巻き貝
「わーあ、空気が澄んでて夏に来たときより空がきれい! 空気も美味しい!」
西に寝る江ノ島、富士山、蛍光塗料のようなオレンジの空をまなかいに、衣笠さんは両手を伸ばして‘稲村ヶ崎’を全身で感じている。僕にとっては地元中の地元。日常そのものの場所を喜んでくれて何よりだ。
伸びをしたと思ったら今度はしゃがみ込み、足元の干からびたヒトデをまじまじと見る衣笠さん。巻き貝やビーチグラス(ガラス片が波に揉まれて丸みを帯びたもの)を観察している。
巻き貝を耳に当てると耳に流れる血液の音が聞こえるが、貝の中から家畜の糞にとても近い、凄まじい臭気を放つ液体が流れ落ちてくる場合が多々あるから要注意だ。
血流の音を波の音になぞらえる場合もあるが、あの液体に触れてしまうとそんなロマンは抱けなくなる。ロマンをロマンのままにしておきたければ、おしゃれな雑貨屋などでしっかり洗浄された巻き貝の購入をお勧めする。
「巻き貝を耳に当てると波の音が聴こえるって、有名ですよね!」
無邪気にはしゃぐ衣笠さん。
「やってみます?」
「やってみま……あ、ダメだこれ。確かとてつもない臭いの液体が入ってるんですよね」
「誰かに教わりました?」
「久里浜さんとか花梨ちゃんとか、何人かが教えてくれました。ここから徒歩10分の場所に実家がある本牧さんももちろん知ってますよね?」
「えぇ、もちろん」
「ふぅん、このまま私が汚れてしまえばいいのにって、思ってたんですか?」
「いえ、そこまでは。ただなんというか、トラップに嵌るあまりにも典型的なパターンだったので、あぁ、出た、こういう人、っていう感じで見てました」
「なるほど、そこで止めてくれるのが人情だと、私は思うんです」
「えぇ、僕もそう思います」
「ふぅん、そうですか。まぁいいです、せっかくなのでもうちょっと歩きましょう」
「はい」




