北鎌倉
大船から1駅、たった数分で、世界はがらりと変わった。
北鎌倉。小さな駅を出て少し歩くと、そこは静寂の森の中。
行き交う観光客の声や自動車、列車の音も、そのすべてを吸い込むように消してゆく、寺院へ続く緩やかな上り坂の切り通し。
栄えた街の喧騒に囲まれた、異空間にして原風景。
寺院を参拝して隣の鎌倉駅方面へ。空も見えないほど高い木々が清らかにした風を受け、自らの心も洗いながら進む。一歩一歩、踏みしめる度に感じる、その地の力。
黄や茶の枯れ葉が擦れ舞い、悠久の時を経た常緑樹は滑らかに、無自覚だった傷を包んで撫でてゆく。
鎌倉は、古の幕府。
いつの世も、無念に散った命の数は知れず、だけど被災間もない東北の刺々しさとは異なるものを感じる。
それは諦めや受容か、時の流れや森の風が御霊の棘を洗ったか。
あぁ、でも、だめだ。
この、何もかもが許されてしまいそうな甘美な誘惑に引き込まれ森へと踏み入ったら、きっと私は帰れなくなる。
きっとじぃちゃんでも、とても私を守れない。
無数の木々の影から幾らかの御霊が私たちを見ている、そんな気配がする。身を潜める武士、遊ぼうと誘う童、そんな思念が、それぞれ直に伝わってくる。
あなたたちは、すっかり変わったこの世界を、どう見ているのですか?
そんなことを、尋ねたくなる。
「本牧さんは、こんな場所で育ったんですね」
「そうですね、もう少し南側ですが、雰囲気は近いです」
「極楽寺、でしたっけ?」
「極楽、ですね、住所は」
「極楽浄土ですか!」
「本当にそんな場所ならいいんですけどね。名は極楽ですが現世ですから、環境は良くても人間によって問題が起きます」
「す、すみません、古傷を抉りました……」
あぁ、やっちゃったなぁ、悪いことしちゃった……。
「あぁ、トラウマが蘇る。あんなことやこんなこと、籠の鳥、雁字搦めだったあのころの記憶が、鮮明に蘇る……」
「す、すみません! 本当にすみません!」
うわあわわわわわぁ、思ったより深く抉っちゃったみたい。どうすんべどうすんべ、私なんかよりずっと苦労してる人だから、どうにもカバーできそうにない……。
「ぶふふふふふっ、冗談ですよ」
「冗談!?」
ううん、冗談ではないと思う。私を安心させるために宥め、無邪気な心で弄ぶ。その両方がある。
「えぇ、過去のことは色々とありますが、それも背負って未来を夢見る。すると、水を控えめに厳しく育てたトマトのように、濃密でとても美味しい人生という実が成る。そう信じています」
すごく素敵な考え方だと思った。
けど、どうして夢物語のように遠く木々の向こうを見て語るの?
「うん、素敵ですね。私も本牧さんみたいに洗練された大人になりたいです」
「僕が洗練された大人? とんだご冗談を」
歩けど歩けど森は続く。緑の空を仰ぎ、世俗で溜め込んだ毒を吐く。
そして、心を素直に、言葉を連ねる。
「私、いつも思うんです。本牧さんや成城さん、小百合さんと私の間には、大きな壁があるんじゃないかって。生まれ持ったものが違うから、同じ空気を吸っていても生きている世界が違う。本牧さんたちはどんどん洗練された大人になっていって、私はいくら年を取っても子どものままなんだって」
「えぇ、まぁ、確かに、そう思いますよ」
苦笑いで発せられた言の葉に、ずんと心を沈められる。いざ好きな人に言われると、本当に胸の中に鉛を入れられたように、からだが重たくなる。
言わなきゃ良かったな、極楽浄土も、本音も。
「だからいいんじゃないですか。できれば僕も、あなたのように真っ直ぐ育ちたかった」
「へ?」
どういうこと?
「僕みたいな人間は余計なことを考え過ぎて、本当に大切なことを見失いがちなんです。役職、学歴、理論など、表層的なもので武装して、過剰な装備をした心は重く病んで、幸せになるために装備したはずの武器が、逆に自分を苦しめる。そんなことだらけなんですよ」
「それがつらいって、言ってましたよね」
「えぇ、でもどうしてでしょうね。あなただってつらいことはあったはず、それこそお祖父さまを亡くされたり、震災に遭ったり、僕が思い当たることだけでも相当重たいのに、それでも素直な自分でいられるのはどうしてだろうって、よく思うんですよ」
「ふふふ、それは難しく考えすぎですよ。私は私、それだけです」
「なるほど、素晴らしい」
「んん? 何がです?」
ありのままでいいってこと?
いやいや、そういう感じじゃないなこれは。
お子ちゃまのままでいいわけがない。
うーん、わからない。
「さぁ、何がでしょう」
「出たでた、そうやって私を混乱させて楽しむ遊び」
「はは、つい遊びたくなってしまうんです」
「もう、そのうち痛い目見ますからね?」
「ほどほどにしておきます」
「よろしい。本件に関してはこれで一件落着として、本牧さんは霊感があるんですよね?」
「えぇ、まぁ」
「私もね、なんだかこの地には感じるものがあるんです」
「ほう、それはすごい」
「いまこの瞬間も、本牧さんには見えてるんですか?」
「いや、ここでは気配しかしませんね。波長が合わないみたいで、僕には見えない霊のほうが多いんじゃないかと思います。仮にすべての霊が見えたら、四方八方の視界が塞がれてしまいそうです」
「うんうん確かに。でも、いるんだなっていう感じはするんですよね?」
「はい、悠久の時を経た思念も、比較的新しい思念も。見えた霊の中には観光客と同伴している方もいましたが、親族や友人など、近しい方なのかもしれませんね」
「そっか、鎌倉だからって、古の霊ばかりとは限らないんですね」
「そうですね、昔の方も、最近亡くなられた方も、ここにいる。僕ら現代人から見れば歴史上の物語でしかない、実際に見て確かめようもない、写真さえもない時代も、いま僕らが立って見ているこのときも、確かにこの場所の史実なんです」
「うん、そうだよね、そうなんだな」
例えば煌びやかな都会でも、世界の果ての村にも、過去と現在がある。そのどこにもきっと、歴史を見守る誰かがいる。
時の流れに想いを馳せていたそのとき、少し強い風が吹いて、前方の銀の楓の葉がふわっと空に舞った。
高い常緑樹に囲まれた土地だから、正直なところそんなに綺麗ともいえない。
でもなんだろう、私たちを歓迎してくれているような、そんな舞いだ。
するとその楓の陰から、ボロボロの衣を纏った小さな女の子が右半身をひょっこり出して、手を振ってきた。
「いい風が、吹いてますね」
本牧さんが空を仰ぎ言った。
「ふふ、そうですね」
ありがとう、おじゃましてます。
私が木の陰の少女に微笑むと、彼女はにっこり笑んで、森の奥へと駆けていった。




