悠生の生い立ち
本牧悠生。『悠々と生きよ』という願いを込めて父方の祖父が付けた名前。生まれも育ちも湘南鎌倉。
僕は社会人になってから市内北部のディープなエリア、大船のボロアパートに住んでいるが、実家は南側、海を臨む小高い丘の上、よく観光客が迷い込んでくる住宅地の一角。最寄り駅は江ノ島電鉄線の極楽寺駅。近所には、ほとんどの日本国民が知っているであろう大仏様が在る。
1面1線の小さな駅のすぐそばには緑のトンネルがあり、自転車で下ると真夏でも爽やかな風を感じられる。
あまり知られていないが、線路を跨ぐ桜橋を渡り奥へ進むと人気のない森の切通があり、車1台が通れるほどの狭いトンネルは昼間でも気味が悪い。
そこを抜けてしばらく進むと大通りに出て、やがて藤沢駅に辿り着く。
周辺道路は渋滞、江ノ電は観光客で混雑。利便性は良くないが、海あり山ありの自然に恵まれた環境で育った。
しかしそれを満喫するようになったのは、ある程度大きくなってからだった。
「僕の両親は学歴至上主義者で、高学歴かつ容姿端麗を理想とし、そのレールを僕に歩ませる、というよりは走らせようとしていました。小中学校は公立校に通っていたものの、帰宅すれば毎月送られてくる教材でどちらかの親に監視されながら、深夜近くまで勉強漬けの毎日で、機械のように生きていたと思います。
父はよく『日本は学歴社会。悠々と生きるには学歴が絶対条件だ』と僕に言い聞かせていました。
対して名付け親の祖父は僕が5歳の冬に他界しましたが、彼は朗らかで、観光客の多い鎌倉の高級住宅街でも短パンランシャツで出歩くような人でした。中卒ですし、学歴や容姿といった表層的な部分には囚われない人だったと僕は思っています。就学してからはそんな祖父の姿を毎日のように思い出して、本当に悠々と生きるには何か別のものが必要なのではと、僕は秘かに疑問を抱いていました」
硬い話をしているが、いまは楽しいバーベキューの最中。網の上の肉が程よく焼けてきたので、紙皿に取り分ける。
「おじいさんは気取らない元来の湘南人だね、私みたいな」
久里浜さんが母性を孕んだ笑みで言った。
「そうですね、父とは相反して女好きで、若い頃は片っ端から腰を振ってきたから子や孫が何人いるかわからないと、由比ヶ浜の海水浴場でビキニの女性をまじまじと見ながら幼い僕によく話していましたが、その意味を知ったのは他界して10年以上たってからでした」
「あなた、シビアに育った話をしているのに猥談にしか聞こえないわよ」
「いずれにせよ酷い話でしょう? そういえば成城さんも厳しい家庭の育ちでしたね」
「えぇ、『安積の子たる者、黎明であれ』と言い聞かせられて育ったわ」
安積とは、成城さんが育った地域の名。
「あ、あの、皆さんの会社は、その、そんなにエリートさんばっかりなんですか?」
衣笠さんの問いに、久里浜さんと百合丘さんが続けざまに「私もいるよ!」「あー私も私も」と己の存在を主張した。
「でもそうね、色んな社員がいるけれど、学歴社会なのは間違いないわ。役員になるには私の出た大学では厳しいもの」
「そうなるともちろん、僕の出身校もですね。けれど両親は僕の入った大学には文句がないようで、自慢できると喜んでいました」
「良かったじゃん、なんとか逃げ切ったんだ」
と久里浜さん。
「逃げ切りましたね。ただそれまでは本当に地獄のような日々で、広大な海をまなかいに、ほとんど部屋で勉強でしたから。人間として大切なものを随分と取りこぼしながら育ってきたと、後々気付く機会は多かったです」
「あーそれ私もそうです。高卒ですけど、絵の勉強ばっかさせられて、気付けばお絵描きしか取り柄のないクズになってました」
「そ、そんな、花梨ちゃんクズなんかじゃないよ!」
「ありがとう未来ちゃん! 未来ちゃんのおかげで人間になれたよお!! あとえりちゃんも」
「私はついでなのね」
「えりちゃんもうちの会社入ったばかりのころは湖畔育ちのクールっ子だったからねー」
久里浜さんが飄々と言った。
「否定はしないわ。それで、本牧は、どうやって人間らしさを培ったの?」
「主に遊びですね。特に女性から習うことは多かった。知ってます? 浜辺にいるビッチギャルにもけっこういい子はいるんですよ。彼女たちとは遊びの付き合いでしたが、スポーツとか遊技も教えてくれましたし、何より自由で楽しそうに生きて、空の色、風の香り、波の音、美味しい食べ物、肌の温もりを感じさせてくれました。それは僕にとっては掛け替えのない財産です。学力や学歴よりもずっと大切なものを、たくさん教えてくれました。ただ自由過ぎた彼女たちは脇が甘かったので、その後は苦労の日々が待ち受けていたようですが……」
「そうね、学力のなさすぎも、それはそれで困るわね」
「はい、人生は全体のバランス、プロポーションが大切みたいです」
それが絶妙なのが、いま僕の横で「うーん、美味しい!」と肉を頬張っている彼女、衣笠未来。
彼女はきっと、実家の周辺で動物や虫と触れ合って、風を感じて、美味しい空気を吸って、勉強もそれなりにして、いや、けっこうしているか。彼女の両親も、僕はなんだか恐怖を感じる。
そんな彼女の心を支えてくれたのが、あのお祖父さんお祖母さんなのだろう。
だからお祖父さんを失った彼女はいま、自らの未来を恐れているのではなかろうか。
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更新日が遅れ大変恐縮です。




