーキをかけても間に合わない。電車に向かってでかい石が投げられたら、ガラスが割れる。
でも、防げる限りは防ぐ。絶対安全はないけど、絶対に近い安全に、可能な限り、思いつく限り近付ける。
鉄道会社は、そういうことをしなければいけない。
といった感じのことを研修やら本牧さんみたいな意識高い系の人から言われる。
ぶっちゃけこの会社に入るまで安全のことなんてそんなに考えてなかったし、いつも乗ってる横須賀線はメッチャ飛ばしていつ脱線するかわからないスリルを味わってきたけど、ちゃんと決められた範囲内で走ってるのねと。
電車は相変わらず快調に東海道を下ってゆく。平塚、大磯、二宮、このまえ純一が行った国府津、鴨宮、お城で有名な人気観光地の小田原さえも、この電車は止まらない。小田原に止まったらお客さん、すぐそこの箱根に逃げちゃうもんね。小田原はあの超有名な箱根の玄関口でもある。せっかくのリゾート特急だから、遠く伊豆まで乗ってもらいたい。そんな意図があるんじゃないかと、私は思った。
小田原の次、早川を通過すると、線路の標高が徐々に上がってきた。いつの間にか左側に自動車道が現れた。そこそこ渋滞している。行き詰まるクルマたちを横目に、電車はスイスイ進んでゆく。
それから何度か、トンネルに入った。山間部に入り、電車は茂みの中をややゆっくり進む。時速70キロくらいだと思う。自動車道は見えなくなっていた、と思いきや、また並んだ。いや、違う道だ。これは国道かな? 自動車専用道路という感じではなく、片側一車線で申し訳程度に路肩もある。
私はいまのいままで、遠出する機会がほとんどなかった。貧乏家庭だからというのもあるけど、そもそも旅行をしようなんて発想が浮かばなかった。出かけるとしたら、横浜や川崎の中心部、または原宿。
お金のかかる特急に乗って伊豆へ行くなんて、考えてもみなかった。
わぁ、海でかい。
山肌を切り崩した線路を走る大きな窓の電車から、大海原を見下ろす。
純一寝てるし。せっかく窓側に座らせてあげたのに。
気持ちよさそうに眠っているところを起こすのも悪い気がするから、放っておく。
あ、いまの私、何もしてない。
家にいるときの私は、絵を描かなきゃと気持ちだけが焦って、その実スマホをいじって一日の大半が過ぎる。スマホはサボりの罪悪感を麻痺させる麻薬のようだ。
ところがいまの私はスマホもいじらずただ電車に乗っているだけなのに、罪悪感がない。
不思議だな、ゆったりした電車の旅って。
同じ場所を人がたくさん乗った普通列車で通っても、きっと私はスマホをいじっていると思う。東海道線の普通列車は通勤客のみでなく、小田原や伊豆へ向かう観光客も多く、混雑する。2階建てグリーン車もほぼ満席。つまるところパーソナルスペースは都市を走っているときと変わらない。
思わぬ出費だったけど、たまには敢えて、A特急の贅沢な旅もいいな。




