好きでもない人とのキス
「まじか!! え、うそぉ!? 私なんも聞いてない!」
「嘘だといいんですけど……」
「うんうん、そうだよね。そりゃショックだわ」
一人暮らしにしては広い3LDKの未来ちゃんの部屋。おじゃまするとコンビニで買ったビールとチューハイ、カルパスやサラダが大量に用意されていた。なんという気遣い。手料理までは用意していないところがまた良い。そこまでされたら罪悪感で居たたまれない。
突然押しかけちゃって、なんだか悪いことしちゃったな。
でも、ドライブ上がりの一杯は最高だし、未来ちゃんは独りにしたらまずいオーラが出ているから、これが正解なんだと思う。きょうも各駅停車とちょっとだけ通過駅のある快速で神奈川と埼玉を行ったり来たり。お疲れ私。東海道線の特急を軽快に運転したい人生だった。
未来ちゃんから件の話は聞いた。
クリスマスの山下公園で、えりちゃんが本牧に迫ってキスしたと。
「私はこれから、どうすればいいんでしょう。まだ本牧さんといっしょにやる仕事も残ってるのに、私情に支配されて、壊れちゃいそうです」
「それな。確かにいっしょに仕事はつらい。しかも結婚式なんてほんとクソだわ」
うぅ、と俯く未来ちゃん。
「でもちょっと待って。本当に、えりちゃんと本牧は恋仲なのかな」
「だって、キスしてましたし。少なくともあっちには気があるということで……」
あっちというのはえりちゃんのことだと思う。名前も呼びたくないほど憎らしいと。
「えりちゃんも男日照りだからね。だから、キスして疲れを癒したかったんじゃないかって、私は思うんだけど」
「キスして疲れを癒す?」
「そう。未来ちゃん、ファーストキスはまだ?」
「はい」
「そっか、そりゃ合点がいかないのもわかるわ。えーとね、単純に、キスすると、なんだかよくわかんないけど疲れが嘘みたいに吹き飛ぶの。えりちゃんの周りでそういうことを頼める男って言ったら本牧くらいしか思い当たらないし」
「で、でで、でも、好きでもない人とそんな」
「うーん、未来ちゃんはピュアだなぁ」
呆れた私の言葉に、未来ちゃんは表情にこそ出さなかったけど内心少しムッとしたように感じた。
好きな人が誰かに取られる恐怖。
このままずっと、恋人ができないかもという恐怖。
その渦中にいる未来ちゃんはいま、藁にも縋る想いで私に相談している。
えりちゃんと本牧が付き合っていないとは、正直なところ言い切れない。だからいま私が未来ちゃんに話しているのは、希望的観測。
好きでもない人とのキスなんて、この世の中にはありふれている。
好きな人と早々にくっついた私にはとても理解できないつらさが、星の数ほどある。
寂しくて仕方ないけど、好きになる人となかなか巡り逢えない。
心が乾ききった中でもヘトヘトになるまで働かなきゃいけなくて、大した給料も貰えなくて、八方塞がりの日々が延々と続く。
そんな中で巡り合った二人は、互いに好意を抱きはせずとも、その一時ばかりの逢瀬に身を委ねて、慰め合う。
そうでなければ本当に、精神崩壊してしまう。何か良からぬことに手を染めてしまう。
私が駅員だったころ、ホームで発見した自殺志願者の女性も、事務室でそんなことを語っていた。
だから未来ちゃんの言う『好きでもない人と』というのはあまりにも純粋で、そういう類の発想は、ときに人をぐっさりと、深く深く傷つける。
もちろん、好きでもない人としたくないならそれでもいい。それはその人のスタンスだから。
でも、えりちゃんはそういうタイプではない。
肩肘張って生きてきて、会社の仕事だけでも大変なのにイラストレーターもやって、ネット界隈の人間に辟易して、でもタイムラインを眺めないと時代に置いて行かれそうでそこはかとない恐怖に襲われる。
本牧に好意がないという前提で考えると、えりちゃんはもう、身も心も限界なんだ。
そして未来ちゃんも、窮地に陥ろうとしている。
こうやって客観視すると、私だけぬくぬくと幸せな日常を送って、なんだか申し訳ないな。
だけどこればかりは縁だし、あまりガツガツ行くと世知辛い世の中だからどうにもし難いけど、未来ちゃんにもえりちゃんにも幸せになってほしい。
そして本牧、アイツは何か重大なことを隠している。
お読みいただき誠にありがとうございます。
先週はお休みしてしまい大変恐縮です。




